110 お師さまの、ドレインタッチくん
ベイルフに溜まる、黒いガスが退いていく。
すると夏の日差しが入り込み、暗闇に隠れていた細部があらわになった。
街の甚大な被害が、見てとれる。
特に北地区がひどかった。
城壁を破壊して入り込んだ、巨大アンデッドの争った跡が、瓦礫の山としてハッキリと刻まれているのだ。
南の建物には、ほとんど被害はない。
しかし巨大な幽鬼が、ベイルフにみっちりと落ちたため、息をしている者が一人も見当たらないのだった。
みんな通りで、
広場で、
家屋内で息絶えている。
幽鬼に触れた獣人は、一人として生きて
はいない。
その中を青白い炎が、突っ切っていく。
ボウッ ボボボッ
レンガ積みの壁をすり抜けるたびに、狐火の表面で微かな擦過音がなる。
狐火たちはチヒロラの声のする方向へ、迷わず直線でつき進む。
死体だらけの通りをわたり、二階の寝室、一階のリビング、炊事場の中をすり抜けていった。
狐火たちは、南と北を分け隔てる壁のそばで、チヒロラを見つける。
瓦礫の散乱する石畳の通りで、シノとキキュールが、重なるように倒れていた。
そのそばで、チヒロラが泣いている。
「チロいたっ!」
「おーい、チロっ!」
霧乃と夕凪は、チヒロラの前で一回転して元の姿に戻った。
「「チロっ」」
「あ゛あ゛あ゛ー? あー?」
チヒロラは霧乃たちが声をかけても、ぼんやりとしたまま、ただ泣くばかりだ。
幽鬼の精神攻撃が、遠く離れていたチヒロラにまで及び、未だ解けていないのである。
「チロしっかりっ」
「なくな、チロっ」
霧乃と夕凪は励ましながら、チヒロラの頭に手をつっこむ。
二人で、チヒロラを怒鳴りつけた。
((チロっ、しっかりしろっ!))
「ぎゃあああああああああああーっ!」
直接頭に響かせたユニゾンは、そうとう刺激的だったらしい。
チヒロラは転がり回ったあと、脂汗を流しながら我に返った。
「う゛わっ、きりさん、うーなぎさんっ。
どうしてここにっ!?」
「はなすの、あとっ! おしさま、持って、にげるよっ」
「はやく、持て!」
そう言った霧乃と夕凪が、お師さまを持とうとして手が止まる。
お師さまのド派手ローブを着ていた者が、まったくの別人だったからだ。
「え、だれ?」
「だれこれ?」
「お師さまですっ」
「うそだーっ」
「ほねじゃないっ」
騒ぐ声でキキュールが、閉じていた目をうっすらと開ける。
「だ……れ……?」
少し意識が、混濁しているようだ。
シノもうっすらと目を開け、キキュールの胸に顔をうずめたままつぶやく。
「チヒロラ……」
「はいっ」
「……大丈夫だー」
霧乃と夕凪は、その少し抜けた返事に聞き覚えがあった。
「あっ、ねてる?」
「えっ、ホントにおしさま?」
「うー」
チヒロラはそのやり取りに、泣き笑いの顔になってしまう。
夕凪がうなった。
「ん゛ー、まあいいや。
きり、頭ふたつもって、うーなぎとチロは、足をもつ」
「うんっ」
お師さまに触れようとする二人を、チヒロラが慌てて止める。
「あー、だめなんですっ。
今持つと、お師さまが壊れちゃいますーっ!」
「ええっ」
「だめなの!?」
「だめなんですーっ」
霧乃が、足踏みしながら聞いた。
「チロっ、何かないの!?
おしさま、いつも、こわれてんでしょ!?」
チヒロラは、手をわちゃわちゃして答えた。
「はいっ、壊れてます!」
「そんとき、どうしてんの!?」
「あっ、あーっ、そうでしたっ」
チヒロラは半べそになりながら、お師さまのフードへ手を入れる。
しかしフードの中をゴソゴソするばかりで、何も掴めなかった。
再びチヒロラの目から、大粒の涙がこぼれる。
「あー、だめなんです。
道具はみんな、お師さまが持っているんです。
そしてお師さまのフードは、お師さましか使えないんですーっ」
「どうぐって、なに?」
「えっと、ぐすっ、ドレインタッチくんです」
「たっちくん!?」
霧乃は、意味がわからず困惑した。
チヒロラが、一生懸命に説明しようとする。
「え、えーと、ドレインタッチくんを、背中にいっぱい付けるんです。
するといっぱい吸ってくれて、壊れるのが止まるんです。ぐすっ」
「チロ、もってないの!?」
夕凪はチヒロラのフードに、手を突っ込んだ。
しかしどんなに探っても、フードの布地が手に当たるばかりで何も掴めない。
「ないんですーっ」
「あ、これだめかも」
「あ゛あ゛あ゛あ゛ー……」
夕凪の一言で、チヒロラが涙をポロポロとこぼした――