英字新聞
忘れ物をしたと嘘をついて、私は一人、来た道を引き返す。果矢や熱美や怜夏の前では泣きたくなかったから。だってあの三人、優しいから、私が泣いたら、慰めてくれる。それじゃダメなんだ。今日の悔しさは、刻みつけて一生のものにする。
桜水大橋の途中で立ち止まり、川を見下ろしながら泣いた。日は沈んで辺りは暗くなっていたから、泣き顔を見られる心配はなかった。
トップ娘役になれるチャンスがあったのに、なれなかった。
涙が一滴ずつ落ちていく。
橋の下を流れて行く川の水は、黒くて重たそう。今日は曇りなのか、月明かりもない。
「凪」
背後から声がかかった。
「何ですか?」
涙声にならないよう、喉に力を入れて声を出した。でも、いつもと同じ声にはならなかった。
「ドライブ、行かないか?」
私はうつむいたまま踵を返し、凛さんの車に乗り込んだ。
「飛ばすか?」
「安全運転でお願いします」
「かしこまりました。お嬢さん」
車が発進した。桜水大橋を渡り、左折し、そのまま夜の国道を進んでいく。凛さんがBGMを止めた。
「これ」
そう言って渡してきたのは、新聞だった。
「英語? 英字新聞ですか?」
「ああ。一面、右下のブロードウェイの広告、よく見てみろ」
と言われても、車が動いている間は読みにくい。
信号にひっかかった。今だ。広告を注意深く読み込む。そして私は見つけた。Nami Aokaという文字を。
「お母さん?」
「ああ。図書室の司書の遠藤さんが見つけてきてくれてな。知ってるか? 遠藤さん。ほら、黒ぶち眼鏡の」
「あの人が」
劇コンでどの劇をやるかで揉めていた私達に、『フェアリーデュエル』を薦めてくれた人だ。
新聞の日付を確認する。今年の五月のものだ。
「お母さん、アメリカにいるんだ」
「ブロードウェイの関係者から聞いたところによると、あっちでも男の役をやっているそうだ。だが、主役はまだ一つもやれていないらしい。言葉の壁や人種の壁もある中、頑張ってるそうだ」
らしいとか、そうだとか、私は伝聞でしかお母さんを知れない。
「連絡は取れましたか?」
「劇場の支配人とは話せたんだが、那美さんとは話せていない。すまん」
「凛さんが謝ることじゃ、ないですよ」
「だが」
「いいんです」
もういい。海外にいる人を呼び戻すだけの力なんて、私にはない。
車窓に映っている自分を見つめるだけの時間が過ぎていった。
車が停車した。
「降りろ」
「ここって」
車を出ると、磯の匂いがした。駐車場を降りて砂浜に出る。暗色の海は茫漠としていて、夜空との境界がはっきりしない。
「桜水市から一番近い海辺だ。私が落ち込んだり悩んだりしたとき、那美さんがよくここに連れて来てくれた」
そう言って凛さんは、波の音よりも大きなため息をついた。
「凪。トップ娘役、残念だったな」
「仕方ないです。誰がどう見ても樹理先輩の方が上ですから」
「そうだな。でも、お前の劇団員人生はまだ始まったばかりなんだ。焦ることはない。これから力をつけていけばいい」
「はい」
「元気のない返事だな。歌でも歌うか? 何がいい?」
私は「涙の渚」が歌いたいと言った。凛さんと初めて会ったとき、歌っていた曲だから。
「どれだけ上手くなったか、デュエットして確かめてやる」
目配せし、同じタイミングで息を吸って歌い始める。
初めてジュエットしたときは、声がまっすぐ飛ばなかった。でも、凛さんが導いてくれた。それから、いろんな人と出会った。受験で果矢に出会った。入学してからは、熱美、怜夏、澪先輩、樹理先輩に出会った。
今、私の声はまっすぐ飛んでいる。
歌い終わって、凛さんが言った。
「下手くそ」
「なっ」
「でも、上手くなった。私は凪の歌、好きだよ。桜水に来てくれて、ありがとう」
突然のありがとうに不意打ちされて、私は泣いてしまった。
「まったく。凪は泣き虫だな」
凛さんが私を抱き締めてくれた。温かい。
「那美さんのことは私に任せてほしい。海星組の初公演は秋。それまでに、何とか連絡をつけて、観に来てくれるよう頼むから。絶対、会わせてやるから」




