138 シノとキキュール、ふたりでお喋り。
「――ただし中央に住む、城主はそのままでいること。
あなた達は別だからねっ!」
楽市はベイルフの民へ語りかけながら、心の奥底に意識を伸ばしていく。
がしゃとのトリクミで、得たコツがここで生きてくる。
奥底で眠る黒々としたモノの背を、手の甲でそっと撫でるようなイメージ――
撫でられた背がくねり、ゆっくりと漂いはじめる。
一気に浮上させないよう、筋道をこちらで作るのだ。
水中を手でゆっくりと掻き、穏やかな流れを、心の中に作るようなイメージ――
生まれた流れに、漂う背中が抵抗もなく導かれていく。
全てが実際に触れるでもなく、動かすでもなくイメージの中で行われる。
その調子、頑張れあたし――
まだまだゆっくりとしかできないが、これを繰り返していけば、いずれもっと上手くなるだろう。
*
多くの獣人が、自分の意識とは関係なく叫んでいる。
周りの者がそれに困惑していると、頬へ突然あたる熱に驚きそちらへ振り返った。
ベイルフに住む全ての者が、北の空を見つめる。
そこには東から昇る朝日の静謐を、あざ笑うように黒く禍々しい大火が揺れていた。
北の城壁塔に何やら黒くて太いものが、でれんと巻き付き垂れ下がっている。
そこから黒炎が、揺らぎながら立ち昇っているのだった。
夏の空を穢すそれを見た瞬間、皆が嫌悪する。
しかしだ。
ベイルフの獣人全てが、その炎に心を奪われてしまう。
見つめたまま、目を離すことができない。
まるで空に、二つの太陽があるようだった。
白く輝く太陽と、黒く輝く太陽。
獣人たちは最初の嫌悪など忘れて、次々に黒く輝くそれへ、膝を折り曲げていった。
*
南の城壁塔の上に座る、シノとキキュール。
そこからでも、ハッキリと北の黒炎がみえた。
「おお……ラク殿が、黒く萌える輝きを出したぞ」
シノが、興奮気味に話し始める。
「いつ見ても素晴らしい。
五感全てに、訴えてくる神々しさだ。
今は私とキキュールのことを考えて抑えてはいるが、初めて見る獣人たちにはこれで十分だろう」
シノは声を弾ませながら、ゆっくりと首を曲げて城壁右下をみる。
そこには、南城壁の大門があった。
大門は昨日から、順番待ちの荷車でごった返している。
そこにいるダークエルフたちも、食い入るように北の空を見つめていた。
しかし意志の力で、次々と背を向ける。
「おお流石は、ダークエルフと言った所か。
謀や心理操作を好む種族だけに、まず疑う癖が出来ている。
あの顔は新手の精神魔法とでも、思っているかもしれないな。
しかしなあ立ち去れと言う前に、もう多くのダークエルフが立ち去っている。
何とも力の抜ける話だ。
そう思わないかねキキュール、ふふふふ」
キキュールに話しかけたが、返事がこない。
シノはゆっくりと首をまげ、キキュールを見た。
何やら、面白くなさそうに膨れている。
「キキュール?」
キキュールは、ジロリとシノを見る。
「シノ、お前はヤケに、楽しそうじゃないか」
「うん? だめかね?」
シノの軽い返事に、キキュールは更にむくれた。
むくれたまま前を見つめて、下唇をかむ。
「シノ……お前はどう、折り合いを付けているんだ?」
「うん?」
「お前はこれまで殺してきた獣人を、どう思っているんだ?
お前が殺してきた数と比べれば、ベイルフの獣人など微々たるものだろう?
私はベイルフの獣人を見ていると、今まで殺してきた獣人を思い出してしまう。
子供も、女も、赤子も、私は気にせず殺してきた。
楽しみながら殺したことも、少なくない。
それを思い出すと、私は……
こんな私が今更、獣人を助けたいなどと……」
そこでキキュールは、俯いてしまう。
か細い声で、絞り出すようにつぶやく。
「教えてくれ……私はどうしたらいい?
私はこの気持ちに、どう折り合いを……私は……」
そこにはシノの知る、普段の冷静なキキュールは居なかった。
深く俯き、強く目を瞑っている。
長く存在するアンデッドのエルダーリッチが、突然与えられた情動に翻弄されて、背中を小さく丸めていた。
突然生まれた道徳観に、押し潰されそうになっている。
そんな道徳観など、慣れてしまえば「仕方がないさ」と、流すこともできるだろう。
しかし、今のキキュールには出来ない。
今まで持ち合わせていなかったばかりに、耐性がないのだ。
まともに受け止めて、気持ちがどこにも逃げ出せなくなってしまう。
まだアンデッドになる前の、生者だった経験が残っていれば、ましだったかもしれない。
だがそんなものは、長い年月の間にスッカリ消えてしまった。
「キキュール……」
少女のように怯えるキキュールへ、シノは優しく声をかける。
「すまない、私にはその気持ちが、サッパリ分からないんだ」
「はっ!?」