桜水のトップスター
海岸沿いのアスファルトの道を歩きながら、事情を聞く。
「お前のお母さんはな、青架那美って名前で、舞台を踏んでたんだ。しかもただの役者じゃない。桜水のトップスターだぞ」
「はあ」
そんなに語られても困る。だって私、お母さんに会ったことないんだし。たぶん凛さんの方が、私よりずっとお母さんのことを知ってるんだ。そう思うと、また、ため息が出ちゃう。
「どうした? 気分悪いのか? 少し休むか?」
「お気遣い、ありがとうございます。でも大丈夫です」
休むって言ったって、辺りにベンチなんてないし、気分も悪くない。良くもないけど。
手、また繋いでくれないかな。駄目か。駄目だよね。私と凛さんは親子でも何でもないんだし。出て来そうなため息を飲み込む。
大きなカーブを曲がると、私の通っている中学校が見えた。今日は休日だから、グラウンドの方から運動部の声が聞こえて来る。校門の前を横切り、島の中央に位置する天具山の裾野へと向かう。
靴底の感触が変わった。アスファルトの道がいつの間にか、土の道になっていた。視界に入る民家の数も減って来ている。
「もうすぐですよ」
「山の中にあると言っていたが、まさか山頂じゃないよな?」
「中腹辺りです。ここからだと二十分で着けます」
山に入る。木々が、紅葉もしくは黄葉した葉を降らしている。
「この先に那美さんの実家があるのかあ」
曲がりくねった坂道を昇っていく。凛さんはヒールを履いているのに、よろけたりふらついたりしない。体に一本の芯が通っているみたいだ。私も凛さんみたいに歩きたくて、背筋を伸ばして歩いてみる。
「良い心がけだ。姿勢は基本の基だ、と那美さんもよく言ってた」
途端、私は面白くなくなって背中を丸めてしまう。
「那美さん那美さんって、私のお母さん、そんなにすごかったんですか?」
「だから言ってるだろ。桜水のトップスターだったって。まあ、お前を産む前に退団したけどな」
「桜水って何ですか? 劇団の名前ですか?」
凛さんの足が止まった。口を開けて、目の縁を痙攣させながら、私を凝視する。
「嘘だろ」
「えっと、もしかして私って非常識ですか?」
「いや、桜水歌劇団を知らない人は珍しくない。でも、トップオブトップスターとまで呼ばれた那美さんの娘が、桜水を知らないなんてあり得ない。あってはならない。どうしてだ? 那美さんから聞いていないのか?」
私は、歪んでいく凛さんの顔を見ていられなくて、踏まれて泥まみれになった紅葉の葉へと視線を落とした。
「実は、お母さんに会ったことがないんです。覚えている限りは、ただの一度も」
息を呑む音がかすかに聞こえた。続いて、歯を軋る音がした。足音が近づいて来る。
「なら、私が教えてやる。桜水のことを。トップスター青架那美のことを。お前の母親水野美咲のことを」
「わ」
凛さんが急に私の手を取って駆け出した。山道をハイヒールで駆け上がるなんて、この人、どういう運動神経してるの。
「おい、まっすぐでいいんだよな?」
「はい。まっすぐです。ひとまず道なりに進んでください」
道は曲がりくねっているけれど、分岐はまだ先だから、前へ前へ進めばいい。木々の梢を秋風が揺らしている。走っていると体が温まってきて、肌寒さを感じなくなっていった。特に、凛さんに握られている方の手が熱い。熱くて、どうにかなっちゃいそう。
「こっちです」
坂道を逸れて、石段を登っていく。私にとっては大きい段差も、足の長い凛さんにかかればなんてことはない。結果、私が引っ張られる形になる。
「ペース落とすか?」
「大丈夫、です。ついて、行きます」
息を切らしながら、答える。正直、きつい。でも凛さんのお荷物にはなりたくない。空いている片手を振って、重たい足を上げる。それをできるだけ速く繰り返し、石段を登っていく。明日は筋肉痛になるかも。
「根性あるじゃないか」
石段を登り切り、天具寺の門の前に出た。
「ここがお母さんの実家です。私が今、住んでいる場所でもあります」
「那美さんから話には聞いていたが、マジで寺なんだな」
「私と彦おじさんが住んでいる庫裏という場所まで案内します」
門をくぐる。苔の生えた境内を、踏み石をつたって進む。本堂の脇に立つ、木造こげ茶色の建物が庫裏だ。玄関の前で立ち止まる。
「彦おじさんを呼んで来ます。ここで少しお待ちください」
「呼ばなくていい」
「でも」
凛さんが詰め寄って来た。私は後ずさり玄関のドアに背をつける。
「あの、近いです」
胸と胸が触れ合いそうで、触れ合わない。私も凛さんも貧乳だから。
「二人きりで話がしたいんだ。おじさんと会うのは、お前に那美さんや桜水歌劇団のことを話し終えてからだ」
「どうしてですか?」
「分からないか? なら訊くが、お前が桜水歌劇団や青架那美について何も知らないのはなぜだ?」
凛さんの片手がドアを押す。逃げられない。
「それは、彦おじさんも雛ばあも私を気遣って、お母さんの話はしないようにしてくれたからです」
「要は、おじさんも那美さんのお母様も、お前に知ってほしくないんだよ。そんなおじさんの前で私が那美さんについてあれこれ語って見ろ」
険悪なムード、どころじゃないかも。状況を理解した私は、何度もうなずく。
「今、おじさんは?」
「この時間は本堂か僧堂の方にいると思います。いつも昼までは戻って来ません」
凛さんを庫裏の中へ招き入れる。鹿の堀物がある玄関から廊下へ進み、和室へ案内し、私は隣の台所に引っ込む。やかんに水を入れて火にかける。底の浅い器にせんべいをテキトーに詰め込んで和室へ戻ると、凛さんはテレビの前にいた。
「DVDプレイヤー、使うぞ」
「どうぞ」
「桜水歌劇団の公演DVDを見せてやる。テレビの前から離れなくなるから覚悟しておけよ」
「あ、お茶お茶」
台所へ戻る。でもまだお湯は沸いていない。あと五分ぐらいかな。擦りガラスの横に細長い窓を開けたり、閉めたりして時間を潰す。私、何やってるんだろう。お母さんのことを知るのが恐いのかな。それとも興奮してるのかな。自分の気持ちがどこにあって、どんな形なのか、分からないよ。全然。
沸きたての湯で作った緑茶を、湯のみについで持っていく。
凛さんはあぐらをかいて、せんべいを音を立てて噛み砕いている。男みたいだ。まったく。今私、親目線。
「おー、ご苦労。まあ座れ」
座卓にお盆を置き、湯のみを凛さんの前に差し出す。
「これから桜水のDVDを見ながら、那美さんの話をする。だが、その前に一つ大事なことを言っておく」
「何ですか?」
凛さんが正座して背筋を伸ばした。私も同じ姿勢になる。
「私の話す那美さんは、お前の母親、水野美咲の一側面に過ぎないということだ」
「他の側面もあるってことですか?」
「あるだろう。人間なんだから。私が語れるのは、桜水歌劇団鯨組トップスターとしての那美さんだ」
私は首を傾げる。
「あの、すみません。私あんまり頭良くないから、凛さんの意図をくみ取れないんですが」
「つまりだ。私がどんなに那美さんのことを持ち上げても、ほめたたえても、それはそれということだ。お前には那美さんを責める権利がある、と私は思う。だから、テレビや私に向かってどんな暴言を吐いてもいいし、見たくない聞きたくないと思ったら、遠慮せず言え」
あ、私が苦しくならないように先回りして、逃げ道を作ってくれたんだ。この人、がさつなのか、繊細なのか。どっちもか。
「すみません。気を遣わせて」
「中学生の吐くセリフじゃないな。お前さ、もっとワガママになっていいんだぞ」
「えっと、努力します」
凛さんが頭を抱えてうなった。ごめんなさい。凛さんの望む私になれなくて。正解を当てることができなくて。
私は手を叩いて、場の空気を仕切り直す。
「とりあえず桜水歌劇団の劇を見てみたいです。予備知識ゼロなので、解説お願いできますか?」
「任せとけ」
凛さんがリモコンを操作すると、DVDの映像が流れ出した。




