Near Discord
穴があったら入りたい。
素敵な言葉だ。
恥というものは、他者の存在があってこそ成立する感情だと、俺は思っている。
世界でたった一人きりならば。もし、他者という概念がない世界に一人、暮らしていたとするならば。
滑稽さを、間抜けさを、誰にも笑われることはない。けなされることも、バカにされることもない。
つまり、他人さえ存在しなければ、人は恥ずかしいという感情から解放されるのである。
ということは、だ。
他人が存在してしまっているこの世界でも、自分と世界を断絶してしまえば、恥ずかしいという気持ちは、きっと消滅する。
――断絶が必要だ。今の俺に必要なのは、世界と決裂できる場所だ。
恥を。心の傷を。孤立することで癒すのだ。
人間とは、心が弱った時、つい他人に頼ろうとしてしまう生き物である。
しかし、今の俺には頼れる者などいない。
自分自身以外に信用出来る者など、いないのだ。
などなど。
現実から目を逸らすべく、わけのわからない思考を脳内で攪拌しながら、俺は歩く。
目指すは、一人になれる場所。
穴があったら云々に適した、暗くて静かな穴があれば、最高だ。
しかし、俺が入れる大きさの穴を掘るor探すのは、骨が折れる。
穴がそこら中にあった(のかもしれない)昔と違い、現代日本には人が入れる穴など、そうそうあるはずがない。
「誰もいない世界」を疑似的に再現するのに、適当な場所。穴以外で。
そう考えた時、屋上が思い浮かんだ。
アイキャンフライをしたいわけじゃない。世界との断絶とは、そういう意味じゃない。
うちの高校は、生徒が屋上へ立ち入ることを禁止している。教師だって、滅多なことじゃ立ち入らない。
屋上はある意味「周囲と断絶された空間」というわけだ。
当然のことだが――生徒立ち入り禁止の屋上に、俺は立ち入れない。普通ならば。
ただ、噂を聞いたことがあった。
西棟の屋上、そのドアには鍵が掛かっていない、という噂。
記憶を掘り起こしている途中で、ふとこの噂を思い出した。
もし噂が本当ならば、労せずに世界との断絶を味わえるのではないだろうか。
もちろん、嘘である可能性は大きい。万が一本当だとしても、先客がいる可能性だってある。
だけれど、可能性はゼロじゃない。期待は、俺の背を強く押した。
「さてさて……」
いよいよ、屋上への階段に差し掛かる。
緊張するほどのことでもないので、さくさくと階段を上り、ドアノブに手を掛けた。
くるりと回ったノブを押し込むと、拍子抜けするほど簡単に、ドアは開いてしまう。
視界に飛び込んでくるスカイブルー。錆びたフェンスと、有刺鉄線。
ザ・屋上といった風景に、少し感動してしまう。
念のために、屋上を見回す。先客は、いない。
流れ込んでくる初冬の冷ややかな風が、不思議と心地よく感じた。
ほんの少し、気持ちが上向く。
空の青さに目を奪われて、視線も上を向く。
雲一つなく。鳥一匹存在しない空。
果てしない、という形容が、これほど似合う存在は他にない。
今、この世界には俺と空しか存在しないのだ。
俺の望みは、叶った。
世界からの孤立。それは、想像していた以上に清々しくて、爽快なものだった。
「すぅ……はぁ」
深呼吸したのなんて、いつぶりだろう。
澄んだ空気に、心が洗われていく。
――失恋。俺は、恋を失った。俺の想いは、届かなかった。
それがなんだ。世界はこんなに広いんだ。
失恋なんて、世界から見れば些事じゃないか。
屋上のど真ん中で仰向けに寝転がると、視界がいよいよ空一色に染まる。
空へと意識が舞い上がるにつれて、自分という存在がちっぽけに思えてきて。
「俺……なにを悩んでたんだろう」
「こっちが聞きたいんですケド」
「……」
雑音が聞こえた気がした。
そんなはずはない。
今、俺は世界から孤立している。他者と断絶しているのだ。
誰かの声? そんなもの、存在するはずがない。
「……え、無視?」
「……違う。聞こえるはずがないんだ」
「は?」
「俺は、なにも聞こえない。そのはずなんだ」
「え、なに……もしかして、ヤバい人?」
「ヤバいって言うな」
俗でシンプルな言葉が、今の俺には突き刺さる。
「ぷっ……あはは、会話しちゃってんじゃん! いいの?」
かわいらしい笑い声に耳をくすぐられた直後、空がなにかに遮られた。
頬を、柔らかさに撫でられる。
煌めくガラス玉が、俺の瞳を覗き込んでいる。
息を飲んでしまうほど――空の青さを忘れてしまうほど、かわいらしい顔立ち。
「よくねーよ……ったく。起きるから、ちょっとどけ」
見惚れてしまった事を気付かれないように、悪態を吐きながら身を起こす。
「おはよ♪」
にこやかに語り掛けてくる少女。
セミロングヘアをかき上げながら、ずいと身を乗り出してくる。
「ねーねー、今なにしてたの?」
「別に」
「なにか悩んでたっぽいけど」
「別に」
「C組の子に教室で告ってフラれたA組の佐藤って、キミ?」
「うるせえええええっ! なんで知ってんの、お前!?」
くっそおおおおおお! そんなに広まってんのか、俺の失態は!
男らしくいこうと思ったんだ! こそこそ呼び出して、もぞもぞ想いを告げるくらいなら! 世界(教室)の中心で、堂々と愛を叫びたかっただけなんだ!
「あははははっ! やっぱりそうなんだ!」
けたけたと笑いながら、少女は俺の肩をばしばし叩く。
「やー、これがあの佐藤かぁ。本当に変なんだね、キミ」
これだの変だのと言いながら俺を見つめてくるその目は、珍獣に対するそれである。
「こっち見んな。つーか……お前、誰?」
向こうがこちらを知っていようと、その逆が成り立つとは限らない。
「あー、ごめんごめん。私は小林。小林 優里」
小林 優里。聞いたことがあるような、ないような。
はっきりと記憶に残っていないということは、それだけ興味が向かない話題だったということだ。
どこの誰がかわいいだとか、その程度のちょっとした世間話に登場していたのかもしれない。
「小林、お前はここでなにしてたんだ?」
「んー、興味ある?」
「いや、ない。用事が済んでるなら、さっさと出ていかねーかな、と」
「冷たっ!? 初対面の相手に、それはヤバくない?」
ぷーっと頬を膨らませながら、小林は腕を組む。
「ねーねー、なんでそんなに不機嫌なの?」
「俺になにを言ったか、もう忘れたのか?」
「いやいや、それは悪かったけど! 私が話かけた時には、もう微妙にダウナーだったじゃん」
「……お前に話す義理はない」
「あ、もしかして、噂の失恋絡み?」
「お前に話す義理はない!」
「ないけども~。こうして変な場所で、変な出会い方したんだしさ~、オープンにいこうよ~」
ぶつぶつと文句を言っていた小林は、「それなら」と言った。
「私が先に教えたげるから。佐藤も、なんでここに来たのか教えてよ」
だから、そんな義理はない。そう言おうとしたが、
「私はね~、そんなに大した理由じゃないんだけど」
勝手に語りだした小林は、スカートのポケットから小さな箱を取り出した。
手のひらに乗ってしまうほどの、小さな箱。
洒落たフォントの英字は、どこかで見たことがあるような――
「……煙草か、それ」
「そーそー」
眉一つ動かさず、小林は箱の中から煙草を一本取りだした。
茶色の巻紙に、ミントグリーンのライン。
おっさんたちが吸っている―イメージがある―白い巻紙の煙草とは違う、初めて見るタイプの煙草。
慣れた様子で、それを唇に挟む小林。
瑞々しい唇と煙草のコントラストが、妙に大人びて見えて。
意識が、小林の口元に吸い寄せられて。
不覚にも、先ほどまでの苛立ちを忘れてしまっていた。
「ここで、いつも吸ってんのか」
「まーねー」
事もなさげに言い捨てて、取り出したライターを口元に近付けていく。
そのまま煙草の先端に火が点る……かと思ったのだが。
「……なんてね♪ 吸ったことないんだ、まだ」
ぱっと口元から煙草を離すと、小林は悪戯っぽく笑んでみせた。
カチカチと鳴るライター。点いた火は小さく、屋上の風に煽られるがままだ。
「これ吸ったら、嫌なこと忘れられるかな、と思って」
小林は煙草を指先で弄んだ後、再び唇に挟んだ。
「佐藤は、どう思う?」
「……さあな。吸ったことねーし」
「だよね。なんかそれっぽい」
馬鹿にされたというわけでは、ない。たぶん。
その証拠に、小林の瞳には真摯な色が浮かんでいたから。
「どうにかして、なにもかも忘れたりとか、出来ないかな~」
「……忘れたいことが、あるのか?」
「うん。忘れたいことっていうか、ぜんぶ。ぜんぶ忘れてみたい」
逡巡する。
先ほどまでの小林相手なら、取り合わずに立ち上がり、そのまま屋上を後にしていたかもしてない。
けれど。
今、俺の目の前にいる小林には、親近感を覚える。
その根本は、わからないけれど。
こいつも、俺と同じが――それに近い人間なのかもしれない。
「……一瞬、頭をからっぽにするだけなら、良い方法があるぞ」
「え、まじ?」
「ああ」
首肯し、俺は再び屋上に寝そべった。
「さっきやってた『コレ』な。少しだけだが、いろんなことが頭から飛ぶ」
「へー」
茶化されるかと思ったが、
「……やってみよっかな」
ぽつりと、零すような呟き。
んしょ、という声。
近くなった、小林の気配。
俺は、小林の方を見なかった。
ただ、空を眺め続ける。
広大な空は、先ほどとなにも変わっていない。
世界から、自分という存在が切り取られるような感覚が、身を包んでいく。
「こうしてると、自分が世界で一人みたいな感じにならないか? 一人なら……他人を気にしなくて済むから、すっげー楽じゃないか?」
恥だけじゃない。
他人を気にしなくて済む、というのは、あらゆる方向にストレスフリーだ。
人が思うこと、考えることの大半は、きっと他人に由来するものだから。
すべてを忘れたいなら、まず他人を忘れてしまうべきなのだ。と、俺は考える。
「――んー、どうだろ」
予想とは異なる返事だった。
少し、驚いて。
でも、俺と小林は他人だから。感じ方も当然異なるのだろうと、納得しかけた時。
「隣に佐藤が居てくれるから。『ひとり!』って感じにはならないかも。空は綺麗だけど」
また、不意を突かれた。
思わず、隣を見てしまう。
そこには、煙草を咥えたまま、穏やかな笑みを浮かべる小林がいた。
「なるほどね~、佐藤は『これ』をやってたんだ」
得心したように頷いた後、小林は勢いよく身を起こした。
「けっこうスッキリした!」
「そっか」
「うん。ありがとね」
「俺は別に、なにもしてない」
「そうでもないでしょ……あ、そうだ」
なにかを思い付いたらしい小林は、口元の煙草を指で摘まむと――
「お礼に、これあげる」
直前まで自分が咥えていた煙草を、俺の口に差し込んできた。
数秒、視界と体が硬直する。
「えへへ」
薄桃色の唇が、愉快そうに歪む。
俺の思考が回復する前に、小林はひらりと立ち上がってしまった。
「じゃあね、佐藤。おもしろかったよ、キミが」
「お、おい、ちょっと待て!」
「なに? 次まで待ちきれない?」
「いや、そうじゃなくて、お前、これ……」
「あははっ! 間接キスくらいで、顔真っ赤になりすぎでしょ!」
「ぐっ! ちげーよ! こんなもん持ってたら、余計な詮索されるだろうが!」
叫ぶ俺へ、小林は手を振って、
「また会いたかったら――俺のこと、見つけてくれよ。楽しみにしてるからさ」
そう言い残して、屋上から姿を消してしまった。
「……」
たった数分の出来事。
記憶は、明瞭なのに。
現実感がどうにも乏しくて。
だけど。
俺の手の中には、一本の煙草が転がっている。
そして――小林 優里という名前。
この二つは、たしかに俺の中に残っている。存在している。
悩みはしなかった。
屋上を出て、なにをするのか。既に決まっていた。
ここに踏み入る前は、世界からの孤立を望んでいたのに。
失った恋を、忘れようとしていたのに。
また、恥をかくかもしれないのに。
俺は、誰もいない世界を後にする。
孤立出来る世界に、背を向ける。
歩き出す。他人のいる世界へと。