第37話 El Paraísoのブラックナロー
師走。この日の数日前、久し振りに4気筒発動機に火が入った。
ズウォオム!
暫く何度かアクセルを開いて煽ってやるが、タコメーターの針とアイドリングはスルスルと落ちて失火してしまう…。才子は運転席から片脚を出して再始動させると一目散に後方のエンジンルームに首を突っ込んだ老整備士の元に駆ける!そしてそのWEBERを調整する手許を凝視。爺ちゃんはスロットル/アイドル アジャスタースクリューを其々専用のドライバーで微調整。アイドリングを少々高めに…1,000回転弱、800くらいで落ち着けた。
ズロ〜ム!
ズロロ〜ム!
ッラロラロラロラロラロ……
『うん、ちょっと安定してきたかの?組み付けも然程 悪うなさそうじゃ』
点火系統の調整は本当にデリケート。そして爺ちゃんによって擦り合わされた新しいピストン/シリンダーは始動しただけでは一聴、その違いはわからないな。鳴物入りの86φ 1,750ccビッグボアキット…その恩恵や?走り出したらやっぱ違うのかな?
兎に角、運転席に収った私は"おひさ!相棒!" と心で呟いてVDMのウッドをトントンとした。数週間ぶりの逢瀬に胸が高鳴りワクワクが止まらない。
『余り吹かしすぎん様にな』
『うん、わかった!』
隣に座った爺ちゃんに逸る気持ちを見透かされ諫められつつ、こんな感じで様子見と細部の微調整繰り返しながら近所を走ること数日。当初のアイドリング不安定さも時折り覗いていた不整脈やパンパン音…構造/働きなんかを知る為の'爺ちゃんカリキュラム'で一度外して手伝って貰いながら真鍮色の各ジェット交換したりして組み上げたから…も次第に頻度を減らし、さぁ! 仕上げでお山まで待望の本格試走だ〜! と行きたいところだったが、残念ながら今日はその最終試走も兼ねて修理車両のお引き取りに出向くってわけ。
自走が可能らしいから積車じゃなく、隣市からの帰りはその車を爺ちゃんが運転して戻る手筈。まぁ乗れるならなんでもいいや!
…
冷え込む冬の気温は…どうやらポルシェにとってもいい季節なのかな?
乗り出した夏の頃とは明らかに違う感じがする。何処がどうとはうまく説明出来ないんだけど…後方からは確かにそんなご機嫌な4気筒の鼓動が伝わってくる。
しかしたった数週間なのに随分離れてた気がするな? 私を虜にしたこの揺り籠の様なゆるやかで心地いい振動と旋律に包まれる恍惚する様な感覚。体感そして聴覚からと共に嗅覚は…ヒートエクスチェンジャーの構造を知ったから、完全に密閉されていない造り故に微妙な排気臭が混じる事を理解したこの特有なヒーターシステムによる脚元からもわぁっと上がってくる暖かい空気をして、鼻腔から神経を侵蝕し悦楽のポルシェの媚香として蕩す。
あ〜やっぱり私はこのクルマが大好きだ〜!と心の中で叫んだ。
"おいおい病気だな?普通お年頃のムスメはそう言うのは男子に抱くもんだろ?"…とソイツは呟いたが、私はほっとけ!と往なした。
国道を一途北上、川沿いを抜けて山間部の県道は'険道'と揶揄されるちょっと、いやかなり荒れた道。一応かなり以前のものと思しきアスファルト舗装は施してあって道幅もとってはあるが、それも痛み枝葉や礫が散乱し、所々舗装が傷みガタガタ凸凹してる箇所もある。切り立った割に所々ガードレールも途切れ、いつものそれでも整備されたお山のルートとはえらい違いだと才子は思った。
『ん〜?何ここ?もしかしたらこの先で立ち往生かなんか?』
『着いてのお楽しみじゃ。』
1時間弱程のドライブの後到着したどうやら目的地らしいその場所は、ポツンと一軒家…ではなく数棟の納屋の様な建物が点在する樹々の中に少し開けた広場みたいなところ。
『?』
その内の黒いクルマが少し顔を覗かせた一棟からポルシェにパタパタ音を聞きつけて出てきたおじさんには爺ちゃんににこやかに会釈した。
『国松さん、楽園 = El paraíso にようこそ!』




