覚悟
雛ばあは頼れない。となると、やっぱり独学か。そんなことを考えながら、玉ねぎの皮を剥いていく。
「凪や」
「ひゃっ」
いつの間に入って来たのか、後ろに雛ばあがいた。戸が開く音も足音もしなかった。
「びっくりした。どうしたの? あ、せっかく来たんだから、夕食食べて泊まってってよ」
「あんたに料理させて、達彦はどこにいるんだい?」
「多分、本堂の方で仕事してるよ」
「あの馬鹿者が。凪、料理は私がやるから、あんたはあんたのすべきことをするんだね」
雛ばあは私を手で追いやると、台所に立った。でも足場がないから、台に届かない。私はお風呂から椅子を持ってきてあげた。
「久しぶりに一緒に作らない?」
「あんたはあんたのすべきことをするんだね」
雛ばあは同じことを言った。水分がなさそうな横顔で。
「ありがとう、雛ばあ。私、頑張ってみる」
部屋に戻り、バレエの基本姿勢を練習する。やっぱり、できているのか、できていないのかも分からない。どうしよう。どうすれば。そんなことを考えている内に、夕食ができたと雛ばあが言いに来た。流し目で私のパラレルの姿勢を見ると、首を傾げて一階へ降りて行った。
食卓には、肉じゃがとポテトサラダと納豆が並んでいた。今日はじゃがいもの日だ。
「達彦。あんた、いつまで凪に料理作らせる気だい? 受験生に家事やらせてんじゃないよ、まったく」
彦おじさんが頭を押さえた。
「凪、すまん。負担になってたよな」
「いいの。料理や洗濯って、行き詰まってる時はいい気分転換になるから」
「いや、これからはなるべく僕がするよ。家族なんだから、協力できることは協力しないとな、お、ふ、く、ろ」
彦おじさんが雛ばあを睨んでいる。笑顔で。
「何が言いたいんだい?」
「おふくろは当然、凪にバレエを教えてくれるんだよな?」
雛ばあが目を閉じて、肉じゃがの汁で光っている糸こんにゃくを口に入れた。
「おい。やっぱり凪の頼みを断ってたんだな」
「彦おじさん、違うの。私は頼んだりしてなくて、その、自分で、独学でやれるかもって、それで」
「凪、おふくろに気を遣う必要なんてないんだ。おい、おふくろ。何とか言ったらどうなんだ? 黙っているのは卑怯だぞ」
「お黙りっ」
雛ばあが目を見開いた。食器が震えたような気がした。そう錯覚させるほどの圧があった。
「だ、黙らないぞ。凪が頑張るって言ってるのに、協力しないのはおかしいだろ」
「おかしいもんかい。桜水音楽学校なんて行かない方がいいんだよ。他のどの学校へ行こうとかまいやしない。でも、桜水だけは反対だね。絶対駄目だ」
「どうしてだよ? 姉さんが桜水へ行ったからか?」
「達彦っ」
雛ばあが箸を放って、両手を机に叩きつけた。今度は実際に食器が跳ね上がった。
「凪の前で美咲の話をするんじゃないよ」
彦おじさんはかぶりを振った。
「違うんだよ、おふくろ。凪の前でこそ、姉さんの話をするべきだったんだ」
「いっちょまえにかっこつけてるんじゃないよ。ならあんたは、美咲がどういう理由で、凪を私達に預けて出て行ったかも、話せるっていうのかい?」
彦おじさんの喉仏が上下する。私もつばを飲み込んでしまう。
「それは」
「そら見たことかい。覚悟もないのにかっこだけつけてんじゃないよ。いいかい。凪の前で美咲の話をするって言うんなら、あの子の輝かしい実績と人でなしの部分、その両方を話さなくちゃいけないんだ。どっちかだけ話し、凪が先入観や偏見を持ってしまったら、それこそ凪の為にならないじゃないか。もっとよく考えてからものを言うんだね、この、馬鹿息子がっ」
彦おじさんは、まるで本当に叩かれでもしたかのように頭を下げた。
私は茶碗を置いて、膝の上に手を重ねた。あごを上げ、目に力をこめて言う。
「覚悟なら、あるよ」
「凪。無理を言わないでおくれ。この馬鹿息子にも私にも、覚悟なんてないんだよ。だから、十五年間ずっと美咲の話題を避けてきた」
「違う。私が言ってるのは、私の覚悟」
雛ばあの口が半開きのまま震えはじめた。
「どうしてお母さんが私を置いて行ったのか。どうして一度も私に会いに来てくれないのか。理由があるんだよね? 私、聞くよ。聞く覚悟が、私にはある」
どんな残酷な理由でもいい。聞きたい。もうお母さんから逃げるのは、やめだ。桜水へ行くって決めたとき、私は、お母さんと向き合うって決めたから。
「雛ばあと彦おじさんが私を気遣ってくれているのは、分かってる。ありがたいとも思ってる。だから、二人が言いたくないのなら、無理にとは言わない。でも、お母さんに会ったら、どのみち訊いちゃうよ」
雛ばあが咳き込む。私は傍へ行って背中をさすってあげる。
「会うって、どうやって会うつもりだい? あの子は、もう、この島には」
「雛ばあ。あのね、私、桜水音楽学校を受験して、合格して、入学して、それで、それでね、いつか、桜水のトップに立つ。立ちたい。トップ娘役として桜水の舞台に立てば、きっとお母さん見に来てくれる」
「あの子が見に来る保証なんてないだろうに」
痛いとこ突くなあ。確かに、私が言っているのは、希望的観測ってやつだ。そもそも私がトップ娘役ってところから無理があり過ぎる。チビだし、バレエできないし。
でも。
「見に来ないって保証もない」
「屁理屈だね」
「あはは。そうかも。でも、会えないなら会えないでいいんだ。お母さんの立っていた舞台に立って、桜水でしか歌えない歌を歌えれば、満足しちゃう気がする。いや、どうだろう。逆で、もっともっと歌いたいって思うかも。想像がつかないや。あ、ごめんなさい。私、舞い上がっちゃって」
いつの間にか、早口になっていた。
「謝らなくていい」
と言った切り、雛ばあは食事が終わるまで何もしゃべらなかった。肉じゃがを噛むあごの動きがどことなくぎこちなかった。
「大丈夫? 入れ歯の具合、悪かったりする?」
と私が言っても、雛ばあは無視だ。やっぱり怒っているのかな。
「おふくろ、何か言えよな」
これも無視だ。でも彦おじさんはめげなかった。彦おじさんだけしゃべり続けた。でも、雛ばあは一言も返さなかった。
「ごちそうさん。私は帰るから」
「泊まっていかないの? 外、もう真っ暗だよ。危ないよ」
「帰るから」
「あの、雛ばあ、怒ってる、よね?」
雛ばあは、私の視線を躱すように踵を返し、戸に手をかけた。
彦おじさんも靴を履く。
「ったく強情だな。凪、おふくろを送っていくから、留守番を頼む」
「要らん」
「七十の年寄りが何言ってるんだよ。変な意地張るんじゃない」
「凪」
「はい」
急に名前を呼ばれたので、背筋が伸びた。って、私、いつも猫背なのかな。駄目だ駄目だ。桜水の舞台に立つなら、普段から姿勢は意識してないと。
「雛ばあ?」
雛ばあは私に背を向けたまま、何も言ってはくれない。でも、小さくて丸い背中は何か言っているようだった。
「私が送ってこうか?」
「なら、頼もうかね」
雛ばあが返事をする前から、私は動き出していた。だってきっと、雛ばあ、私に言いたいことがあるはずだ。夕食の間、ずっと考えていたことがあるはず。私は聞くよ。だって、聞く覚悟があるって言った。
「凪。上着」
雛ばあに言われて、自分が防寒着を身に着けていないことに気がついた。十一月の夜に制服だけじゃ寒すぎる。部屋に戻り、スカートを綿のパンツに履き替えて、コートを羽織る。毛糸の手袋に指を通して、マフラーが必要か一考し、置いて行く。




