名前
面接を終えて、試験会場だった音楽学校をあとにした私と宗谷さんは、橋を渡っていた。八重川の上に架かっているこの橋は名を桜水大橋と言う。明るい色のタイルが敷き詰めてある歩道は、幅が広くて歩きやすい。
「合格したら、毎朝ここを歩いて登校するんだよね」
「ああ。合格したら、な」
「何? その含んだような言い方」
「いや、私は大丈夫だろうけど」
「宗谷さんの意地悪」
そう言って私が舌を出すと、宗谷さんが足を止めた。川の上流の方から吹いて来る風が冷たくて、私はコートごと自分の体を抱きしめる。
「どうしたの?」
「いや、あのさ」
宗谷さんは頭の後ろを掻くと、不意に川の方を向いた。でも、すぐまた私の方を向いて言った。
「なんで苗字呼び? しかもさん付け」
「名前で呼んでいいの?」
「嫌なら別にいーけど」
早足で私の脇を通り抜けようとする宗谷さんの手をつかまえて言う。
「果矢」
「何だ。呼べるんじゃん」
「うん。呼べた。だから果矢も私のこと、名前で呼んでよ」
「呼ぶかよ、バカ水野」
「なっ」
ひるんだ隙に、果矢は私の手をふりほどくと、橋のたもとへ向かって走り出した。
「ま、待ちなさいよ。ちょっと果矢。とまれー」
全力で走っても、果矢との距離は開いていくばかり。私が橋を渡り切ったときには、果矢は横断歩道の先にいて、ちょうど信号が赤に切り替わった。
「果矢っ」
叫ぶと、果矢がゆっくりと振り返った。
「またな、凪」
私は、一瞬遅れて凪が自分の名前だと気づく。
車道の信号が青になり、車が流れ始める。果矢はもう私に背を向けて歩き出していた。遠ざかっていく背中へ向かって叫ぶ。
「またね、果矢」
果矢は振り返らず、でも、片手を振って街角を曲がって行った。
「大丈夫」
自分に言い聞かせる。これが最後の別れじゃない。
また信号が青に変わった。つと、春一番が吹いた、気がした。




