341 乳房が二人の前で揺れていた。 男たちの時間がしばし奪われる。
イースは前方を見据えたまま、サンフィルドへ語りかける。
「ここまでね……」
「ああ……」
「北の森の力で作り変えられる、多くの獣人を見て来たでしょ?」
「そうだな……」
「これさ……このまま行ったら、どんどん増えるよね?」
「そうだろうな……」
「う~ん……」
イースは唸り、そこで語るのを止めた。
いつまで経っても話さないので、サンフィルドは痺れを切らす。
「おい、ちょっと待て!? 考えている事って、それだけか!?
そんなの、俺だって思ってたぞっ!?」
「うん……あたしも思ってた。
ねえイース、サンフィルド、ちょっといい?」
途中からリールーも会話に混じり、二人をちょっとと呼ぶ。
イースとサンフィルドは、それだけで分かったようで椅子から立ちあがり、リールーへ近づいた。
リールーが雫を滴らせて立ち上がり、脇へ退くと、男二人でタライを持ち上げ、汚れた水を外へ捨てにいった。
戻ってくると、二人は空になったタライをリールーの傍に置く。
彼女は再び、タライの中で体育座りとなった。
サンフィルドが白い珠を胸ポケットから取り出し、リールーの真上へ掲げる。
輝く瞳で念を込めると、サンフィルドの手から水が溢れ出し、リールーのお団子頭へ降り注いだ。
タライを水で一杯にしたら、珠を胸ポケットへしまい込む。
リールーがお団子をほどくと、血で汚れた銀髪がすべらかな背中へ広がった。
彼女は銀髪を手ですいて胸元へ垂らし、前かがみとなる。
「イース、お願い」
イースは頷くと泡立てた手で、リールーの背中を優しく撫で始めた。
指を肩甲骨や背骨にそってはわせ、こびり付いた血糊を洗い落としていく。
イースは蜂蜜色の肌を見つめながら、話を続けた。
「話は、まだ終わってないんだ。さっきの話を、踏まえてなんだけど……」
「なんだ?」
「なに?」
「フィア・フレイムドラゴンの巣で、シルミスが言ってたでしょ?」
「何だっけ?」
「話して」
「ほら。あの魔女は、北の森の“守護人格”だってさ」
「ああ……」
「続けて」
「魔女は自分で違うって言っていたけど、僕はシルミスの見立ては、大体合っていると思うんだよ。
魔女は北の森の意思を、強く受けていると思う。
そこでなんだけど、あの“マメフク”と言う魔女の眷族だよ」
「あの、黄緑色のガキか?」
「そうそう。あの子供は、ヤクトハルスの守護人格だって言うじゃないか。
つまり現状、森の頂点ヤクトハルスを、北の森が従えていることになる。
そしてヤクトハルスは、その下で北の森を広げまくっている……今もね。
……あ、リールー。
背中の血は洗い終わったよ」
「イース、ありがとう」
リールーは前かがみのまま、泡立てた手で銀髪を洗い始めた。
「イース、サンフィルド、傍にいてね。話が聞こえ辛いから」
「んっ」
「おうっ」
イースとサンフィルドは、その場へ座り込む。
リールーが手を動かし、髪を洗うものだから、前かがみの乳房が二人の前で揺れていた。
男たちの時間が、しばし奪われる。
「…………」
「…………」
何もかもが忘却した世界の中心で、男たちはリールーが形づくる曲線の神秘を――
おっとサンフィルドの意識が、先に戻ってきたようだ。
「……でイース。ヤクトハルスが何だよ?」
「あっうん……そこなんだよー」
「どこだよ」
「ねえ二人とも、“ヤクトハルスの伝承”は知ってるかい?」
「知らねえ」
「話して」
「何十億年も昔の話だよ。
神話の時代よりも前になる。
その時代、この世界の木々は紫色だったそうなんだ。
吸っている空気も、全く違うものだったみたい」
「紫? 空気?」
「続けて」
「でね。その世界にある日、ヤクトハルスの巨樹が、別世界から転生してきたと言うんだ。
ヤクトハルスはこっちの世界で根を張って、水を吸い上げ、呼吸を始めたんだよ。
そしてヤクトハルスの吐く息は、この世界にとって猛毒だったらしい。
毒の息は少しずつ広まっていき、ヤクトハルスの根本からは、眷族である緑の草木が広がっていったそうだよ。
それを十数億年続けて、ヤクトハルスはこの世界を、紫色から緑色の木々に作り変えてしまったんだ。
それまでいた生物たちは全て死滅して、ヤクトハルスから湧いた生物が世界を覆いつくした。
その生物っていうのが、つまり今この世界にいる、生物の事なんだけれど……」
「ちょっと待ってくれよっ。
神話より昔の話が、何で残ってんだよ!?
神より前にダークエルフも何も、いやしねえだろっ!?」
「そうなんだよねえ。
一応ヤクトハルス自身が、語ったことになっているんだけど……
余りにも突飛でマユツバな話だから、帝都図書館のスミで、埃まみれになっているような伝承なんだ。
僕はそんな珍品、奇品の話が好きだから、集めているんだけど……」
「何だよ、やっぱマユツバかよっ」
「イース……そういうの好きだものね」
「うん大好きなんだ。
でね、僕はその伝承が、どうしても頭によぎるんだよ。
なぜかと言うと、今目の前で乳……いや北の魔女がヤクトハルスを従えて、北の森を広げているからなんだ。
かつて世界を作り変えたという巨樹と組んで、今また北の森が、世界を作り変えようとしているんじゃないかと思ってしまうんだ。
猛毒である瘴気を当たり前のように吸う、新しい種族が、この世界を覆おうんじゃないかって……」
「なっ、まじかっ!?」
「…………」
興奮して一気に話し終えたイースを、リールーが輝く瞳で、静かに見つめていた。
前髪から雫が落ちる。
リールーは、瞬きせずに問う。
「でイース……あなたはそれを踏まえて、どうするつもりなの?」
「どうするって……う~ん……」
イースは暫く目を瞑る。
いつも話を急かすリールーが、イースの言葉をじっと待っていた。
イースは目を開け、真剣な顔をする。
「今まで通り、見続けるしかないよ。
悔しいけれど、僕には止める手立てが分からない。
だからせめて、この先なにが起ころうとも僕は見続ける。
それが、僕の任務だからね」
強く見つめ返してくるイースに、リールーは微笑み、サンフィルドは肩をすくめた。
「じゃあ……いつも通りね。あたしはあなたに付いて行くだけ……」
「いつも通りかよ、変わんねー」




