143 ナランシア、好きに生きる
ソービシル国家連合――
その広大な領地の西に、ダーキリソー大山脈がある。
山脈は北から南西にかけて、斜めに大陸を走っており、ここがソービシル国家連合の、北から西にかけての国境となっている。
山脈の向こう側には、まだ北西に向かって大地が広がっているが、ダークエルフはその地に興味がない。
なぜなら、緯度が上がり過ぎて寒いからだ。
ダークエルフの半裸の如きライフスタイルからいって、全く食指のそそられぬ土地なのだった。
*
ダーキリソー大山脈の雪解け水が、幾つもの小川を作り、フリンシル川に流れ込んでいる。
その内の一つ。
名もなき川の河原に、明るいオレンジ色の髪を持つ、愛らしい顔の獣娘が座り込んでいた。
デコボコした河原石に直接座るとお尻が痛いので、ツタを編んだクッションを敷いている。
しかし、これだけでは駄目だ。
夏の日差しが、きつ過ぎる。
そこで獣娘は、細い木々と布を器用に組み合わせて、三角屋根の小さな天幕を作り、その下で膝を抱えているのだった。
「ふあ……あふう」
獣娘はもう何度目か分からない、欠伸をもらす。
誰も見ていないので、口があきっぱなしだ。
しかしここで、だらしないと思ってはいけない。
夏の河原で、ジッとしていれば誰でもそうなる。
それに獣娘は、ただジッとしている訳ではないのだ。
これも大切な、役目なのである。
獣娘の空色の瞳が、川の流れをジッと見ている。
川の中には“北の森”で仕留めた、モースの枝肉が沈められていた。
流されて行かないように縄でしばって、河原に立てた木の杭へ繋ぎ止めている。
獣娘は、その枝肉の監視をしているのだった。
人気の無い山裾で監視などいらないとつい考えてしまうが、誰も見ていなければ、確実に森の肉食獣どもが持っていってしまう。
だから最低一人は、見ていないと駄目なのだ。
獣娘はこのままだと寝落ちすると思い、天幕から這い出してきた。
露出している肩や首に、日差しが当たってチリチリする。
木の杭に繋がった縄をつかみ、枝肉を一本引き揚げた。
綺麗に皮をはがされた枝肉は、五日間流水にさらされて、その赤身の肉が白っぽくなっている。
しかし品質には問題ない。
獣娘は腰から短刀をひき抜き、枝肉の表面を薄く削りとる。
削られた面は、しっとりとした赤身の色が残っていた。
獣娘は薄切りした肉片を、口の中に放りこんだ。
対岸で揺れる花を眺めながら、口をモグモグと動かす。
「うん充分にタタリが抜けているな。いい感じだ」
木の杭は全部で八本。
それぞれに、モースの枝肉が括り付けられている。
モース二頭分だ。
なにもこれを一人で、全て食べる訳ではない。
売り物なのである。
少し離れた場所にある“宿場町アイダ”で、串焼きにして屋台で売るのだ。
アイダは山脈の裾野に、張り付くようにして広がる辺境の町である。
場所的に様々な種族が出入りしており、よそ者がいても目立つことはない。
今はそこが、獣娘の生活拠点となっていた。
ちなみに獣娘には、十一人の部下がいる。
獣娘を含めた十二人は、彼女の指揮する狩り担当班と、串焼きを売る班に分かれて日々を過ごしていた。
いま部下たちは町の共同炊事場で、昨日仕上がった枝肉を、十一人総出で筋切りをし、細かく切り分け串にさしているところだ。
獣娘はその間の、枝肉見張り担当なのである。
さてそのモースの枝肉は、もういい具合だ。
しかし、まだ引き揚げない。
引き揚げたところで、モース二頭分の肉など一人で持ち運べないのだ。
獣娘は、自分の影を見た。
随分と影が、短くなっている。
「お昼まで、あともうちょっとか……」
お昼になれば焼き立ての串焼きを、部下たちが持って来てくれるだろう。
「それまで、待つかな」
彼女はそう言って、モゾモゾと小さな天幕にもどる。
戻るとまた睡魔が襲ってきて、ウツラウツラしてしまった。
寝てはいけない、肉が盗まれてしまう。
兵士だったときの、ヒリツクような緊張感とは天と地の差だが、これでも緊張感はある。
しかしなんと長閑な緊張感だと、自分で笑ってしまった。
「好きにしろか……ふふ」
つぶやいたのは、北の森で出会った方の言葉だ。
好きにしろと言われた結果、皆で話し合い、辺境の町で串焼き屋を営んでいる。
「数か月前の自分へ“お前は串焼き屋になる”と言っても、多分信じないだろうなあ。ふふふ……」
獣娘はここ数ヶ月の自分の変化が、未だに不思議でならなかった。
「ナランシア様ーっ、お昼お持ちしましたーっ!」
部下の呼ぶ声で、彼女は瞑っていた目をあける。
天幕から這い出し、走ってくる部下たちに、ナランシアは笑顔で手を振った――