336 北の瘴気に魅せられて、誰に教わるわけでもなくそこを目指す。
血の沼地でのたくる、獣人たちの叫び声。
その叫びが大きなうねりとなり、取り返しのつかぬ大恐慌となる手前で、それは顕現した。
獣人たちは視認する前に、肌でその存在を知覚する。
全身を包み込む、圧倒的な安堵感。
誰もが叫ぶのを忘れて、そちらへ振り向く。
するとすぐそばで、巨大な黒蛇が鎌首をもたげて、上空からのしかかるようにこちらを見つめていた。
黒蛇の頭には目も口もなく、のっぺりとしている。
ウロコのない巨躯には、金の流紋が幾筋も走り、まるで金色の河をまとったかのようだ。
巨大な蛇は全身からドス黒い染みをまき散らし、白く煙るもやを追い流して、辺りを闇に変えようとしていた。
黒い繭から萌芽したばかりの獣たちは、ただただ黙って、黒い後光を浴びながらその場へ跪いてしまう。
そんな獣人たちの目の前に、赤い聖母像がせり上がってくる。
全身赤黒く、血塗られた獣人の女だ。
巨大な黒蛇を付き従えるように、女は辺りを睥睨する。
先ほどまで泣き叫んでいた獣人たちの心に、もはや恐怖はなかった。
沸き立つ黒い瘴気が、獣人たちの情緒を捻り伏せるかの如く、強引に切り替えたのだ。
獣人たちの心は今、強者に庇護される安堵感で、だらしなく呆けていた――
*
ベイルフの城壁を、取り囲むように敷設された石畳の道。
そこを大型の荷車が、北へ向かって走っていた。
荷車を引くのは、
ツヤツヤな灰色の毛並みを持つ、一角の肉食獣“松永”である。
かなり大きな荷車で、通常なら数頭引きとするところだが、松永一体で軽々と引っ張っていた。
御者台に座る血みどろのイオが、すまなそうに松永へ話しかける。
「すみません松永さん。
普通のウマル(馬に似た家畜)だと、ゾンビを怖がっちゃって走ってくれないので、こんな事を頼んじゃって……」
イオの言葉をどこまで理解しているか分からないが、松永は一本角をゆるりとくゆらせた。
ぶっふふーっ
イオはちらりと、後方の荷台を見る。
そこには先ほどゾンビ化したばかりの、血糊で真っ赤に染まった、二十三体が乗せられていた。
荷台の手前にクローサ、後方にヤルナとサバルが乗っており、ゾンビたちが荷台から落ちないように見張っている。
ぱっと見、全員赤黒くて誰が誰だか分からない。
石畳の振動が荷台へ伝わる度に、ゾンビたちの頭がカクンカクンと揺れるので、辛うじてクローサたちとの違いが見てとれた。
「う゛~あ゛あ゛~」
ゾンビたちは荷台が揺れても構わず、折れた手足で立ち上がろうとする。
ヤルナがそれを慌ててとめた。
「危ないってっ」
「う゛あ゛~」
よろめいた所を支えられた少年のゾンビが、濁る目で不思議そうにヤルナを眺める。
「あ゛~あ゛~う゛~????」
「うんそうそう、あ~ぶ~な~い~」
ヤルナは自分で、何を言っているのだと思う。
もうゾンビとなってしまった少年に、これ以上何が危ないと言うのだ?
手足が折れ曲がり、腹の潰れた少年にかける言葉なのか?
それでもヤルナは言ってしまう。
よろけて頭をぶつけないように、危ないからと……
「危ないからさ……ごめんね……
ごめん……助けてあげられなくて。
ごめん……ごめんなさい……」
見かねたサバルが、うつむくヤルナの肩へ手をかける。
「ヤルナ、あんたが謝ることじゃないって。
もうベイルフに付いた時には、この子死んでたんだからさ。
それ違うと思うよ……」
「分かってる、分かってるけどさあっ。
ああ~っ、もお~っ、わっかんねーっ!」
ヤルナが感情を高ぶらせて語彙力を無くしていると、不意に背中から力強い波動を感じた。
ヤルナだけではなく他の乙女たちも感じたようで、皆で南へ振り返る。
松永も走りながら、ぶふふんっと鼻を鳴らした。
サバルが南の空を眺め、目を細める。
ちょうど城壁に遮られて見えないが、何が起きたのかは分かった。
「この距離でもハッキリと分かるんだね、ラクーチ様の御力……
凄いものだよねえ……」
黒き瘴気をまき散らす、楽市の巨大な尻尾。
感じ取ったのはヤルナたちだけではなく、荷台のゾンビ全てが楽市の後光を感じ取り騒ぎ始めた。
立ち上がり後光の差す方へ向かおうとするので、ヤルナとサバルがワチャワチャする。
「ほら危ないってっ、皆立たないでっ、落っこちるからっ!
クローサ早くあれやって、ほら早くーっ」
「危ない、危ないっ、皆しゃがんでっ。
クローサあれやってっ、うひゃうっ……」
「ちょっと待ってっ、えっとえっと、ティア・テ・メルトスっ。
えっとそれから、ハツクアロの湖畔っ。
ハニッツの島っ。
何だっけえっと、アハカ・テ・ファレスっ!」
クローサが発動に必要な言葉を唱えると、左手の薬指にはめられた“死者のリング”が効力を発揮する。
これはキキュールから借りた、死霊魔術のマジックアイテムだ。
基礎知識がなくても合言葉さえ言えば、お手軽に高位の死霊魔法がつかえる優れものである。
クローサが左手をかざして「しゃがめっ」と叫ぶと、荷台のゾンビ全てが大人しくしゃがんだ。
荷台の縁に寄りかかり、クローサはホッと一息つく。
「これ……合言葉が長すぎるよ、キキュールさん……ふう」
ヤルナとサバルも荷台の後方でしゃがみ込み、ハアハア言っている。
「ハアハア……ねえサバル。この魔法、私たちにも効いてない?」
「ふうふう……私たちもアンデッドってことかあ……運命感じちゃうな……」
イオが、御者台から振り返った。
「みんな大丈夫っ!?」
「大丈夫、イオこのまま行ってっ」
クローサが応えるとイオは前を向き、手綱を握り直す。
「マツナガさんっ、このままお願いしますっ」
ぶっふーーっ
南の城壁からベイルフをぐるりと迂回し、北の城壁を通り過ぎ、更に北へ走った所で荷車を止めた。
クローサたちのうなじに、チリチリと感じていた楽市の後光も、ここまで来るともう届かない。
クローサたち四人は荷台から飛び降りると、手分けして一体ずつ、ゾンビを地面へ降ろしていく。
中年のゾンビ、子供のゾンビ、老人のゾンビ。
皆で抱えても、大人しくされるがままだ。
抱える側も、抱えられる側も、お互い血みどろである。
ゾンビの腐臭など、とうに鼻がバカになって気にならなかった。
全てを降ろし終えても、ゾンビたちはしばらくボンヤリとしてその場を動かない。
表情は虚ろだが、朝日の中でポカンとする、その様子が可愛らしく感じてしまう。
少し前ならゾンビが可愛いと思えるなど、考えられない話だ。
四人で黙ってその様子を見つめる。
するとゾンビは、一体また一体と北へ顔を向け、折れた手足でゆっくりとにじり始めた。
北の森の瘴気に魅せられて、誰に教わるわけでもなくそこを目指すのだ。
北の森から溢れ出す瘴気は、アンデッドにとって万能と言うわけではない。
豆福の呼び出す森は死者を復活させるが、すでにアンデッド化したものは、そのままなのである。
再びクローサたちのようには、なれないのだ。
楽市が尻尾を出すまでの、三十ミル。
その僅かな時間が、クローサたちとゾンビの間に決定的な違いとして現れた。
せめてものと、楽市の瘴気に惑わされぬ山の麓まで送ったら、クローサたちに出来る事はもう何もない。
ゾンビたちは、赤子のように少しずつ這い進んでいく。
いつの間にかクローサ、イオ、ヤルナ、サバルは、その背中を応援していた。
声に熱が籠る。
「……がんばれ」
「どうか無事に……」
「がんばれっ! がんばれっ!」
「がんばれ……がんばれ……そう、そのままっ」
ぶっふっ!
北を目指す這いずる跡が、木漏れ日の中へと消えていく――




