澪先輩
入学説明会が終わってすぐ果矢に電話した。春休み中にしなければならない手続きもいくつかあったから、連絡は早い方がいいと思ったのだ。
コール音はやまない。
つながらない。
仕方ないので、また後でかけなおすことにして、雛ばあと校舎を出る。
「お昼、何か食べたいもの、あるかい?」
時刻は正午を過ぎている。今まで入学説明会が続いていたので、昼食はこれからだった。
「えっと」
「まあ、そこらを歩きながら考えるかい?」
「うん。そうする」
でも、桜水大橋を渡っている間、私が考えていたのは別のことだった。考えれば考えるほど、良くない想像が膨らんでいく。凛さんに聞けば、何か分かるかな?
「凪。果矢ちゃんのことが気になるのかい?」
「え? なんで?」
「何年の付き合いになると思ってるんだい。あんたが何を考えているかぐらいお見通しだよ。確か陸井さんは果矢ちゃんの叔母なんだろ? あんた、前にそんな話をしてたはずだ。今からでも戻って、話を聞きに行くかい?」
「い、いいの。雛ばあ。ご飯食べに行こう」
四月から私は桜水音楽学校の寮で暮らすことになる。雛ばあや彦おじさんとは離れ離れになる。だから、雛ばあと一緒にご飯を食べる機会は、一回一回大切にしていきたい。
「凪。私はね、上の空のあんたと食事をしても何も楽しくないんだよ。とっととお行きっ」
「ごめん。夕食は絶対一緒にとるから」
ダッシュで音楽学校まで戻った。そのままの勢いで廊下を走って職員室を目指す。
「ちょっとあなた」
階段から降りて来た生徒に声をかけられた。制服を着てる。先輩だ。
「もしかして新入生?」
「はい。来年四月からここでお世話になります、水野凪と申します」
「そう。水野さん、あなた今、廊下を走ってたわね」
「すみません。急いでいたので」
「言い訳無用です」
「あら、どうしたの?」と別の声がした。
続々先輩たちが階段を降りて来たのだ。私は十人以上の高身長かつ容姿端麗な先輩方に囲まれてしまった。
「この子、廊下を走っていたのよ」
「毎年いるわよね。合格して調子に乗ってバカをする新入生。指導の必要がありそうね」
「いいこと。将来、桜水歌劇団に入る気があるのなら、廊下を走るなんてはしたない真似は、金輪際しないでもらいたいものね」
「すみません」
謝ってから、唇を噛みしめる。これは私が悪い。桜水音楽学校の校風は、規律第一である。校則に限らず、伝統として残る様々な不文律をも厳守しなければならないのだ。そうさっきの入学説明会で教わった。
「自覚が足りないのよ。大体、あなた、そんな身長でよく合格できたわね。新入生っていうの、本当なの?」
「裏口だったりして」
笑い声がさざ波のように広がっていく。
私はうつむくことしかできなかった。上級生は絶対的な存在であり、口答えは許されない。これも入学説明会で言ってた。
「もういいんじゃないかな」
声のした方を向くと、ベリーショートの髪が印象的な先輩が立っていた。笑うと、えくぼができた。
「行きすぎた指導はイジメと同じだよ」
「澪、私達はそんなつもりじゃ」
「うん。そうだよね。後は私が叱っておくから、行っていいよ」
「え、ええ。じゃあ、お願いするわ」
私を囲んでいた先輩方が早足で去っていく。助かった。でもすごい。桜水音楽学校は二年制の学校であり、つまり、学年が二つしかないので、新入生以外はみんな上級生であるはずだが、私をかばってくれた先輩は、上下関係の存在しない同級生十数人を、たった二言、三言で追い払った。
「わ、私、水野凪っていいます。あの、助けていただいてありがとうございました」
「いいんだよ」
先輩が私の肩に手を置いて言う。
「恐い思いをさせたね。入学説明会はもう終わったはずだけど、何か忘れものでも?」
「いえ。あの、職員室へ向かってて」
「案内するよ」
「だ、大丈夫です。これ以上、先輩にご迷惑をかけるようなことできません」
つっかえながらの言葉に、先輩は微苦笑すると、
「おいで」
と言って、私の手を取り歩き始めた。うわあああ。頭が沸騰しそう。道中、緊張して一言もしゃべれなかった。私と先輩は身長の差が、目測でも三十センチ以上はあることは明らかで、傍から見たら、子供と大人が歩いているようにしか見えなかったと思う。
着いた。
先輩から職員室へ入るときの挨拶を教わって、入室する。凛さんは奥の方にいた。椅子に腰かけたまま私と先輩を見て、自身の首をさすった。
「何だ、澪。もう新入生に手をだしたのか? それも凪に」
「人聞きの悪いことを言わないでください」
「樹理に言いつけてやるからな」
「不幸なことにもう知れてますよ。この学校、通常の三倍のスピードで噂が回るから、ほんとうんざりします。じゃあね、凪、また四月に」
「あの、すごくよくしてくださって、本当に、ありがとうございました」
「私の方こそ、楽しい時間をありがとう」
耳元で囁かれて、私は卒倒しそうになった。
出て行こうとする澪先輩を、凛さんが呼び止める。
「入学式の校歌の伴奏、樹理に頼んでおいてくれないか?」
「いいですが、それだと樹理は歌いながら弾くってことになります?」
「どちらでもいいさ。気分が乗れば歌えばいい」
「樹理の歌がないと、厳しいと思います」
「大丈夫だ。今年はこいつがいる」
凛さんが指さしたのは、他でもない私だった。
「え?」
そこでどうして私を持ち出すのか、理解できなかった。
「へえ」
「あと主席合格の子も相当だ。ポテンシャルだけなら、お前と樹里を超えてるかもな」
「楽しみです」
澪先輩がいなくなった後、私は果矢のことを切り出した。
「電話をかけてもつながらなくて。凛さん、何か知りませんか?」
「両親を説得してるんだろ」
「どういうことですか?」
「あのバカ、親に内緒で受験してたんだよ。で、桜水へ行くの、大反対の母親を、今になって説得してる」
「嘘」
「ほんとだ。今朝、姉さんからかかってきた電話で聞いたことだから、間違いない」
凛さんのお姉さんは、果矢のお母さんである。
「このままだとあいつ、入学辞退って形になるかもな」
「そんなのダメです。絶対ダメ」
「だからと言ってどうすることもできないだろ。家族の問題だ」
土足厳禁どころか、裸足でさえ踏み込んではいけない領域があることを、私は知っている。産まれたときから、家族の問題を抱えて生きてきたから。
「でも、それでも、私は果矢の力になりたい」
確か果矢は桜水市内に住んでいるはずだ。受験の面接のとき、果矢はどこに住んでると言っていたっけ。ダメだ。覚えてない。
「凛さん、果矢の住所を教えてください」
「講師が生徒の個人情報を教えられるわけがないだろう。大体、行ってどうするつもりだ?」
「果矢の両親を説得します」
「できるとは思えないな」
「できなくてもやるんです」
私は机に手をついて、凛さんの目をのぞきこんだ。梃でも動いてやるもんか。
「お前、時々、那美さんそっくりだな」
そう言って、机上のメモ用紙を一枚ちぎり、ペンを取った。
「講師が生徒の住所を教えるのは問題だが、叔母が姪の住所を姪の友達に教えるのは、何も問題ないだろうよ」
渡されたメモ用紙には、はらいのよく利いた字で住所が書いてあった。




