164 異界の神獣。
名を伏せる影は、ゆっくりとイースに近付いた。
跪くイースを覗き込むため、かがんで首をねじる。
不思議なことに影は、どんなに近付いても姿がはっきりとしない。
まるで霧の中に、溶け込んでいるかのようだ。
イースは影から、痛いほど視線を感じた。
「んー、報告書によると、北の魔女はベイルフの住民を皆殺しにしたと?
その後、記憶を引き継いだ住民そっくりの偽者を、仕立てたと書いてある。
これ本当なの?」
「本当のことです」
「五万の住民すべてを?」
「それだけではありません。
ベイルフ周辺も、全て瘴気の森へ作り変えています」
「んー、じゃあもう一つ。
北の魔女が自ら巨大化して、逆らう巨大ゴーストを、食べていたとも書いてあるけど、これも本当?」
「はい」
「これからも、ダークエルフを殺し続けるとも言っていたと?」
「はい」
「んーハッキリ言うとさ、君が何らかの幻術に惑わされて、踊らされているのではないかと、疑っている者もいるんだよ。
馬鹿げた内容だと言ってね。
そこら辺、どう思う?」
「その可能性は、あるのでしょう」
「認めるの?」
「ですが飽くまでも、可能性があると言うだけです。
それを元に、報告が突拍子もないからと言って、取るに足らぬ物と判断するのは危険なことです。
ぜひ、帝都の方々に多く目を通して頂き、真剣にご検討して頂くよう、お願い致します」
「ふーん……あっそう」
影は聞いておきながら、興味なさげだった。
しかし身を乗り出して、更にイースへ近付く。
息が掛かりそうなほど近付いても、顔は霧に包まれたままだ。
「じゃあさ、もう一つ。
君の首に巻かれている黒いリングは、“開放”を使ったことによる処罰だよね?」
「……その通りです」
イースは初めて北の魔女と接触したとき、禁止されていた“開放魔法”を使った。
それはストーンゴーレムを操る力の源泉、“バーティス神の一部”を、岩石から無理やり引き出し、直接兵器として使用する魔法だ。
突然、鉱物の圧力内から開放された神のカケラは、恐慌状態となり、その場の全てを破壊する。
開放後はコントロール不可能となるが、これを敵陣の中心で行った場合、敵に甚大なダメージを与えることができるのだ。
「なぜ、使った?」
それまで少年のような軽薄さで質問していた、影の雰囲気がガラリと変わった。
幼げな声はそのままに、問う声に混じるのは、相手を押し潰すような気迫。
影から目に見えぬ覇気が放たれて、イースの背後から、サンフィルドとリールーの荒い息遣いが聞こえた。
イースは悟る。
影が直接聞きたかったのは、報告書ではなく正にこれなのだと。
――ふう……ふう……ふうっ
間近で覗き込まれる、イースの呼吸も乱れていった。
イースが黙っていると、影が言葉を重ねる。
「君も、知っているだろう?
大昔のことだ。
君と同じように神を直接、戦の道具として使ったダークエルフたちの話を」
「……知っております」
「ならばなぜ使った?
太古彼らは神を二十数度、戦の兵器として使い、ある日突然、鉱物を操る能力を失った。
神の怒りを、かってしまったのだ。
その途端、彼らの築いた広大な地下帝国は、岩盤を支え続けることが出来なくなり、天井が崩れて圧壊した。
一瞬の出来事だ。
一瞬で、百万以上のダークエルフが死んだ。
君は我が“ソービシル”に、同じ道を辿らせるつもりかね?」
霧に溶け込む姿はそのままに、影の双眸が紅く輝き始めた。
光は霧の中を滲むように広がり、跪くイースたちを紅く染める。
イースは、呼吸を乱しながらも考える。
影の声と視線を分析する。
声と視線に、押しつぶされる程の気迫を感じたが、不思議と怒気は感じられなかった。
ただこちらを、憔悴させるほど凝視しているのは間違いない。
怒気を含まぬ、熱い眼差し。
怒気以外の感情から溢れる、強い眼差し。
――これは興味だ
イースはそう判断する。
ただしこの興味は、天秤に掛けられたようなもので、返答によってはいつでも怒気に傾き、イースを惨殺するだろう。
王族にとって、下々の命は軽い。
影の期待を、裏切らないような答え。
そんなものは分からない。
どう取り繕っても天秤は憤怒に傾き、自分の首が飛ぶような気がした。
ならば……
イースは深く息を吸い、顔を上げる。
逆に質問しよう。
「失礼ですが、ソービシル国家連合は、いつまで存続できるとお考えでしょうか?」
「なんだと?」
天秤が、憤怒に傾いたのを感じる。
イースは構わずに続けた。
「ぼ……私は、北の魔女の力の一端を、目の当たりにしたとき確信いたしました。
これはソービシル国家連合の、崩壊に関わるできごとだと」
「崩壊するだと?」
また天秤が憤怒に傾く。
「そうです。
これから遠い未来、数千年に渡り語り継がれるであろう、戦の始まりであると感じました。
端的に言えば、五〇〇〇年太平の世であったソービシルが、耐えられるのかと強い焦燥に駆られたのです。
だからこそ私は、その場でもてる最大の火力を投入しました。
少しでも北の魔女の能力を引き出し、その情報を持ち帰らなければならない。
そう感じたからこそ、“開放”を使ったのですよ」
「それほどの、相手だと言うのか?」
「ハッキリ申しますと、相手は魔女などと言う、生易しいものではありません」
「では何だと、言うんだい?」
影の紅い目が、クリクリと動いた。
天秤が憤怒から興味に傾く。
声にはどことなく、楽し気な雰囲気が混じり始める。
「神獣です。
いえ、大怪獣といった方が良いのでしょう」
「大怪獣……それは、異世界にいると言われるものだなっ。
異界の神獣のことだなっ」
「その通りです」
影の目が、さらにクリクリと動く。
声には子供のような、無邪気さが感じられた。
影がイースを見下ろし、頭を揺らす。
「んー、しかしだな。
だからと言ってダークエルフを滅亡に追いやる開放を、使う理由になると思ってるの?」
「お言葉ですが、太古の方々が二十数度使い、力を失ったのなら少なくとも二十回は、その力が使えると言うことです。
私が一度使いましたので、あと十九回は確実に使えます」
「なっ……」
ここで初めて、影が押し黙る。
目の前の男が禁忌を禁忌と思わず、あと十九回使える兵器だから、使えと言ってのけたのだ。
影は紅い目をクリクリと動かし、首をかしげる。
「……君はその考えが、とても危険だとは思わないのかい?」
「国家の危機以上に、危険なことはないと考えております」
「……ふふふ、んー、イース・エス。
君、面白いね。
んー、大怪獣と国家をかけた戦ね……ふふん」
影がゆっくりと、イースから離れていく。
どうやら、自分の首はつながったようだ。
イースはそう思い、悟られぬようにそっと安堵の息を漏らそうとする。
そのとき――
どこか遠くから、鐘の音が聞こえた。
ゴオオン……
ゴオオン……
ゴオオオオオン……
イースはその鐘の音に聞き覚えがあり、安堵の息で思わずむせてしまう――