472 あたしには、あの子たちを止められない
驚かないのと聞かれたら、そりゃ驚いたと答えるだろう。
だがしかし。
すでにそれ以上の驚きと感動をもって、楽市の幻を見ていたものだから、驚きの度合いがフワフワしていた。
森を呼べる驚きの量が10だとしたら、天変地異の驚き量は100くらいあり、
差引-90。
何かこう、子供たちは大損した気分だ。
この損した気持ちを何とかしてくれないと、「森が呼べる凄いっ」と素直に驚けない。
ちらりと見るイカがしゃは、何の変化も起こしてはくれなかった。
楽市がこんな仕打ちをしておいて、キョトンとしている所も腹立たしい。
「らくーち、きりの、びっくりが、変なままだーっ!」
「らくーち、うーなぎのを、何とかしろっ!」
「あーぎ、なんか、もやもやするーっ」
「ぶ……」
「えっとえっと、チヒロラはこの気持ちを、どうしたら良いんでしょうかーっ!?」
「え、何が?」
このように心の葛藤が溢れる中で、ただ一人豆福だけは違った。
なぜなら「森を呼ぶ」とは、豆福が生涯追い求めるライフスタイルだからである。
「ぶ……ぶ……ぶああああっ! らくーちーっ!」
豆福はドラゴンの山脈を越えてこっちにきて以来、度重なる森林破壊をその小さな体でキュッと受け止め耐えてきた。
仕方がないことだと、楽市にあやされ耐えてきたのだ。
それが今、楽市の一言でひっくり返ったのである。
“ここまで、北の森を呼べますよ”
それを知った今、豆福は歓喜の涙を流し楽市の脇腹へこすり付ける。
「ぶああああっ、らくーちー、もーりーっ。
まめの、ぶああああああああっ!」
「うんそうだよ……豆福の森だよ。
今までごめんっ、ずっと辛い思いをさせて」
楽市が右脇にすがりつく幼子へ語りかけると、顔を上げた豆福と楽市の間に、豊かな鼻水のアーチが掛かっていた。
豆福の心を映すかのように、アーチがキラキラしている。
末っ子の涙は、姉たちの凍えた心を溶かす。
あれほど大損した気分だったのに、豆福の涙を見ていると、何か暖かいものが込み上げてくるのだ。
その気持ちを伝えようと、霧乃たちが楽市の上を移動して右脇へよった。
衿元が思い切り右へ引っ張られて、胸元が見えたけれど、それはコラテラルダメージである。
「まめ、やったなっ!」
「まめ、よくやったっ!」
「まめー、よかったねーっ!」
「まめさん、泣かないでー。ぐすん
本当に良かったですーっ!」
霧乃が豆福の髪の毛をわしゃわしゃしながら、楽市を見つめた。
「らくーちすごいっ、何でこんなこと、できんのっ!」
こんな事とは、国つ神を呼び寄せる事。
楽市は、困ったように目を逸らした。
「これは……あたしの力って訳じゃないんだよ。
……誰かがあたしに、囁いたの」
思わず北の空を、すがるように見つめる。
楽市は気づくと誰かと喋っており、分祀のことを伝えられたのだ。
分祀が、この世界でも可能なのかと驚かされた。
それは声なき声。
言葉と認識はしたが、音ではなく心象でのやり取り。
「だれって、だれ?」
「う~ん……」
楽市がうんうん唸っていると、夕凪が催促してくる。
「らくーち、いいから、やっちゃえっ!
まめの森、よんじゃおっ!」
「それなんだけど……んんっ」
「なになに?」
楽市の言い淀む歯切れの悪さに、夕凪が首を傾げる。
すると楽市の尻尾にしがみついている、ヤークトが声をかけてきた。
「ウーナギさん。
ラクーチ様は多分、カニポイガシャのことを考えてらっしゃるのかと……」
「あっ」
「マメさんの森は、この帝都で死んだ者たちも復活させると思います。
そうなるとカニポイガシャの無念はどうなるのかと、ラクーチ様はお悩みなのだと思います」
「おやなみーっ!?」
夕凪が楽市を見つめると、楽市が寂しげな笑みを浮かべた。
「初めあたしは、止めようと思ってたんだ。でも今は……
夕凪……あたしも皆と一緒なんだよ。
あの子が一身に背負っている、獣人たちの想い。
それを思うと……」
楽市は目を瞑り、ナランシアの顔を思い浮かべる。
「パーナやヤークトを見て思うんだ。
ダークエルフがどれだけ獣人にとって、大切なのかってさ。
すごく伝わってくる。
多分獣人にとって、ダークエルフは親なんだよ。
けれどそのダークエルフをどうしても殺さなきゃいけない程、あの子たちは憎しみで一杯になったんだ」
楽市の言葉を聞き、パーナは震える下唇を噛み、深くうつむいてしまう。
ヤークトは深く呼吸をしたあと、楽市の背中を瞬きせず見つめた。
その背中は舞いを見せた幻とは違い、丸くすぼまりうな垂れている。
「そこまで追い詰められたって思うとさ……あたしには無理だよ。
……あたしには、あの子たちを止められない」
*
陽の差し込まぬ、暗い裏道。
陽が当たり、明るく解放的な大通り。
崩れた家屋、用水路、教会前の広場。
帝都のいたる所で、死体が折り重なり横たわっている。
その中でもぞりと動き出す死体が、あちこちに見られ始めた。
殺害されてまだ一日も経っていないのに、遺体のゾンビ化が始まっているのだ。
動く屍は、とぐろを巻く漆黒の尻尾に魅せられて、折れ曲がった足を引きずり歩き始める。
北の魔女、楽市の元へ――




