187 妖しの子は思う、もう遊びではないと。
何十もの画と音響を使い、一つの意味をすり合わせ共有する。
その情報量をギュッと圧縮して、楽市の頭の中にある語彙集から、“これかな?”と思われる言葉に変換していくのだ。
一つの意味を、一つの言葉に置き換える。
その言葉はコミュニケーションしたての、幼子のような拙い言葉ではなく、何十もの画と音響の様々な可能性をかんがみて、むしろ堅苦しい熟語として、置き換えられていった。
楽市は問う、
――何用か?
――それはドラゴンの質問だ。
何事で残留するのか?
貴様は言質した。
もう戦意は無いと、帰還すると言質した。
ドラゴンの群衆も、貴様が来襲しなければ、戦意を保持しない。
貴様は速攻で帰還しろ――
ドラゴンは理解できぬと伝えて、苛立ちで頭を揺らす。
楽市はビクついて沈みそうになる体を、グッとこらえた。
――そ、それは変更となった。
――何事っ!――
――ド、ドラゴンよ、安寧しろ。所用が終了次第、帰還する。
――所用とは何事か?――
――現地神への挨拶。
――現地神?――
――ドラゴンよ、敬うべき御方だ。本意で確実に、忘却したのか?
――知らぬ――
――……その議題、今は脇へ置く。
別の議題だ。
この地には、空間を閉鎖する魔力が、実行されているか?
楽市は、石段を滑り落ちる直前に起きたできごと。
その不可解なできごとに、覚えがあった。
ヒノモトでも大昔、妖しや一部のヒノモト人が使用していた術だ。
それは、結界と呼ばれるもの。
結界は“邪”を寄せ付けぬ空間を作ったり、山々に“迷い家”を立ち上げる際、重宝される術だった。
最近で言えばベイルフのキキュールが、北の城壁塔で人ばらいとして使用している。
楽市の問いを受けて、ドラゴンが空を見上げた。
――上部の空間に存在している。
空間の逆転、倒置だ。
貴様は、登山が所望か?――
――そうだドラゴンよ、空間倒置を解放しろ。要求する。
――ドラゴンはその行為に、関知していない――
――むっ、ではどうすれば良策だ?
方策の提案を要求する。
――貴様の要求する登山。
その目的である高度は、空間閉鎖の外殻だ。
内野ではない。
回答はここを退却して、外殻より迂回すれば完了する――
――あっ
顔が真っ赤になって行く楽市を見て、ドラゴンが首を近づける。
――全体を終始魔鏡で、閲覧していた。
貴様の思考は、浅慮、軽量、極薄か?――
――何おーっ!
ドラゴンの言う通り、カルウィズを覆う結界は避暑地を守っているのだから、それ以外のエリアは外から行けばいいのだ。
わざわざ内側から行く必要など、あるのだろうか?
そう自問する楽市は、強くのたまう。
――断じてあるっ!
ドラゴンよ貴様は、何事も理解していないっ!
――何事っ!?――
――ドラゴンよ、石段を閲覧したかっ?
両翼を持つ貴様らが、飛行せずに手間をかけ、何百万、何千万と歩行した石段の痕跡をっ!
あの窪みをっ! あそこに混入された忠心をっ!
例え貴様たちが、忘却しようとも、あの石段は忘却せぬっ!
あの窪みに、貴様たちの思慕が刻印されているっ!
藤見の白狐は、その痕跡へ敬意を抱くっ!
同様の神使として、過去の貴様たちに敬意を抱くっ!
だから踏襲するのだっ!
迂回など笑止千万っ! 直進して登山し首を垂下するのだっ!
ドラゴンよ、貴様こそ浅慮、軽量、極薄だっ!
――何事おーーっ!?――
いつの間にか楽市は、手の平の半身浴からせり上がり、黒い尻尾で自重を支え、ドラゴンの鼻ずらで喚いていた。
ドラゴンが横を向き、巨大な赤黒い瞳で小さな楽市を睨みつける。
楽市も負けじと、金の虹彩をギラつかせた。
両者は暫く睨みあった後、お互いに距離を置く。
ドラゴンとの交信を終えて、心象内へ戻ってきた楽市を、霧乃たちがホックホクで出迎えた。
霧乃と夕凪は、千切れんばかりに尻尾を振っている。
(らくーち、すっごい、カッコよかったぞっ!)
(何やってたか、わかんないっ、けど、カッコいいっ!)
(らくーち、やっぱり、いーなー、すごいなーっ!)
(らくーち、すーごーいーっ!)
(ふふ……ありがと、でもね……)
楽市はそう言うと、いきなり心象内で膝をおり、両手で顔を覆った。ぐすん
(どうした、らくーちっ!?)
(こわかったか、らくーちっ!?)
(らくーち、なかないでーっ!?)
(ふあー、らくーちっ!?)
(もう嫌だー、ヌルヌルになるの嫌だー、足を開くの嫌だー)
(((( えっ!? ))))
楽市はドラゴンとの交信内容を、霧乃たちに一通り話したあと、愚痴をこぼす。
(あいつ鏡で、見てたって言ったんだよ。あたしが足開いて滑ってるの、全部見られてたんだ。
もう、恥ずかしくて死ねるっ。
あいつの言った遠回りの案、良いと思ったんだよ。
あたし形にあんまり拘んないからさ、想いがちゃんとあれば、それで良いと思うんだよ。
遠回りに気づけなかったことを、恥ずかしいと思ってたら、駄目押しに全部見てたとか、お前はバカか?とか言ってきたんだ。
あたしすっごい頭に来て、気づいたらすっごい吠えてた。
言ったことに噓はないよ。
本当に昔のドラゴンたちへ、親しみが湧いているんだよ。
でもね、遠回りの案はいいと思うなあ。
ああでも、あそこまで遠回りをバカにしちゃったからなあ。
ねえどう思う?しれっと遠回りしても大丈夫かな?
もう階段でヌルヌルしてる所、見られたくないよー…………ん?)
愚痴をこぼしていた楽市が、ようやく周りの空気に気付いた。
(あれ?)
楽市はかりにも、北の森に君臨するボスである。
霧乃たちは眷族として、楽市を馬鹿にする奴は許さない。
――自分たちが馬鹿にするのは、ノーカウントである――
楽市を馬鹿にするという事は、北の森全てを馬鹿にするという事。
自然界では、舐められたら終わりだ。
ここでルートを変えて遠回りなどしたら、更に舐められるだろう。
それは、断じて許されないのだった。
周りから沸々とした闘志が、楽市まで伝わってくる。
妖しの子たちの中で、もはやヌルヌル階段は遊びではなくなっていた。
(らくーち、なに言ってんの?)
(もう、ぜったい、ヌルヌル行く、ぜったいっ!)
(あーぎ、がんばるっ!)
(ふあーっ!?!?)
(あれーっ!?)