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凪の歌  作者: 仙葉康大
第二章
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スポットライトの外

 できない。


 学校の図書室で借りたクラシックバレエの本を読みながら、私は、音楽室の片隅で基本姿勢をとろうとしていた。「パラレル」という、つま先をまっすぐ前へ揃えて、背筋を伸ばして立つ姿勢を試みる。えっと、太ももの内側に体重を集めて、おへそをひっこめる。


「う」


 ここから揃えていたつま先を開いて、「アン・ドゥ・オール」する。あれ? お尻が出てる? 背筋が曲がってる? 自分じゃチェックできないや。


「何してるの?」


 吹奏楽部の子が尋ねてきた。首からサックスを提げている。


「な、何でもないの。私、今日は帰るね」


 帰るも何も合唱部は私一人だ。吹奏楽部は三人。だから、私も時々は楽器を吹いたりするし、吹部の子も合唱してくれたりする。小さな島の中学校なんてそんなものだ。全校生徒の数は五十程度なのに、部活は生徒がしたいことをなるべくやらせるという、甘々な教育方針だから、人気のある野球部とバスケ部以外はどこも部員数が少ない。


 木々の間を抜けて来る西日に、顔を洗われながら、私は山を登り帰宅した。

 鞄を机の傍に下ろす。畳に寝転がって呟く。


「できない」


 バレエを独学でなんて無理がある。かといって、島にバレエ教室なんてない。桜水を諦めることもできない。できないことが積み重なって、私の体を重たくしていく。


 お母さんが傍にいてくれたら、習えたのに。

 思っても仕方のないことを思ってしまう。


 やっぱり、こんな小島から桜水へ挑戦なんて無謀だったのかな。都会に比べて不利だもん。仕方ないよ。

 そう思った瞬間、脳裏にお母さん演じる兵士ロトの姿が浮かんだ。


 何言ってるの? 私。


 仕方ないわけない。だって前例がある。この島出身のある女の子は、桜水音楽学校を受験して合格した。トップオブトップスターとまで呼ばれるようになった。


 お母さんはどうやってバレエを習ったんだろう?


「姉さんはおふくろに習ってたよ」


 夕食の席で、彦おじさんが答えてくれた。


「え? つまり雛ばあが師匠ってこと?」

「姉さんはおふくろを鬼呼ばわりしてた。毎日練習、毎日喧嘩で、夕食の席の雰囲気は最悪だった。僕と親父は二人をなだめながら食事しなくちゃいけなかった」

「想像できないや。だって雛ばあ、あんなに優しいのに」


 いつも私の頭を撫でてくれるし、歌を聞いて褒めてくれる。


「やっぱり娘と孫じゃ大分違うんだよ」

「私にもバレエ教えてくれるかな?」

「分からないな。こればっかりは」


 出たとこ勝負、というわけか。


 翌日、学校が終わってから、私は雛ばあの家へ直行した。


 雛ばあとおじいちゃんは、天具山の(ふもと)で果樹園を営んでいたんだ。おじいちゃんが亡くなってからは、果実を出荷したり売ったりしなくなったけど、梨や桃や蜜柑などの木はまだ残っていて、季節になると実をつける。それを食べるのが私は好き。


 果樹園を抜けると、赤茶色の瓦屋根が見えてきた。平屋で、横に長い家だ。


「雛ばあー、いるー?」


 三和土(たたき)に靴を脱いで居間へ上がる。

 誰もいない。

 仏壇の前に座り、チーンと鳴らして、手を合わせる。


「おじいちゃん。私、桜水音楽学校を受験することにしたの」


 後ろで物音がした。

 振り返ると、雛ばあがいた。畳の上を柿が転がっている。


「凪」


 雛ばあは落とした柿も拾わず、私を凝視するのだった。あ、さっきの聞かれちゃったかな?


「来てたのかい」

「うん」

「柿、食べるかい?」

「うん。あのね、雛ばあ」


 でも、雛ばあはすぐ台所へ引っ込んでしまった。もう私より背が低い雛ばあは、高さ二十センチぐらいの台に乗って、台所に立つ。猫背の背中のまま手を動かしている。白髪の頭は妖怪みたい。でもきっと、悪い妖怪じゃないんだ。いい妖怪だよ。絶対。


 切った柿を皿に盛って、ちゃぶ台に置いた。


「お食べ」

「うん。あの、さ。私、雛ばあにお願いがあるんだ」


 雛ばあは笑顔になる。


「私は凪の言うことなら何でも聞くよ。ただし」


 一段声が低くなった。


「桜水へ行くって言うんなら、話は別だね」

「あは。あはは。この柿、おいしい」


 私はつまようじで柿を刺しては食べ、食べては刺し、明るい空気を出そうと努めた。けれど、雛ばあの目の奥はただ暗く、わずかな光さえ入り込む余地がないほどだった。


「どうしてもダメ?」

「最近、耳が遠くなっていかんねえ」


 嘘つき。私は口をとがらせる。


 でも桜水を受験するっていうのは、私のワガママだもんね。雛ばあがバレエを教えたくないって言うのなら、無理は言えない。


「じゃあさ、雛ばあ。また今度料理教えてよ。煮物の味が日によって安定しないの」

「私だっていつもおんなじにはいかないよ」

「いつもおいしいよ」

「お世辞を言ったって駄目なもんは駄目だよ」

「うん。バレエはもういいの。あのね、今日学校で卓球したんだよ。雛ばあの時代ってどんなスポーツが流行ってた?」


 雛ばあが目を閉じてお茶をすする。

 壁掛け時計の振り子だけが動いている。

 あれ? 雛ばあ、寝ちゃったかな? そう思った瞬間、雛ばあが口を開いた。


「桜水に行くなら、バレエは必須だよ。なのに、もういいのかい?」

「いいのいいの」


 私は手を振って見せる。


「そっちは自分で何とかするよ。何とかなるか、分からないけど、でも、うーん、何とかする。だから、別の話題でおしゃべりしよ。でね、私、体育嫌いだけど、今日の卓球は楽しかったな。テニスほど動かなくていいし、球が当たっても痛くないから。雛ばあは卓球したことある?」


 雛ばあは湯のみの中を覗きこんだまま動かない。


 おかしいな。いつもなら、私が学校の話すると、雛ばあも笑顔になって話が盛り上がるのに。桜水のことを最初に話したから、機嫌悪い?


「凪は優しい子だね」

「どうしたの? 急に」

「急にじゃないよ。ずっと思ってた。どうしてあんな娘からこんな優しい子が産まれてきたんだろうって。でもね、桜水が必要としているのは、優しい子じゃないんだよ」

「歌って踊れてお芝居もできる子?」


 雛ばあが顔を上げて、私を見た。目を見た。


「才能のある子だよ」

「才能」


 私は繰り返した。言葉にすると、舌が重たくなった気がした。きっと、私には才能がないからだ。


「今の時点では歌えなくても、踊れなくても、芝居ができなくても、才能さえあれば何とかなる。逆に中途半端に歌えても、踊れても、芝居ができても、才能がなかったら光は当たらない。一生スポットライトの外だよ」


 舞台にすら上がれないかもしれない。歌が嫌いになるかもしれない。お母さんに会える保証だってない。

 でも、それでも、私は桜水に行きたい。舞台に立って歌いたい。お母さんの見た景色を見てみたい。


「ごめんね、雛ばあ」


 私の意思は変わらない。


 ずるいや、私。甘えたいときだけ甘えて、忠告は聞かないんだ。鼻をすすりながら柿を食べる。まだ柿はいくつか残っているけど、つまようじを置く。


「また来るね」


 私がそう言っても、雛ばあは畳のへりを見つめるばかりで、返事をくれなかった。

 外へ出ると、もう薄暗くなっていた。十一月は暮れるのが早い。私はまだ、スポットライトの外にいる。

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