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凪の歌  作者: 仙葉康大
最終章
46/52

英字新聞

 忘れ物をしたと嘘をついて、私は一人、来た道を引き返す。果矢や熱美や怜夏の前では泣きたくなかったから。だってあの三人、優しいから、私が泣いたら、慰めてくれる。それじゃダメなんだ。今日の悔しさは、刻みつけて一生のものにする。


 桜水大橋の途中で立ち止まり、川を見下ろしながら泣いた。日は沈んで辺りは暗くなっていたから、泣き顔を見られる心配はなかった。


 トップ娘役になれるチャンスがあったのに、なれなかった。

 涙が一滴ずつ落ちていく。

 橋の下を流れて行く川の水は、黒くて重たそう。今日は曇りなのか、月明かりもない。


「凪」


 背後から声がかかった。


「何ですか?」


 涙声にならないよう、喉に力を入れて声を出した。でも、いつもと同じ声にはならなかった。


「ドライブ、行かないか?」


 私はうつむいたまま(きびす)を返し、凛さんの車に乗り込んだ。


「飛ばすか?」

「安全運転でお願いします」

「かしこまりました。お嬢さん」


 車が発進した。桜水大橋を渡り、左折し、そのまま夜の国道を進んでいく。凛さんがBGMを止めた。


「これ」


 そう言って渡してきたのは、新聞だった。


「英語? 英字新聞ですか?」

「ああ。一面、右下のブロードウェイの広告、よく見てみろ」


 と言われても、車が動いている間は読みにくい。

 信号にひっかかった。今だ。広告を注意深く読み込む。そして私は見つけた。Nami Aokaという文字を。


「お母さん?」

「ああ。図書室の司書の遠藤さんが見つけてきてくれてな。知ってるか? 遠藤さん。ほら、黒ぶち眼鏡の」

「あの人が」


 劇コンでどの劇をやるかで揉めていた私達に、『フェアリーデュエル』を薦めてくれた人だ。

 新聞の日付を確認する。今年の五月のものだ。


「お母さん、アメリカにいるんだ」

「ブロードウェイの関係者から聞いたところによると、あっちでも男の役をやっているそうだ。だが、主役はまだ一つもやれていないらしい。言葉の壁や人種の壁もある中、頑張ってるそうだ」


 らしいとか、そうだとか、私は伝聞でしかお母さんを知れない。


「連絡は取れましたか?」

「劇場の支配人とは話せたんだが、那美さんとは話せていない。すまん」

「凛さんが謝ることじゃ、ないですよ」

「だが」

「いいんです」


 もういい。海外にいる人を呼び戻すだけの力なんて、私にはない。

 車窓に映っている自分を見つめるだけの時間が過ぎていった。

 車が停車した。


「降りろ」

「ここって」


 車を出ると、(いそ)の匂いがした。駐車場を降りて砂浜に出る。暗色の海は茫漠(ぼうばく)としていて、夜空との境界がはっきりしない。


「桜水市から一番近い海辺だ。私が落ち込んだり悩んだりしたとき、那美さんがよくここに連れて来てくれた」


 そう言って凛さんは、波の音よりも大きなため息をついた。


「凪。トップ娘役、残念だったな」

「仕方ないです。誰がどう見ても樹理先輩の方が上ですから」

「そうだな。でも、お前の劇団員人生はまだ始まったばかりなんだ。焦ることはない。これから力をつけていけばいい」

「はい」

「元気のない返事だな。歌でも歌うか? 何がいい?」


 私は「涙の渚」が歌いたいと言った。凛さんと初めて会ったとき、歌っていた曲だから。


「どれだけ上手くなったか、デュエットして確かめてやる」


 目配せし、同じタイミングで息を吸って歌い始める。


 初めてジュエットしたときは、声がまっすぐ飛ばなかった。でも、凛さんが導いてくれた。それから、いろんな人と出会った。受験で果矢に出会った。入学してからは、熱美、怜夏、澪先輩、樹理先輩に出会った。


 今、私の声はまっすぐ飛んでいる。

 歌い終わって、凛さんが言った。


「下手くそ」

「なっ」

「でも、上手くなった。私は凪の歌、好きだよ。桜水に来てくれて、ありがとう」


 突然のありがとうに不意打ちされて、私は泣いてしまった。


「まったく。凪は泣き虫だな」


 凛さんが私を抱き締めてくれた。温かい。


「那美さんのことは私に任せてほしい。海星組の初公演は秋。それまでに、何とか連絡をつけて、観に来てくれるよう頼むから。絶対、会わせてやるから」


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