だって私は
果矢が引っ張ってくれたおかげで、十秒もかからず劇場ロビーに出れた。
床が大理石のロビーには、まだお客様が大勢残っておられて、私達はすぐ囲まれてしまった。衣装、脱いでくるんだった。いや、そんな時間なかったか。どうしよう。お客様を無下にはできない。
「皆さま、ただいまより、海星組特別ステージを開催いたします」
後ろから声が聞こえた。澪先輩だ。樹理先輩も熱美も怜夏もいる。四人が歌い踊り出すと、ほとんどのお客様はそちらへ流れて行った。四人の方へは行かず、あくまで私と果矢のファンであるらしいお客様には、何度も頭を下げて、笑顔でありがとうございましたを言ってから、劇場を出た。
辺りを見回す。どこだ? どこにいる?
「こっちだ。こっち」
橋へ続く横断歩道の前に凛さんがいた。車の通りが多くて、信号が青になるまでは渡れそうもない。
「那美さんは駅の方へ向かって橋を渡っている。私は念のため空港を押さえに行くから、あ、青だ。行けっ」
横断歩道を渡って、桜水大橋の真ん中あたりにお母さんを見つけた。歩いている。このまま走れば追いつける。果矢が手を離し、私の背中を押した。
「行けっ」
前だけ向いて走る。だって私、まだお母さんに言えてない。どうしても言いたいことを、言えてない。
お母さんが手を上げた。タクシーが停まる。
待って。
「お母さんっ」
ゆっくりとお母さんが振り返った。口が開く。でも、何て言ったのかは分からなかった。
それから、タクシーの運転手さんと一言二言何か話して、頭を下げた。タクシーはお母さんを残したまま発進した。
お母さんが私のもとへ歩いて来る。一歩ずつ私との距離が縮まっていく。私も歩き出すと、二歩ずつ距離が縮まっていった。
「何?」
お母さんはサングラスをかけていることもあって、無表情に見える。
秋の空気を思い切り吸い込んで、私は言う。
「どうしても、言いたいことがあって」
「何?」
まったく同じトーンで同じセリフが帰って来た。でも、私はもうくじけない。
言う。
待った。いきなりは恥ずかしいから、まずは。
「今日、観に来てくれてありがとう」
「何だ。そんなこと? 別にたまたまだから、気にしないでいいのよ。それだけ?」
「ううん。まだあるの。えっと。私、今日、舞台に立って、色々な人にありがとうって思ったの。それで、まだ一つ言えてないありがとうがあって。これだけは本人に直接言いたくて」
「ねえ、それ、私に関係あるの?」
お母さんは川の方へ視線を向けた。八重川の水は澄んでいて、水面を細かい光が流れている。
「関係、あるから、聞いて」
そう言うと、お母さんはちゃんと私の方を向いてくれた。
「で、何?」
深呼吸して、言う。
「ありがとう。私を産んでくれて」
瞬間、秋風が吹いて、私の髪をなびかせた。目に髪がかかって、視界が細く切れ切れになる。
風がやんで、私の髪も落ち着いた。改めて前を見る。そこには、サングラスを取って、両目を露わにしたお母さんがいた。やっぱり血がつながっているんだね。目が、私や、雛ばあの若い頃にそっくりだよ。
「凪」
初めて名前を呼んでもらえた。
お母さんは微笑して言う。
「恨んでくれていいからね」
すぐ身を翻して、歩き始めた。私は一歩一歩遠ざかる背中に言葉を投げつける。
「恨んだりしない。私、お母さんのおかげで、凛さんや果矢たちに出会えたんだよ」
お母さんは止まらない。
「今日、お母さんに指摘されたこと、すぐ直す。だから、もう一回観に来てくれる?」
止まった。でも、振り返ってはくれない。
「公演の最終日、千秋楽に、もう一回観に行くから。今日よりはいい歌劇、見せて」
「はいっ」
私は今日一番の返事をした。
再び歩き出したお母さんが、橋の向こうに見えなくなるまで見届けてから、私は、桜水大劇場へ引き返した。だって私は、桜水歌劇団海星組の水野凪だから。そして、お母さんの娘でもあるのだから。
了




