第一部
混沌としていた時代に、僕は何をしていたかと聞かれれば、世の中に対して批判的で、すごく優等生のふりをしていたが実はやんちゃ高校生をやっていた、という言葉がぴったりだろう。
あの日、僕はスポーツサイクルを漕いで、新宿のビル街の歩道をかっ飛ばしていた。高校からの帰宅途中だと言うのに、まるで朝起きたばかりの時みたいに寝癖だらけの髪を風になびかせていたことをよく覚えている。季節はまだ春だったにも限らず、青地に黒のラインの入ったお気に入りのTシャツに普通の短パンの夏服姿という何とも場違いな格好だった。背中にリュックをしょっていた。
ふと、僕の上空からコーンに載ったアイスが落ちてきた。ミラトが捨てたアイスだ。アイスは僕のTシャツにベチョッとつき、
「え、あ、アイス⁉……俺の新品のTシャツが!」
キーッとブレーキの音を鳴らしてチャリを止めた。
「あ~あ……この間買ったばかりなのに」
自分のものはなんでも大事にする僕にとってショックはでかい。僕の乗るスポーツサイクルも愛するものの一つ、つまり愛車だ。
Tシャツの腹の部分にベッチョリついたアイスを憎たらしく取り、歩道の脇にポイ捨て。ポイ捨てした先には工事現場の白いしきりのような壁があった。
上を見上げた。遥か上空には未来の自動車が飛行していた。
「チッ、車が空を飛ぶ必要なんてないんだ」
僕は近代化にすごく反抗的だった。持っていた携帯だって、二一九九年なのにまだガラケーだった。不満げな顔をしながらスポーツサイクルにまたがり、漕ぎ始めた。
信号待ちをしている人々がたくさんいた。その人ごみに突っ込んでいく馬鹿野郎はもちろん僕で、自転車の速度を落とさずにいつもの挑戦を試みた。
「わあ!」
「危ない!」
突っ込んでいく僕を人々が左右によけていった。
「よっおっとっと」
僕はシャープな車体の自転車を巧みに操って人々をかわしていった。まるで海を自由自在に泳ぐ魚になったような気分だった。スピードを落とさずに人ごみを今日も無事、切り抜けた。と思っていたのもつかの間。
スマホを凝視している中年のサラリーマンがフラッと後ろに下がった。
「よっ」
僕はサラリーマンにぶつかるスレスレの所で左にかわした。サラリーマンはスマホから顔を上げ、
「おい!お前、危ねえぞ!」
と怒鳴った。僕は平然とした顔で、
「すいまへ~ん」
とだけ言って、過ぎ去った。いつものことだったので、へっちゃら~と余裕な感じ。
キーとブレーキの音を鳴らし、チャリを止めた。チャリから降りて、コンビニの脇に駐輪した。そして、コンビニの自動ドアへと歩いて近づいた。
自動ドアの前に来ると、開かなかった。
「あれ?」
コンビニの店内を見た。店内のお客も、店員も、皆止まっていた。
「え……」
後ろを振り向き、歩道の向こう側の車道を見た。全ての自動車が止まっていた。僕は恐怖に苛まれ、歩道に出た。横断歩道の途中で、あるいは歩道の途中で、全ての人が止まっていた。空を見上げた。遥か上空の空飛ぶ自動車も、皆止まっていた。
「なんで……」
奥のビルの上に見える夕日がギューンと急速に沈み、暗くなった。
不吉な夜だった。車道の左右両側のビルの上に、奥の方から黒い化け物のような巨大な影がこちらへ向かって次々と現れた。僕は唖然として立ち尽くした。
「ピピピッピピピッ」
短パンのポケットから携帯の電子音が鳴った。ポケットからガラケーが飛び出してきて、目の前に浮上した。
「!……」
空中でパカッとガラケーが開き、真っ暗な画面に黄色い文字が浮かんだ。
『管理人Xより……』
その下から次々と黄色い文字が出てきた。
『これからゲームを始める。まず、この包丁を手に持て』
手元に包丁が現れた。その途端、ガラケーの下から槍の先が突き出してきた。槍の矛先が首に刺さる寸前で僕は持ち前の反射神経で後ろに反ってよけた。槍が消えると、ガラケーが空中を進んで目の前に迫ってきた。
『今のは敵の攻撃だ。その包丁で敵を刺せ』
今度は槍とそれを持った何者かの手、何者かの裸の腹が、前方から右の脇に飛んできた。僕は体を横向きにして槍をよけた。手元の包丁が目に入った。
「敵を刺せ」
頭の中で、ガラケーの文字が音声となってこだました。
とっさに包丁を握り、ちょうど包丁の先に来た何者かの腹をブスッと刺してしまった。気持ち悪いほど滑らかに包丁が腹に刺さった。
「うっあっ!」
うめき声と共にその何者かの顔が一瞬だけちらりと現れ、
「和馬⁉」
同じクラスの同級生、宮本和馬と気づいたときにはもう全て消えていた。
残ったのは宙に浮くガラケーだけだった。ガラケーの画面には黄色い文字で
『ミッション1:クリア』
僕はガラケーをにらみつけた。
「いったい誰が何のために……」
ガラケーがぴろりんと鳴った。
『管理人Xより……』
「X?Xって誰だ!」
混乱に陥った僕が叫んだ途端、
『次のミッション:お前の高校まで走れ』
「はあ?俺の高校までって……ここからどんだけあると思ってんだよ!」
スッとガラケーの左から銃が現れた。銃口は僕の顔に向けられていた。
『顔に穴ぼこ作りたいか?』
恐怖の感情が、じわじわと湧き上がってきた。
ガラケーを見、そして銃を見た。
「……あーもう分かったよ!走ればいいんだろ!」
やけくそになって走り出した。銃が消え、ガラケーが閉じて短パンのポケットの中に入った。
夜なのになぜだか高校の門が開いていた。僕は走ってきて、
「ハア、ハア」
と膝に手をつき、肩で息をした。額やこめかみに汗をかいていて、その汗が垂れて、
右手で拭った。
「ピピピッピピピッ」
短パンのポケットから携帯の電子音が鳴った。ポケットからガラケーが飛び出して、
目の前に浮上し、空中でパカッと開いた。
『ミッション2:クリア』
「……ふっざけんな……」
『校庭の真ん中に行け』
「まだ終わんねえのかよ……」
とぼとぼと高校の校庭へと歩いた。
大きくそびえ立つ校舎を見上げた。
「……夜の校舎ってこえ―な」
顔の左にガラケーが浮上してきた。
「今度は何だよ」
呆れて左を向いてガラケーの画面を見た。
『この銃を持て』
ガラケーの下に一丁の拳銃が現れた。僕は体ごと左を向いて、
「……本物の銃なのか?」
拳銃を右手で握ってみた。
「バッババッバッ」
突然、地面の砂を蹴散らす音が聞こえてきた。顔を上げると、周りを円で囲むように黒い人影が一つ高速で動いていた。(人の形をした影が円の軌道を描いて動いていた。)
『敵を撃て』
「撃つって……相手は人間なのか?」
一方、黒い影の正体(これは後々花恋から聞いたのだが)、清水花恋はパニックになっていた。花恋には、僕の姿は見えておらず、拳銃だけが見えていた。(らしい。)
「なん……で?体が……勝手に」
花恋は高速で銃の周りを見えない力に動かされていた。
『その銃で早く撃て』
僕はガラケーを見、黒い影を見た。
「……撃てば終わるんだよな?すべて、ゲームなんだろ?」
暗闇に問いかけた。だが誰の返事もなかった。
右手の拳銃を上げた。高速で動いている黒い人影を目で追い、ある一点に狙いを定めた。そして、引き金を引いてしまった。
「パンッ!」
発砲音が鳴り響いた。
「キャッ!」
と清水花恋の姿が一瞬だけ現れた。
「花恋⁉」
花恋も僕と同じクラスの同級生だった。しかも密かに想っていた人である。
『ミッション3:クリア』
「まさか……花恋なわけないよな……」
ガラケーと僕以外、全て消えた。
「あれも和馬じゃないよな。全部、嘘だよな」
僕はそう信じたいと強く願った。だがそうではない可能性が、僕の心の奥底にある、
直観的な感覚によって考えられてしまっていた。
ぴろりんとガラケーが鳴った。
『飛べ』
「おい……これで終わりじゃねえのか」
体が宙に浮き始めた。
「わぁ、ぁ、ぁ、わぁ!」
校舎の屋上に向かって、見えない力に押されて飛ばされた。ガラケーも僕についてきた。
空中で手足をウニョウニョ動かしながら(抵抗するように)飛んできた。その格好は僕らしくなく、みっともなかったと思う。
屋上まで来ると、見えない力がなくなって、ストンッと屋上の床の上に落ちた。
「ここは……屋上か」
後ろの校庭の方を振り返るとガラケーが飛んできた。
『助走をつけて屋上から飛び降りろ』
僕は怒りで顔をぶるぶる震わせた。
「最後に俺を殺す気か?……」
『飛び降りてもお前は死なないしケガもしない。このミッションをクリアすれば今までのは全てゲームとしてリセットされる』
「……」
少しの間、考えた。
ーゲームというのは全て嘘だし、幻想だ。リセットもできるし、自分が死ぬことも、ほかの人が死ぬことも、まずない。だけどこの体験は本当に嘘なのだろうか?生々しいにもほどがある……
だが心の奥底で、ゲームだ、ゲームだと自分に言い聞かせ始めた。
体を校庭の方に向けて、校庭と向かい合った。
「本当に、リセットされるんだな?」
『これはただのゲームだ。現実に何ら影響はない。ちなみに、飛び降りる時は斜め下にライダーキックするように』
「ライダーキック⁉ふざけてんのか?」
だが、返事はなかった。ピューと顔に夜風が当たった。
「もーどうにでもなれ!」
僕はやけくそに走って、校庭に向かって飛び降りた。
斜め下に向かって足から急降下した。足の先に黒い影が現れた。
「!」
なにかを踏んだ感触になり、左足がウニョんとなにかに衝撃を吸収された。
それは、太った人間の大きな腹だった。
「ぐはっ!」
森口康太郎の腹だった(ことは後で判明した)。だが、森口の顔も何も見えず、腹も消えた。
「今……何か踏んだよな……」
森口の腹がクッションとなったおかげで、僕の落ちるスピードが緩くなった。
地面の砂の上にザザザーと両足を少し前後に広げて着地した。パッと周りが急に明るくなった。
桜の花びらが、着地したポーズのままの僕の足元に降ってきた。
「え?……」
顔を上げた。門には登校する生徒がたくさん入ってきていた。
―朝になったのか?次の朝か?いや昨日の朝か?……
「おーい、優馬―。そこで何かっこつけてんだよ」
自転車置き場の方を見た。僕に何かと絡んでくるクラスメイト、野本健太がこちらを見ていた。
「え、あ、いや別に……」
「お前、らしくないじゃん。自転車で転ぶなんて」
「自転車?」
横の地面を見ると、愛車のスポーツサイクルが転がっていた。
「なんで俺のチャリが?……」
チャリはコンビニに置きっぱなしにしたはずだった。
―おかしい。何かが、いや全てがおかしい。時間の進み方も、空間の変わりようも、全てが狂っている。
はっとして首をブンッブンッと回し、
「俺の携帯は?」
ポンッと左手が短パンのポケットに触れた。ポケットはガラケーの形に出っ張っていた。
「……」
恐る恐るポケットからガラケーを取り出した。パカッとガラケーを開いた。
画面には何の文字もなく、真っ暗だった。
僕は力が抜けたように肩を降ろし、
「……何だったんだ……」
階段を上っていた。校舎の一階と二階をつなぐ階段だ。
「幽霊よ、出てこい!」
声のした二階の方を見た。
高一の女子生徒がスマホを振り回して廊下を走っていた。
(あれは一部のオタクではやりの幽霊なんとかっていうスマホゲームだ)
僕はその生徒に冷たい視線を送って踊り場を曲がった。
僕はゲームオタクに冷たい。スマホを持っていないのもそのせいだ。スマホゲームは社会悪だとしか、僕は思っていない。
三階へと階段を上り続けた。
僕が『2―1』に入ると、
「おはよー」
と数人の女子が声をかけてきた。僕の容姿が少しばかりカッコイイせいか、クラスの女子には人気者だった。(らしい。)
「おはよう……」
立ち止まった。自分の目を、疑った。
「いない……。あいつらがいない!」
クラスの窓側の一番後ろにあったはずの三つの席が、机もイスもなく、ガランとしていた。
「どうした?優馬。今日のお前、おかしくね」
健太が彼の席から僕を見ていた。
僕は必死の形相で、
「あいつらがいないんだよ!」
「あいつらって誰のことだよ?」
「健太、お前正気か?……和馬と花恋と……森口だよ」
「誰それ?お前ら知ってるか?」
クラスメイトに問いかけた健太。近くの男子が、
「俺知らねえ」
女子も、
「私も……知らない」
そんなはずがあるわけがなかった。
僕は必死に、
「ほら、和馬は不愛想だけど正直者のいい奴で、花恋は美人で優しい素敵な女の子で……森口は不良だけど」
「お前、夢でも見たんじゃないか?そんな奴、このクラスの誰も知らないし、この高校にもいないんじゃねえの?」
「……」
信じたくなかった。でも信じざるを得ない現実が、そこにあった。
呆然と立ち尽くし、世界がまるで自分をあざ笑っているかのように思えた。
放課後。上履きを下駄箱の中に入れて靴を取り出した。
ふっと急に思いつき、
「そうだ!あいつらの下駄箱だって……あるはず」
下駄箱を見た。だが、『33』まででそれ以降は番号もなく、上履きも靴もなかった。
「34、35、36……が、ない……」
和馬、花恋、森口の番号がない……
「ピピピッ」
短パンのポケットのガラケーが鳴った。
僕はサッと素早くポケットからガラケーを取り出し、周りを警戒しながらガラケーを開いた。
『宮本和馬、清水花恋、森口康太郎の上記三名はお前の手によって殺害された。この三名は元々この世界にいなかったこととなり、三名に関係する人、お前を除いて全ての人の記憶から消えた』
「……わけわかんねえ……」
頭がくらくらした。僕が、殺した……。あいつらが皆の記憶から消えた?
―ありえない。どう考えても受け入れられない。これはもしかしたら夢なのかもしれない。いや、でもこんなに長く、生々しい夢など未だかつて見たことがあるか?
気を紛らそうと寝癖だらけの頭を掻きむしった。
僕がかつて住んでいた進藤家は立派な門構えの大きな一軒家だった。門の中には広めの庭があった。
下校した僕は門の鍵を開けて、スポーツサイクルを押して家の庭へと歩いて入った。
部屋のドアを開け、中に入った。
そこは普段と何も変わってない、自分の部屋だった。机とベッド、窓があった。
リュックを下に降ろし、横のベッドにダイブした。体を仰向けに変えて、
「ゲームじゃなかったのかよ……」
家に帰ってようやく、僕はこれが現実であることを認めた。認めざるを得なかった。
左手で短パンのポケットからガラケーを取り出した。ガラケーを開くと、画面は真っ暗だった。右手の指で電源ボタンを押そうとした。だが、やめて、右手でガシッとガラケーをつかみ、
「ぜんぶ、この携帯のせいだ!」
壁に向かってガラケーを投げ捨てた。ガラケーは、夕日(西日)の射し込む窓の下の床を転がった。
ガラケーは、大切にしていたものの一つだ。そんなガラケーを捨ててしまいたいほど、僕の気持ちは塞ぎ込んでいた。確かに、ガラケーでなければ全ての事件に巻き込まれなかったし、ガラケーのせいだと考えても、この時の精神状態では普通のことだった。
しかしー。この携帯に命令文を送ってきた、X。その正体は謎であり、そいつのせ
いだと、薄々感じていた。だが正体の分からない者に怒りをぶつけられようか?
とにかく、混乱した頭を整理するために深い眠りについた。
「行ってきまーす」
赤色のTシャツに着替えた僕は玄関のドアを開けた。
新しい一日の、始まりだ。少しばかり昨日よりは前向きに考えられていた。
―学校に行けば、何かが分かるかもしれない。もしかしたら、全て、元通りになっ
ているかもしれない。
そんな期待を抱きながら、庭に駐輪してあるスポーツサイクルを押して、門に向かった。
未来の空飛ぶ自動車が一台、ゆっくりと降下してきた。青い光を発しながら、高校の校庭の地面に着地した。後部座席のドアが開き、おしゃれな私服の女子高生が出てきた。二十二世紀末の東京のお嬢様は、こんなに優雅だったのだ。
その横をビュンッとスポーツサイクルで通り過ぎてやった。風でスカートでもめくれりゃいいのにと内心思いながら。
『2―1』のクラスの生徒三十二名が席についていた。その中に僕もいた。
やはり、昨日消えた三名の席はなかった。だが、机とイスはあるのに、誰も座っていないガランとした席が一つあった。
僕は、消えた三名のことで失望していた。朝から早々、期待が完全に裏切られた。
担任の温井先生が教室に入ってきた。
「みんな、おはよう」
「おはようございます」
温井先生は小太りで丸顔のおっさんだ。一つだけ空いている席を見て、
「あちゃー、草柳真は今日も来てないか」
クラスの中がシーンと静まり返った。
廊下のアナログ時計の針がカチッと十二時をさした。
「キーンコーンカーンコーン」とお昼のチャイムが鳴った。
僕は自分の席で空になった弁当箱をリュックに入れた。
「おい優馬、ちょっと来いよ」
健太が絡んできた。健太は、スマホを凝視している子分たちに囲まれていた。
「なに?なんか用?」
絡まれたくない気分だったのだ。
「おいおい冷てえな。お前にいい話があんだけどな……」
「いい話?」
僕はその時、いい話に弱かった。昨日からいい話など一切なかったからだ。
席を立ち上がり、健太の元に近寄った。健太はスマホの画面を見せてきて、
「すげえいいゲーム見つけたんだよ。ほら、お前ガラケー使ってるだろ?このゲーム、ガラケーでもダウンロードできて、スマホと通信して対戦できるらしいぜ」
〝ゲーム〟は僕にとって、禁句だった。しかも、僕はスマホゲームを忌み嫌っているし、ゲーム全般に大嫌いだ。
「俺、ゲームとかいいから……もうガラケーも捨てたし」
「捨てた⁉……」
「うん。いっそ、スマホに替えようかな」
「おうおうついに優馬がスマホを買うか!……でも、なんか、優馬がアナログ人間を脱したら優馬じゃなくなるみたいな」
「確かに―」
子分の一人がうなずいた。
「この二十二世紀末の絶滅危惧種だもんなー……アナログ人間って」
もう一人の子分の一言で僕の気持ちはさらに暗くなった。
「……」
アナログ人間……。ほめられてるのか、けなされてるのか。僕のアイデンティティはアナログ人間?
僕は机につっぷして寝ていた。夕方の、いちばん眠い時間帯で、歴史という一番眠い授業だった。
教壇では歴史の教師、小内が話していた。小内はつるつるのはげ頭だった。教科書を見ながら、
「えー一九九六年、核実験を全面禁止する包括的核実験禁止条約が国連で採択された。だがその後も核実験はやめられず、核の脅威は続いた」
眠そうな顔をしていた大半の生徒を見て、
「よーし、ここからが大事だ。二十一世紀末、新たな展開が見られた。アメリカを中心とする先進諸国が本格的な核廃絶運動を始めた。小さな紛争などを起こしながらも、対話や交渉を主体に核を廃絶していった。その結果、二十二世紀末の現在、北朝鮮を除く全ての国が全世界核兵器不使用条約に調印した。つまり、核の脅威はほとんどなくなったわけだ」
一人の真面目そうな男子生徒が手を挙げ、
「でも小内先生、今、対北朝鮮何とかビーム砲とかいうのが作られてますよね?あれ、北朝鮮がやばいからじゃ……」
小内、興奮して、
「そうなんだ。宇宙巨大ビーム砲というのが開発されたんだ」
小内は黒板にチョークで簡単な宇宙巨大ビーム砲の絵を描いた。
「これがなー相当すごいもんなんだよ。宇宙から攻撃しようという、世界初の試みだ。しかも、日本とアメリカが共同して作るという大変誇らしいことだ」
世界情勢に疎い、たぶん新聞もニュースも見ていないような女子生徒が手を挙げ、
「先生、テロとかはどうなっているんですか?」
「テロの脅威も、最近イスラム国の撲滅によってなくなりつつある。それよりも何よりも、日本とアメリカを中心とする多国籍軍のあの超大型ロボット!あれもすごい!」
小内は黒板の別のスペースに超大型ロボットの簡単な絵を描いた。
「日本が世界で最初に開発した、体長二十メートルを超える大きさのロボットだ。アメリカも日本に倣って開発し、世界平和のため、数々の輝かしい功績を残してきた」
小内、教科書を教卓の上に置き、バンッと両手を教卓の上について、
「みんな、今の日本は最強だ!超高度経済成長期の真っただ中、いわば世界の中心にいるのが君たち若者だ。君たちが世界のリーダーとなって活躍することを願っている」
僕は顔を上げた。机の上に頬杖をついて、
「そういうのが……息苦しいんだよ」
何がリーダーだ。何が世界の中心だ。大人たちはそうやって、僕たちに重荷を押し付けてきた。
そんなことより……もっと、大事なことがある。人々が気づいてない、本当に大切で、忘れてはいけないこと。―戦争の歴史。死んだ人々の心の傷跡。
歴史から学ぶことはもっとあるはずなのに、学校では教科書的事実やくだらない軍事技術しか、教えてくれなかった。かつての日本、世界はどんな過ちを犯し、それをどう乗り越えていったか。それが知りたかったのに……
ため息をついた。
『2―1』のクラスの中から廊下へ生徒が溢れ出して下校していった。
僕は机の上にワークを広げて、問題を解いていた。クラスの中には僕以外、誰もいなかった。
「おーい優馬。帰ろうぜ」
教室の出口に健太が立っており、声をかけてきた。僕は健太の方を見て、
「いや、テスト近いから今日はもうちょっと勉強する」
「そっか……優馬は偉いなー。俺も、家で頑張るわ。じゃあな」
「じゃあね……」
健太がいなくなって本当に一人になると、ワークを閉じてリュックにしまった。
嘘も方便。勉強するというのは建前で、本当は一人になりたかっただけだ。
学校で一人になれば、何か分かるかもしれないー
リュックから一冊のノートを取り出した。ノートを開き、シャーペンで
『管理人Xは誰だ?』
と書き、丸で囲んだ。そこから線を引き、
『教師:温井先生?』
温井先生は担任だが、消えた和馬、花恋、森口の記憶を消されていたに違いなかった。だから今日も昨日も気づかなかったのだ。
「いや、違う」
『温井先生』の上に✕印を書いた。
上の丸からまた線を引いて、
『健太?』
健太は少し面倒くさい奴だが、そんなに悪い性格じゃないし、ずっと僕に嘘をつけるはずがなかった。
「……あいつも、違う」
『健太』の上に✕印を書いた。
そこから下に線を引いて、
『同級生?』
その下に線を引き、
『草柳真』
そこで手が止まった。
「……いや、あいつは不登校だから何にも知らないよな」
学校に来てなかったから、和馬、花恋、森口が消えたことも、いやクラスメイトに誰がいたかさえも知らなかったと推察できた。あいつが不登校になってからだいぶ経っていた。
消しゴムで『草柳真』の字を消した。
ノートをバタンッと閉じて、立ち上がり、
「あーだめだ。頭が整理できない。……図書室にでも行こう」
早く真実を知りたい。その一心で教室を出た。