吐き気
保護者や来賓が外へ出ると、四十名いる上級生全員が、私、果矢、西園寺さん、安西さんの四人を囲んだ。
「よくも桜水の伝統ある式典をぶち壊してくれたわね」
「自分たちが何をしたか、分かっていないって顔ね」
「絶対許さない」
「退学よっ。退学っ」
先輩たちの怒りはもっともだろう。
教師は静観している。桜水では、下級生の指導は上級生が行うのが当たり前だからだ。新入生は体育館の隅に集まって、こちらを睨んでいる。
上級生を見渡して果矢が言った。
「何だよ、これ。下級生いびりってやつか?」
「元気があるのはええことやけど、先輩方、ちと元気あり過ぎちゃいます?」
「どいてください。邪魔です」
「すみませんすみませんすみませんすみません」
私は、果矢と安西さんと西園寺さんの分も謝らなくてはいけなかった。先輩たちは、今にも襲いかかって来そうなほど殺気だっている。空気が痛いよ。
「アッハ」
突然、笑い声が聞こえた。
「もうっ。あんまり笑わせないでよ。ステージ袖でも笑いをこらえるの、大変だったんだからね」
入学式で校歌の伴奏を担当していた樹理先輩が、目じりに浮かんだ涙を拭いながら、近づいてきた。
「どちら様ですか?」
西園寺さんが真顔で尋ねた。
「私? 私はね、樹理ちゃんだよ。キャピピーン。桜水音楽学校の歴史上、一番のかわいさを誇るよ」
「自分で言うなよ。気持ち悪い」
果矢がつばでも吐き出しそうな顔をした。
「あー、ひどいこと言ったー。いっけないんだー、いけないんだー。下級生は上級生に口答えしちゃ、メッなんだからね。みんなー、分かったかなー?」
「は、はーい」
返事をしたのは私だけだった。何これ。すごく恥ずかしい。頬が焦げそう。
「あらららら? 良い子は一人だけ? 困ったなあ。じゃあ、もう、脱がせちゃおっか。まず一番目つきの悪いあなたから」
「触んじゃねー、変態キモ女」
「樹理、悪ふざけもいい加減にしないか」
そう言って現れたのは、澪先輩だった。樹理先輩を果矢から引きはがすと、私達四人、上級生、新入生、教師陣という順番で視線を走らせた。
「どうだろう、みんな。今日はもうこのへんにしておかないか?」
「澪。何甘いこと言ってるの?」
「そうよ。いくら澪の言うことでも賛成できないわ」
「こういうことは初めにきちんと言っておかなければ、今年の新入生、つけあがるわよ」
澪先輩が手を叩く。
「ならこうしよう。今ここで、実力の違いを見せつけておこう。そうすれば、この四人も自身の未熟さを痛感し、これからの二年間、真摯に学んでくれると思うんだ。自分より上がいると知れば、軽々しくトップに立つなんて言えなくなるはずさ」
「いいけど、実力の違いを見せつけるってどうやって?」
「はいはーい。樹理、歌っちゃうぞー。みんなー、手拍子はいらないからねー」
樹理先輩が手を挙げて、息を吸った。
歌が始まった瞬間、私は湖の底にいた。息が、できない。聞こえて来るのは、桜水音楽学校校歌だ。でも、全員で歌った校歌とは比べものにならない。あり得ない。新入生と上級生、合わせて八十人で歌った時より、樹理先輩一人で歌っている今の方が、声が響いている。
湖の底には、私の他には西園寺さんと澪先輩がいた。西園寺さんは私と同じように口から気泡を出して、苦悶の表情を浮かべている。一方、澪先輩はまるで地上にいるかのように平然としている。
校歌が一番の終わりへ向けてクレッシェンドしていく。そのクレッシェンドで、分かってしまった。樹理先輩、まだ本気を出してない。これは、余力を残している歌い方だ。
吐き気が込み上げた。ダメッ。吐く。
「凪っ」
私は体育館の床にうずくまって、嘔吐していた。隣では西園寺さんも吐いていた。だよね。あんな化物の上をいかないと、トップには立てないって思うと、吐くしかないよね。しかも、樹理先輩はまだ正式な劇団員でも何でもなく、その前段階、音楽学校の生徒なのだ。だとしたら、今のトップスターやトップ娘役は、いったいどれほどの力を持っているのだろうか。
遠い。
お母さんが、遠い。
「樹理。ここまでやる必要はなかっただろっ。何をしてるんだ、君は」
澪先輩が樹理先輩の胸ぐらをつかんで振り回している。
「いっけなーい。やりすぎちゃったー。でもでもー、まさか私の歌のすごさを理解できるなんて思わないじゃない。現に、他の新入生も上級生も吐いてないでしょ。そこの二人、えっと、凪ちゃんと怜夏ちゃんだっけ? がいけないんだよ。樹理、悪くないもーん。あーあ、久しぶりに半分本気で歌ったから、お腹すいちゃった。そうだ。これから皆でドーナツ屋さん行こうよー。凪ちゃんも怜夏ちゃんも吐いた分、取り戻さなくちゃ。行こ行こ行こー」
「ざけんな。てめえ、凪に何しやがった?」
「キャッ。こわーい。果矢ちゃん、激おこだー」
「バカ。つっかかっとる場合か。はよ怜夏と凪を保健室へ運ばな」
「熱美、大丈夫です。もう吐き気は消えてます」
「私も同じ。だから果矢、もういいから」
「いいわけねえだろ。てめえ、顔覚えたからな。ぜってー許さねえからな」
私たちが言い合っている渦中へ、
「よし。もう充分だろう」
とステージから声が届いた。
凛さんがステージに上がっていた。
「上級生も新入生も自分のホームルームへ帰れ。ただし、そこの問題を起こした四名は寮に戻り、謹慎してろ。処分は追って連絡する。澪はすぐ私のもとへ来い。話がある。あと、樹理。西園寺と水野が吐いたものの掃除は、お前がしろ。いいな?」
「はーい。ピッカピカにしてあげるんだから。ピースピース」
「樹理先輩」
他の生徒が移動を始める中、私は口元を拭ったティッシュを拳に握り締めて言う。
「先輩の手を汚させるわけにはいけません。私が掃除します。自分が吐いたものなので」
「いいけど、怜夏ちゃんの分は? 放置しちゃう?」
「西園寺さんの分も――」
「気遣い無用です」
西園寺さんが私の横に並ぶ。
「私も自分の嘔吐物ぐらい自分で掃除できます」
「そ。ふーん」
樹理先輩が前かがみになって、私と西園寺さんの顔をのぞきこむ。後は何も言わず、ただ唇の端を吊り上げて、私達の間をすり抜けて行った。
掃除は、果矢と安西さんも手伝ってくれた。
「汚いからいいよ」
「かまへんかまへん。てか、これからよろしくな。二人はA? B?」
一学年四十名の生徒は、二十名ずつAクラス、Bクラスに分けられる。名前の五十音や誕生日で分けるのではなく、二クラスの実力が拮抗するよう、成績や実力を考慮してクラスを編成するのだ。
「私と凪はB」
「私達はAです」
「クラス違えど、同じ一年や。それにトップを目指しとる同志やろ。よろしく頼むで」
違うクラス、か。残念に思ってる自分がいた。




