194 天使の輪は、青紫色。
四〇〇〇年、カルウィズの地にそびえていた黒妖門が、鳴動していた。
自重を支えきれず、基礎部分が崩壊していく。
一気に崩れ始めて軽妙な亀裂音から打って変わり、巨大な岩石がこすれ合う、鈍くて重い擦過音へ切り替わる。
その腹に響く轟音は、巨人が奥歯を軋らせているようでもあり、遠くより轟く雷鳴のようでもある。
基礎部が圧迫され、次々と表面が剝離していき、ゆっくりと黒妖の壁は南に傾きはじめた。
(あともう少しっ!)
それだけを念じて、毛虫楽市が這い進む。
体表面から生やした、毛虫アンカーの三分の一を外して、それをもう少し先へと打ち込み直す。
そこを新たな足掛かりとして、楽市は体をにじらせる。
もう少し、もう少し、にじにじ、にじにじ……
すると突然、腰に激しい振動が伝わってきた。
(なに、なに、なにっ!?)
ガクン ガクガク ガクンッ
振動に合わせて、段階的に腰へかかるテンションが軽くなっていく。
(おっ、おっ、おーっ!)
楽市は気付く。
ついに黒壁が崩壊するのだ。
いつの間にか、雷撃もピタリと止んでいた。
(やった! 壁が崩れるよっ!)
楽市が心象内で、霧乃たちに満面の笑みをおくる。
すると子供たちが、楽市の腹へぶつかるように飛び込んできた。
霧乃の頭が、みぞおちのいい所に入る。
(ぐはあっ!)
四人は、楽市の小袖に顔をうずめてイヤイヤした。
その小さな手で、楽市の小袖をギュッと握る。
(あんたたち、一体何をっ!?)
喜んでいるにしては、少し様子がおかしい。
楽市が困惑していると、正面の霧乃が顔をあげた。
その目がなぜか、真っ赤になって潤んでいる。
今にも泣き出しそうな顔をして、唇を噛みしめていた。
(霧乃、どうしたのっ!?)
(わかんないっ!
らくーちから、かなしい気もちが、いっぱい、出てきたっ!)
(えっ!?)
夕凪も、擦り付けていた顔をあげる。
その目が真っ赤だ。
こっちは、泣くというより怒っている。
(よく分かんないっ! むずかしいこと、ばっか、言うなーっ!
わかんない、だろーっ!)
(夕凪!?)
(らくーち、なかないでーっ)
そう言いながら、朱儀が顔をあげた。
泣いているのは朱儀の方で、楽市は別に泣いていない。
楽市の小袖と朱儀の鼻の間に、鼻水のアーチがかかっている。
(朱儀!?)
豆福は顔をあげると、遠慮なく泣いた。
(ぶああああああああっ!)
(豆福!?)
楽市としては何気なく考えていたつもりでも、思いのほか強く考えていたというわけだ。
心象で繋がっている間、弱い感情は伝わって行かないが、強い感情は伝えようとしなくても伝わってしまう。
(あんたたち……)
楽市は先程考えていたことが、伝わったのだと知る。
(あ……あれはさ、あのっ、何ていうか……)
潤んだ瞳で見上げてくる霧乃たちに、楽市が戸惑っていると、上空から一発雷鳴がとどろいた。
それならば、今までの雷撃と変わりはしないが、違う点が一つ。
毛虫楽市の真上に、天使の輪のようなものが浮かんでいた。
それは青紫色に、妖しく輝いている。
(なんだこれ? ……って、うおおおっ、来たあっ!)
楽市が訳の分からない輪っかに、首を傾げていると、尻尾から伝わる劇的な変化に、気持ちが全部持っていかれた。
霧のため、直接には崩壊を見ることができない。
しかし尻尾が、詳細を教えてくれる。
幅二〇〇〇メートル、
高さ六十メートル、
奥行三十メートルの壁が、
魚がしゃの空けたキリトリ線に沿って分割し、基礎部分から上部が南側へ、スライドするようにずり落ちていく。
ドオオオオオオオオオンンッ
黒壁は轟音を響かせたあと、そのままの勢いで倒れ込んできた。
壁の左側寄りに空けられている、“れんこん”部分を中心にして、硬いはずの黒壁がリボンのように捻れていく。
中央にある門は、魔力で切れ目なく閉じられているのだが、その捻じれに耐えられなくて、開閉部から縦に割れてしまう。
黒壁は中央から右側を残して、左側が先に全壊。
遅れて右側も、ゆっくりと倒れていった。
ドゴオオオオオオオオオオッ
倒壊により生じた爆風が、辺りの霧を乱れに乱れさせる。
楽市は倒壊した壁と地面に、尻尾が挟まり顔をしかめた。
(いててっ、抜けない。 このっ!)
身をよじって尻尾を抜こうとする、毛虫楽市の上空で、パンッと軽い音が弾けた。
楽市は僅かな気圧の変化を感じ取り、上空の結界が消滅したことを知る。
壁の轟音と比べたら、何ともあっけない音だ。
(やった、空いたっ!)
楽市は喜び、空に気を取られる。
そんな楽市の袖を、霧乃と夕凪が強く引っ張った。
霧乃と夕凪の目は赤く腫れて、その頬には涙の跡が見える。
しかし二人とも、それ処では無いといった顔をしていた。
(らくーちっ!)
(らくーち、やばいっ!)
(霧乃、夕凪、どうし……あっ!)
霧乃と夕凪が喋るのもまどろっこしいと、二人が感じたものを心象の画像として、楽市、朱儀、豆福に送った。
それは、
巨大、尖ったもの、超重い、高密度、数は数百っ!
(えっ、数百うっ!?)
(ええーっ!?)
(ふぁーっ!?)
楽市は呆然として、毛虫楽市の上に浮かぶ青紫色の輪を見る。
(これ着弾の、めじ……)
楽市が言い終わる前に、霧の中から数百の、
「大質量の強引な槍」が現れ、
光の輪目がけて、着弾していった――