605 きょうは、おそとで、なにをしていたの?
それは心象の海に咲く、八重のほころび。
幾重にも重なった“♡”の花弁が開き、桜色の花を咲かせている。
中央には花弁が開かぬまま、丸く残った部位があり、楽市たちはその中に居た。
茎を通して大カケラと繋がった桜色の大輪に、本体から溢れんばかりの“愛”が送り込まれる。
それは大カケラが、ひたすら黒き国つ神に抱きしめてくれと願う“欲求”。
そしてそれに応える、国つ神のじっとしていろと言う“束縛”。
両神とも、いささかドロリとした執着と言えるだろう。
だが愛とは大概、そういうモノではないだろうか。
それが濃いか薄いかの、違いだけなのではないだろうか。
本体から茎が伸びて先端に実った“♡マーク”は、二柱から程よく離れて、二柱の想いが心地よく溶け合った代物だ。
それは、二柱の欲望が昇華された“愛の精粋”。
――と言えなくもない。多分
「ふあー?」
カニポイには、何が起きたのか分からなかった。
突然に桃色の人から、春の如き風が吹き始める。
と言っても物理的な風ではなく、それに酷似した何かが微笑みから放射されていた。
カニポイには分からぬ話だが、桃色の人を通して、大カケラの思いが溢れ出ているのだ。
溢れ出る思いは、“欲求”と“束縛”。
それが桃色の人を通すことにより、“欲求”が、“子を求める気持ち”へと転化した。
同じく“束縛”が、子を思う気持ちに付随する“包容力”へと転化し、桃色の人からカニポイへ放射される。
今カニポイは溢れ出る“母性”を、体全体で受け止めているのだっ。
しかし大カケラや国つ神からして見れば、これは全くの誤認である。
カニポイの勘違いと言っていい。
けれど昇華された欲望というものは、純粋な愛情と瓜二つだった。
それを見分けるなど、カニポイにはできない。
恐らく誰にも“欲と愛”の違いは、見分けられぬかもしれない。
「なにこれー!?」
突然浴びせられた愛情の奔流にカニポイは大いに戸惑い、向かいで獣がしゃも口をあんぐりと開けて固まっていた。
そして同じく、桃色の人の中でも――
霧乃たちが、楽市によじ登る。
大カケラから流れ込む“母性”に、子供たちも感化されていた。
楽市に触れたくて、くっつきたくて、もうそんな気持ちになったら登るしかない。
(らくーち、こっちこいっ)
(らくーち、うーなぎを、みろっ)
(あーぎも、みてーっ)
ちなみに楽市はもう黒の小袖に着替えており、登りやすいと霧乃たちに好評だ。
そんな皆がほくほくする中で、チヒロラだけが楽市の腹に頬を寄せつつ、しょんぼりと呟く。
(……お師さまに、会いたいですー)
やはりチヒロラにとっての“おかあさん”は、エルダーリッチのシノなのだろう。
シノを恋しがるチヒロラに、他の姉妹たちが、楽市の背中や腹を移動しながら集まってくる。
(チロ、きりが、ぎゅっとしてやるっ)
(おしさま、がしゃっぽくて、かっこいいもんなっ)
(チロ、なかないでー)
楽市は逆さまとなっている霧乃の足の間から、チヒロラを見つめた。
(終わったら、ベイルフに帰ろ。
今日何があったか、どれだけチヒロラが頑張ったか、シノさんに話してあげようよ。
ね、チヒロラ)
(らくーちさーんっ)
楽市がチヒロラの背中をぽんぽん叩いていると、楽市を呼ぶ声がする。
(ラクーチ様ーっ)
(ラクーチ様っ)
顔を上げて見てみれば、心象の薄闇の中を駆けてくる松永の姿があった。
その銀灰色の背中には、パーナとヤークトが振り落とされないよう、しっかりとしがみ付いている。
楽市の元まで着くと、パーナとヤークトが背中からずり落ちた。
二人は片膝を立てしゃがみ、楽市へ首を垂れる。
(ああ、そんな畏まって、頭なんて下げなくて良いから。
それでどうだった? 向こうの様子?)
楽市の問いかけに、パーナとヤークトが顔を上げた。
すると二人の瞳が潤んでおり、今にも涙が零れそうだ。
そんな顔を見られたのが、恥ずかしかったのだろう。
パーナとヤークトは、照れたように泣き笑いの顔をする。
(ラクーチ様、ありがとうございました。
みんな喜んでいますっ)
(あの子たち嬉しそうに、ぶんぶん尻尾を振っていました。
それを見ていると、あたし……)
ヤークトが再び顔を伏せて、肩を細かに震わせた。
初めに気付いたのは、ヤークトだった。
ヤークトが小さな尻尾たちの気持ちに寄り添い、気づいてくれたから、今こうして桃色の巨人を皆で操っている。
ヤークトそしてパーナには、楽市以上にあの幼い尻尾たちに思いがあるのだ。
それは彼女たちが尻尾たちと同族であり、どこかの時代で出会えたかもしれない、兄弟や姉妹たちだからだった。
パーナがヤークトにぴったり寄り添って、こっちは堪えきれずにぽろぽろと涙を零ぼす。
楽市は霧乃たちをぶら下げたまま、パーナとヤークトの前にしゃがみ込んだ。
二人の手を取りじっと見つめる。
(パーナ、ヤークト。まだ泣くのは早いよ。
ここからが大切。
あたしと一緒に、巨人の顔を動かすの手伝ってくれる?)
(はい、ラクーチ様ー)ぽろぽろ
(お任せください、ラクーチ様)ずずー
鼻をすするヤークトの横を松永が通り、楽市の脇腹にしがみ付く朱儀の顔をぺろぺろと舐め始めた。
ぺろぺろぺろぺろぺろぺろ
(ぶっふ)
(まーなか、くすぐったーい)
朱儀はうひひと笑って楽市から離れると、松永の首に飛びついた。
松永は朱儀をぶら下げたまま、楽市の隣へごろんと横になる。
楽市が松永の鼻先へ手をやると、松永がその手もぺろぺろと舐めてくれた。
(ふふっ……さあ、みんなっ。
おっきいキキュールの掌に、気持ちを集中しようっ。
掌を通して、“おかあさん”の声を伝えちゃうよっ)
カニポイの背中を支える、桃色の人の掌。
その掌がじんわりと、温かくなってくる。
カニポイは、この感覚を知っていた。
“らくーちー”とお喋りしたとき、自分の手に添えられたらくーちーの手が、じんわりと温かかったのだ。
桃色の人が、何かを伝えようとしている?
「なにー」
カニポイが大きな頭を傾げると、桃色の人がにっこりと笑ってくれた。
その唇がゆっくりと動き始める。
それは声にならない声。
けれど背中のじんわりを通して、はっきりと伝わってきた。
ねえ、
きょうは、おそとで、なにをしていたの?




