617 「のどかだねえ……」「そうかしら?」
血糊の撤去作業も終わり、楽市はまだ南でやる事があると言って、帝都へ戻っていった。
狐火となって飛び去っていく楽市たちを、シノに肩車されたチヒロラが見送る。
火の玉へ大きく手を振り、元気いっぱい叫んだ。
「またですーっ、またなんですーっ!」
その顔は、にっこにこだ。
「また明日なんですーっ」
そうだ。
また明日。
また明日と言えることが、どれだけ幸せなことか。
楽市たちがどんなに遠く離れていようとも、チヒロラは自慢の時速500キリルメドル飛行でひとっとびである。
チヒロラは大陸の端から端まで、日帰りが可能なお子様だった。
朝、ベイルフで起きてひとっとび。
60ミル(分)ちょいで、現場に着いてお仕事。
そしてその日の夜や、次の日の朝にベイルフへ帰る。
チヒロラは大陸を飛翔し、お仕事をする通勤幼女なのであった。
シノは自分の頭の上に乗り上げて、元気に手をふるチヒロラを興味深げに見つめる。
肩車されているのにぴょんぴょん跳ねようとする、チヒロラの重みを肩で感じた。
ほんの少し前だったら、チヒロラは楽市たちと離れるのが寂しいと泣いていたのに、今ではにっこにこでお見送りだ。
それがシノには感慨深い。
「少し重くなったようだね、チヒロラ」
「チヒロラ、重くなりましたか?」
「そうだとも、チヒロラは少しずつ大きくなっているのだよ」
「チヒロラ、大きくなりますかーっ」
「なるとも」
「へへへー」
「なる」と言われて嬉しくなり、更に跳ねたがるチヒロラだが、思い出したように上からシノの顔を覗き込む。
「お師さま、タミエラはどこですか?」
タミエラとは、チヒロラが妹分として可愛がるフィア・フレイムドラゴンの赤子だ。
「タミエラかね? タミエラは城の赤子たちの所に預けてあるんだ」
「じゃあみんなで、お迎えにいきましょうっ。
チヒロラ会いたいですー」
「ふむ……そうかね、では皆で迎えにいこうか」
「はいっ」
シノとキキュールに、休憩など必要ない。
けれど血糊の処理も終わり、一区切りと言ったところである。
そこでキキュールにも声をかけ、休む事にした。
チヒロラがいるから休息する。
“刷り込み”によりチヒロラを大切に思うシノにとって、チヒロラとの時間も大切だからだ。
チヒロラは城へ着く間、肩の上からシノとキキュールへ、“天空”のことや“帝都”の話をした。
シノとキキュールは楽市から粗方聞いていたが、チヒロラから聞く話はまた新鮮なのだ。
チヒロラが何を見て、何を感じ、どう頑張ったか。
それはチヒロラ視点の、チヒロラの物語なのである。
「あーぎさんと、川の中をめちゃくちゃ走ったんです。
ほんとにほんとに、一杯っ。
そしてそれはですね、チヒロラとあーぎさんしか出来ないんですよっ。
へへへ」
「ほほう、チヒロラとアーギくんしか出来ないのかね」
「そうなんですーっ」
シノが興味深げに合の手を入れると、チヒロラが益々上機嫌となる。
「それでですねー、その川がすっごく汚くて臭いんですっ。
でもベイルフに帰ってきたら、やっぱりベイルフの方が臭いって思いました。
やっぱり凄いです、ベイルフの勝ちですっ」
「ふふふ……それは勝ってないだろー」
「キキュールさん、これは勝ちなんですよっ」
カニポイと小さな尻尾たちの話を聞いて、気持ちを引きずっていたキキュールが微笑んでいた。
笑うだけの元気を、チヒロラから貰ったと言うことだ。
チヒロラとのやり取りは、キキュールの憩いの場でもある。
シノはチヒロラの物語をもっと聞いていたいから、城までの道のりをワザとゆっくり飛ぶ。
チヒロラ特急号ならぬ、シノ鈍行号である。
三人でとりとめも無くお喋りしていたら、城に近づくにつれて、獣の赤子の元気な鳴き声が聞こえてきた。
キキュールがタミエラの声も聞こえるかもと、獣耳を済ます素振りを見せると、チヒロラも面白がって真似をする。
そんな二人の他愛ないやり取りが、シノにとっての憩いだった。
めるるる~
ぱっふぱふぱふぱっふ
びびびびびーっ
もーんもんもんもん
きゅる~ん?
*
次の日の昼下がり――
とある青々と萌ゆる草原で、サンフィルドとリールーが寛いでいた。
和毛のような若草に二人で座り、リールーがお茶の用意をしている。
「ルスギナ茶でいい?」
「何でも、かまわねえよ」
サンフィルドは昨日芽吹いたばかりであろう草原の匂いを、肺の奥に吸込みゴロリと寝転がった。
「のどかだねえ……」
「そうかしら?」
草原と言ってもここはなだらかではなく、その表面はぼっこぼこだ。
そこに水が溜まって至る所が池となり、昼間の日差しを反射してきらきらと輝いていた。
他にも墓標のように突き立つ、無数の黒い大槍。
少し離れた所には、泡ぶくがそのまま固まったような黒い山があった。
本当に泡そのもののように少し透き通っており、日差しが当たって、池や槍とともにてかてか輝いている。
一見のどかだが、確実に異質な風景。
ここは少し前、カニポイとフーリエの軍団が激突した場である。
元は森が広がっていた地帯だ。
大陸の南端にも国つ神が分祀され、この場所も森として復活するはずだったが、恐炎妖精によるドラゴン由来の魔炎で草木が灰となり、育ちが悪いのだろう。
そんな場所で、サンフィルドとリールーは茶を楽しむ。
傍らに寝かせた、イースの死体と共に――




