196 憤怒の咆哮と、狂った早鐘。
空間を捻じ曲げていた結界が消滅すると、カルウィズ天領地に、四〇〇〇年ぶりの気流が生まれた。
山に挟まれたこの地に、南より暖かな空気が入り込む。
崩壊した黒壁を越えて流れ込む気流は、コケのスロープをゆっくりと登り、天領地に溜まった濃霧を吹き上げていく。
天領地を含め、その周囲に立ち込める濃霧が気流で攪拌されると、もうそれだけで、辺りの霧がぐんと薄くなった。
視界がだいぶ開けてくる。
そうなると、分かることがある。
天領地をはさむ両側の山々より、コケの野原へ幾つもの沢が流れ込んでいた。
これが不思議と清水ではない。
特別に濃い霧が、岩肌を這うように流れ落ちており、“霧の沢”と呼ぶべきものだった。
吹き上がる霧と、沢の霧は全く別物らしい。
その流れは、野原の中央で合流して太い流れとなり、崩壊した黒壁のすき間をぬっ
て、南に広がる林へと入り込む。
その先で大きく蛇行しながら、霧の大河を形成していく。
流れの一部は、
「大質量の強引な槍」が作ったクレーターに溜まり、霧の湖を作っていた。
*
(ぐーぐー)
(むにゃむにゃ)
(くーくー)
(すーすー、むー、すーすー)
(うぐ……むぐ……ふああ……)
楽市は心象内で眠気を必死にこらえながら、辺りを警戒していた。
(ふああ……)
楽市の周りでは、霧乃たちが可愛い寝息を立てている。
眠ってしまうのは、無理もないだろう。
子供たちは、小さな体で徹夜したのだから。
あれほど怒っていた豆福が、真っ先に寝オチしていた。
霧乃たちは、一晩中雷撃を受け続け、
楽市の特濃瘴気を浴び続け、
最後にはみんなで、力いっぱい綱引きをしたのだ。
寝オチして当然である。
戦闘中は眠気など吹き飛んでいたのだが、今行っている“壁ごっこ”で、完全に緊張が途切れてしまった。
すると激烈な眠気が子供たちを襲い、スイッチを切るように、四人は眠りに落ちていった。
(ふああ……あっふ)
楽市はアクビをしながら、霧乃たちの頭をなでる。
なでながら、もう一つ大きなアクビ。
(ふあああ……あ……やばい、あたしが寝たらやばい)
霧乃たちは良いとしても、楽市はそうは行かない。
楽市が寝てしまうと瘴気の噴出が止まり、巨人楽市が元の“角つきがしゃ”に戻ってしまうのだ。
まだ戦闘の最中であり、瘴気の武装を解くわけには行かない。
(ふあっ……あふう、ずずー)
アクビが連続で出るものだから、涙と鼻水も勝手に出てくる。
楽市は鼻をすすりながら、眠気覚ましに外へ出る。
まだ戦闘中なので、慎重に、しんちょうに……
黒い尻尾で自重を支えて、空中を進む。
瓦礫と瓦礫の間を、隠れながらスルスルと進んだ。
厚さ三十メートルの黒壁の瓦礫群は、ちょっとした渓谷のようである。
「ふぐ……むぐ、あっふ……ずずー」
楽市はひときわ大きい瓦礫から、向こう側を覗く。
その先は爆撃で荒廃した林が広がっており、そこには十数体のドラゴンが、うずくまっている。
楽市は二時間前にも、コッソリとその様子を伺っていたのだが、ドラゴンたちは二時間前と全く変わらない姿で、そこにうずくまっている。
「う~ん……ずずー」
楽市は、頭を引っ込めて考える。
「見た限りじゃドラゴンはあんなだし、あっふ……
もう壁は動いてないし、何か起きる気配もなさそうだし、そろそろ動くころかな? ずずー」
けれど――
「もう少しだけ、あの子たち寝かせといてあげたいなー……あっふ」
楽市はそう言って背を伸ばし、アクビを噛み殺した。
四〇〇〇年ぶりに気流の生まれた、薄霧の中。
巨人楽市が、ひときわ大きな瓦礫の上にガシリと立つ。
目の前には荒廃した林。
すでに姿は、毛虫から美人の楽市さんに戻っていた。
楽市の立つ黒壁の瓦礫は、大きなまま崩れず倒壊しており、高さ三十メートルのちょっとしたステージのようになっていた。
楽市の両脇には巨大スケルトンたちが、何かのグループのように立ち並んでいる。
その並ぶ姿に、うな垂れていたドラゴンたちが、ポツポツと気付き始めた。
長い首を曲げて、瓦礫の上に立つ楽市を見る。
するとドラゴンの生気を失っていた赤黒い瞳が、次第に光を取り戻し、その目に憎しみを灯はじめた。
財宝を理不尽な形で失い、呆然としていたドラゴンたちが瞳をギラつかせる。
どこにぶつけて良いか分からない感情を、思い切りぶつけられる対象がそこにいた。
宮殿の崩壊は、楽市がやったわけではない。
あの谷に響いたサイレンは、紛れもなく黒妖門から発せられていたのだ。
それに呼応して、宮殿の尖塔が飛び立っていった。
それはダークエルフが、ドラゴンに何も知らせず、あんな細工をしていたという事である。
しかしだ――
そもそも楽市が来なければ、この様な事にならなかったのではないか?
心のどこかで、宮殿にあのような細工をした、卑劣なダークエルフへの憎悪がゆれる。
けれどその小さな気付きは、激情の渦に押しやられた。
とにかくこの理不尽な仕打ちに対して、相手の血をもって贖わせなければいけない。
それもたった今だっ!
うずくまっていたドラゴンが、一体、また一体と立ち上がり、楽市を睨み吠えたてる。
三十メートルもの巨体たちが一斉に吠え始めると、辺りの大気が振動し、楽市の頬をビリビリと振るわせた。
これに対して楽市の両脇に立つ、巨大スケルトンたちも黙ってはいない。
ステージ上から体を大きく揺らして、ドラゴンを威嚇する。
ドラゴンのように声は出せないが、己の拳と拳を叩き合わせて、狂ったように鐘の音を響きわたらせた。
あっという間に、一触即発の空気が湧き上がってしまう。
その中で巨人楽市は静かにたたずむ。 一体何を考えているのか?
グアアアアアアアアアッ!
ガアアアアアアアアアアッ!
ゴオオオオオオオオンッ!
ゴゴオオオオオオオオンッ!
憤怒の咆哮と狂った早鐘の中で、楽市は動かない――