001楽市、兄さまと楽市
https://36972.mitemin.net/i655883/
藤見の森を行く。
夏の蒸し暑い夜である。
欅や椋が葉を茂らせて、下草も負けじと生い茂っている。
森全体が、強い香りを放っていた。
月は見えない。
その中を、二匹の狐がすたすたと行く。
これがただの狐ではない。
人の姿を模した白狐と呼ばれる、妖しの類であった。
「兄さま、早く!」
「わかった わかった」
どうやら兄妹のようで、ぷりぷりと怒る妹がのんびり屋な兄を「早く歩け」とせかしている。
振り返るたびに、腰まである銀髪がさらりと揺れて美しい。
獣の耳が苛立ちのためか、ぴりりと立っていた。
肌と同じ色合いの白い小袖を着ており、それがぴったりと体に張り付いている。
これがまた背中から腰にかけて豊かなラインを描いているが、残念なことにふわふわの尻尾が大半をかくしてしまう。
白足袋に白草履。
何もかも白いようでいて、瞳はきらびやかな金。
唇はふっくらとした桜色だ。
すっきりとした顔立ちの、大層な美人さんである。
「兄さま。早くしないと酒が逃げてしまいます!」
「楽市よ、酒が逃げるわけなかろうに」
穏やかに、妹をさとすのは兄だ。
これもまた大層な美男で、妹と同じく白づくめ。
こちらは少し癖のある銀髪が、肩まで流れている。
瞳は金。
楽市と違い、唇に薄く紫がのっている。
その唇が笑った。せかせかとした妹の動きが、可愛くて面白いのだ。
「わかった、わかった。そんなに急ぐなら、俺を運んでいけ」
そう言うと人の身から狐火へと転じ、ふわりとゆれて楽市の柔らかな胸にくっついた。
丁度、小玉スイカぐらいの大きさで、好きに姿を変えられるらしい。
「ふう、俺はもう歳だからな。歩くのが面倒だ」
「また、そんなことを言って!」
「ほら、酒が逃げてしまうぞ」
「逃げるわけないでしょうっ」
「くくくっ」
「逃げるとは溢れる想いを、兄さまに分かり易く告げたいという、妹の優しさではないですか!
なのに、そんなつまらない返しをするとは、どういう――」
「わかった、わかった」
何が優しさなのか、兄にはさっぱり分からない。
しかしここは、分かったと言っておくのが良い。
楽市はまだぷりぷりとしていたが、兄を抱き小走りとなった。
森を抜けるとそこは、藤見の社の拝殿裏である。
藤見の社はそれほど大きくはないが、今でもちゃんと鎮守の森が残されていた。
そこが楽市たちの、住み処となっているのだ。
楽市は拝殿の脇を抜けると、そのまま鳥居をくぐり真っ暗な石段を下りて行く。
期待に胸を膨らませて、夜の道を行く。
社には人の気配なんてこれっぽっちもないが、ここにはある。
あふれている。
住宅地には赤ん坊の泣き声や風呂場のカコーンとした音が響いており、駅前ま
で来ると更に人々の活気が溢れ返っていた。
その中を楽市が行く。
白狐の和服美人が自慢の尻尾を揺らしながら歩く姿など、なかなか見られるものじゃない。
とっても目立つ。
けれど、見える者など一人も居ないのだった。
楽市が抱く兄の灯りへ、羽虫がちろちろと寄るぐらいだ。
もう長いこと人との関わり合いはそんなものなので、楽市は気にしない。
目指すのは、ガード下の飲み屋である。
迷うことなく、お馴染みの赤ちょうちんへ入った。
楽市は引き戸に触れることなく、するするとすり抜ける。
楽市とは、そう言う類の者だ。
というのも今の楽市は物へ触れることができても、一ミリたりとも動かすことが出来ない。
人との関わり合いが薄くなると共に、物への干渉がままならなくなっている。
それも又、長いことそんな感じなので楽市は気にしない。
店内は壁や天井がしっかりと黄ばみ、電車が上を通ると安テーブルがカタカタと揺れるデフォルト仕様である。
焼き鳥から滴る脂が炭に落ち、得も言われぬ匂いが立ち込めていた。
少々の猥雑さと、おいしい肴。
それだけあれば十分だ。
楽市は心底そう思っている。
「兄さま、今日も匂いが格別ですね!」
「おっ、今日はアジのなめろうが、あるじゃないかっ」
癒しの場とは昔も今も変わらないのだ。
壁掛けディスプレイには、来年開催予定の十五回目となる東京オリンピックの情報が流れていた。
店に入った楽市は、舌なめずりをする。
「いるいる……ひいふうみぃ……うん充分」
二十名もいれば満席な店内に、出来上がって潰れた客がちらほらと見えた。
昼間のがんばった自分を癒すため、酒を飲むものの、疲れとアルコールですぐ睡魔に襲われてしまう。
この睡魔――実は立派な妖しの類である。
人へは見えないが、ヤモリに似た姿をしていた。これが悪さをする。
人の疲れに付け込んで眠らせては、人の精気をちろちろと舐めるのだ。
酒気交じりの精気は格別に旨く、このためだけに睡魔をやっていると言っても良い。
その睡魔が楽市を見ると、キューキューと喚き始めた。
ぶん取る奴が現れたと、仲間に知らせてまわる。
そんな騒ぎなどおかまいなし。
楽市はテーブルへ近付いて上に乗る睡魔たちを、人差し指でぴんぴんと弾き始め
た。
何という非道さっ!
しかしこれが自然の厳しさなのである。
まあ睡魔からしたら、楽市が真性のくず狐なのは間違いない。
酒場を舞台にして、四〇〇年来の宿敵なのだ。
そんな楽市が、眠る男の中へするりと入り込む。
男と楽市が二重写しのようになり、やがて完全に溶け込んでしまった。
これを俗に、狐憑きという。
意識のはっきりした者は無理だが、酔いつぶれた者ならまだ何とかなった。
体内に入り込み体を操る。これは白狐の得意技なのだ。
こうすることで、今の楽市でも物理の酒を飲むことができる。
取り憑かれたヒゲの大男がぱちりと目を覚まし、にんまりと笑った。
後ろのテーブルでも、むくりと目を覚ます男がいる。
ぽっちゃりとした赤ら顔のおじさん。
こっちは兄だ。
指で弾かれた睡魔がテーブルへよじ登り、キュッキュッキュッと鳴き始めた。
「まあまあ、そう怒らないでよ。他の男を眠らせればいいじゃない」
そう言って、楽市はヤモリたちにウインクした。
楽市が野太い声で叫ぶ。
「おやっさーんっ、冷と油揚げ炙ったやつ、ちょーだい!」
ハウスししゃも。
焼き鳥五本セット、塩で。
もつ煮込み。
冷を三本空けた所で、楽市は今宵一番の上機嫌となった。
手に馴染む猪口の感触を楽しみながら、体でリズムを取っている。
「むふう、楽市はねえ。
藤見のみんながいてお酒があって、兄さまが居れば、後はなんにもいらないんだよー。ふふふ」
頬と首筋が桜色に染まり、艶っぽく兄を見つめている。
「俺は酒の次か?」
そう聞き返す兄にヒゲの大男である楽市は、しな垂れ掛かり笑った。
「酒より上にしたら、兄さまが天狗になっちゃうでしょー」
*
日付も変わろうかという時刻。
藤見の森がざわ付いている。
こんな夜更けに、石段を登る人影があるからだ。
ひぃふぅみぃ…全部で五つ。
月明りは無く、外灯も無い。
石段に人影の持つライトの光が揺れる。それぞれの手には大型のハンマーが握られていた。
解体用のハンマーだ。
胸まで届く長い柄の先に、重く武骨な鉄塊が付いている。
それを引きずり登るので、石段へ当たる度にギンという音が響いた。
最初に気づいた白狐が耳をそばだて訝しみ、ハッとして慌て始める。
鎮守の森に寝そべる仲間たちへ、急ぎ知らせ回った。
「長篠と楽市はどうした!?」
「分からんっ、何処にもおらぬっ」
「こんな時にっ」
侵入者たちは鳥居をくぐると、迷わずに散った。
藤見の社には分散して、幾つもの狐の石像が祀られている。
それは過去、信心深き者たちが商いの大成を願い、或いは病を克服した感謝に奉納したものだ。
しかしそれは昔のことであり、今はもう長いこと石像を奉納する者はいない。
五人が各々ハンマーを振りかざし、石像を破壊して回る。
大きく弧を描いて遠心力が乗る鉄塊は、容易く石像を砕いていった。
無駄のない動きに手慣れたものを感じる。
境内に集まった白狐たちが口々に叫ぶ。
「何の考えで、このような事をする!」
「やめぬか!」
「貴様ら許さんぞ!」
しかし、侵入者たちの耳には届かないのだ。
声は聞こえない。
姿も見えない。
それでは何も居ないのと同じではないか。
白狐の少女が、石像を庇い懇願する。
「やめてお願いっ。桔梗を壊さないで!」
その涙声はハンマーの一撃でかき消された。
少女の庇う石像が砕かれると、同時に少女の頭部も消失してしまう。
首の無い体は力なく崩れ落ち、溶けるように消えていった。
狐の石像が少女の本体だったのだ。
白狐たちの怒りや恐怖を感じ取り、微睡んでいた蝉が一斉に鳴き始める。
侵入者たちは粗方破壊し終わり、ある者の受け持ちは残り一つとなった。
額の汗を拭い、じっと石像をみる。
ある者は思う、
――神の形を模すなど愚かなり
これを壊せば次の機会は一年後か二年後か……、ほとぼりが冷めるまで待たなくてはならないだろう。
簡単に一撃で終わらせるのは、惜しい気がした。
少し考える。
先ずは左の前足。
次に右。
後ろの足を砕いた後は、背骨。
腹ときて、最後に頭を丁寧に砕いてやろう。
ある者はそう決めると、慣れた手つきでハンマーを振り下ろした。
*
長篠は、楽市が居ないことに気付く。
客も疎らになりカウンターへ移ってちびちびやっていたら、いつの間にか消えていた。
いや、隣に髭面の男はいる。
しかし楽市の気配が無いのだ。
さっきまで端末のゲームを夢中になって、やっていたはずである。
髭面の男は突っ伏して、鼾を掻き始めていた。
「楽市?」
妹が別の客に乗り換えたのかと思い店内を見回したそのとき、突然左腕に衝撃が走る。
音は全くない。
しかし腕を砕かれた感触が、はっきりと残った。
長篠は全身が痺れて、椅子から転げ落ちてしまう。
他の客が何事かと振り返り、睡魔たちも騒ぎ始めた。
長篠は堪らず、男の中から這いずり出る。
取り憑かれていた男の腕は無傷だ。
しかし、長篠の左肩から先が無くなっていた。
一体何が起きたというのか?
焦る気持ちを抑えなければ――そう長篠が考えたとき、今度は左腕が吹き飛んだ。
その衝撃と痛みに、歯を食いしばり耐える。
長篠は伝わる衝撃から何が起きたのかを悟った。
「俺の憑代を……壊す者が……いる……だと?」
続けて襲う右足の激痛で、言葉が詰まる。
「ぐうううううううっ」
余りの痛みに倒れ伏し、動くことができない。
しかし眼だけは虚空を睨み、その瞳に漆黒の憎悪を宿らせる。
「おのれ……許さぬ……ぞ……」
長篠は頭を砕かれるその瞬間まで、虚空を睨み続けた――