二重唱
私は譜面を一目見て、さっきのAとBの曲をアレンジしたものだと分かった。ところどころ違っているけど、大筋は同じだ。テンポは変わらずモデラート、つまり九十六だし、ニ長調なのも変わらない。
「水野は上のパート、歌うだろ?」
「うん。宗谷さんは低音の方をお願い」
「了解。じゃな」
そう言って、宗谷さんがピアノのある方へ歩き出した。私は慌てて後を追う。
「ちょっと待ってよ。じゃなって何?」
「じゃあなのくだけた言い方」
「そうじゃなくて、一緒に練習しようよ。次は二人で歌うんだよ」
グランドピアノに手をついて、宗谷さんが私を振り返った。
「バカか? お前」
「二人で歌う曲を一緒に練習しない方がバカだと思う」
宗谷さんがため息をついた。
「私とお前じゃレベルが違い過ぎる。いいか。本番、お前は全力で歌え。楽譜通り歌え。私に合わせようとしなくていい。私は歌下手なの、自覚してるから、とりあえずまあ、お前の歌を邪魔しない程度に小さく歌う」
「それじゃあ、いい歌にならない」
「いい歌にならなくても、お前のせいじゃなく、私のせいってのは一目瞭然、いや、一聴瞭然だ。試験官は絶対お前の歌を評価する。あれだけ歌えるんだ。すげえじゃねえか。誇れよ」
グランドピアノの、開けてある屋根の内側に私が映っている。すぐ傍には宗谷さんも。どっちも同じぐらい背が低い。互いが互いの分身なんだ。鏡なんだ。だからかな。レベルが違うとか、私に合わせるなとか言われると、拳を握ってしまう。爪が食い込んで痛いほどに、強く、強く、握ってしまう。
「ふざけたこと言わないで」
「ふざけてねえよ。私にかまうな、と言ってるだけだ。分かれよ。私は楽譜通りに歌えないんだよ。テンポはずれるし、音程だって自信ない。メジャーな音楽記号すら満足に表現できない。そんな私に合わせて歌ってみろ。せっかくのお前の歌が台無しになる」
勝手なことばかり。いい加減にしろ。
真正面から宗谷さんを睨みつける。
「見くびらないで。残り時間、あと八分弱、私が歌を教える。それでちゃんとデュエットになる。してみせる」
「何バカなこと言ってんだ? お前はお前のパートを練習しろ」
無視して、出だしの音をピアノで弾く。
「音程合わせて」
「だから――」
フォルッテッシモで鍵盤を弾く。Eの音が宗谷さんの反論をかき消した。
「くそっ」
観念したのか、宗谷さんがEの音を声に出す。うん、合ってる。
「一回、通しで歌ってみて」
「お前、後で覚えてろよ」
「無駄口叩かない。1、2、3、4、1、2」
3、4で、宗谷さんが歌い始めた。
やっぱり声は悪くない。むしろいいかも。男声っぽい。肺活量もある。
テンポがずれてきた。床を蹴って正しいテンポを教える。宗谷さんはすぐ正しいテンポに戻れた。これならいける。
「この際、細かい音楽記号は無視していいよ。どうしても外せない、大事なフレーズでの音楽記号、つまり、こことここのクレッシェンドとここのアクセント。この三か所は神経使って歌ってくれる?」
「分かった。分かったから、お前、自分の練習しろ。もう充分だ」
「何言ってるの? まだ全然だよ。次はブレスの仕方教えるから。これ、歌で一番大事だからよく聴いて欲しいの。いい?」
「いいも悪いも、私が何言っても、お前――」
「いいから黙って聴いて」
凛さんに教えてもらったブレスを教える。
「そう。息を吐き切ってから、短く鋭く吸う」
宗谷さんは飲み込みが早く、三回目にはかなりいいブレスをするようになった。よし。いける。宗谷さん、すごい。私より全然才能ある。
「あとはどこで息を吸うか。今日は私が印つけるから、そこで吸って」
試験官の人にペンを貸してもらい、宗谷さんの譜面に書き込んでいく。一回通しで歌ってもらったから、どれぐらい息が続くかは把握している。私とブレスを揃えた方がいい箇所と別々にカンニングブレスした方がいい箇所とを考えながら、ブレスの位置を決めていく。
「できた」
譜面を掲げて、下ろして、宗谷さんに渡す。
「どうして私の為にここまでしてくれるんだ?」
「どうしてって、えっと、あ、時間ない。最後、通しで歌ってみて。要はブレスとイメージ。その二つさえできてれば、何とかなるから」
「イメージって何だよ。聞いてねえぞ」
説明し忘れてた。私のミスだ。
私は人差し指と人差し指を合わせたり、離したりしながら言う。
「じゃあ、イメージは私に任せてもらえる? かな? もちろん、宗谷さんが嫌でなければ、だけど」
宗谷さんは即答しなかった。譜面で鼻から下を隠すと、目元を赤くして、くぐもった声で言った。
「悪い。頼む」
私は、体が芯から熱くなるような気さえした。ポーカーフェイスから一番遠い笑みを浮かべて、返答する。
「任せて。頑張る」
「時間です」試験管が言った。
結局、私は自分のパートを練習できなかった。でもいいや。譜面には目を通したから、歌えるはず。
試験官の前に立った私と宗谷さんは、アイコンタクトの後ブレスする。
最初の音はオクターブ違いのEだ。出だしが上手くいけば、半分は成功したようなもの。失敗すれば、不合格が決まるかも。
運命の一音。
声を出した瞬間、全身が総毛だった。
歌をよりどころに生きてきた私は、一人で歌うことが多かった。クラスメイトと合唱する機会はあったけど、そういう場面では遠慮が先行して、息苦しくなって、結局、全力は出せなかった。浜で一人で歌っているときの方が声もよく出たし、何より誰に気を遣う必要もなくて、呼吸が楽だった。
ソロでいい。ソロがいい。そう思ってた。
今、この瞬間までは。
口角を上げて、私がリードする。宗谷さんの声を私の声とからませて響かせる。どう歌えばいいか、どれぐらい音量を出せばいいか、歌で誘導する。宗谷さんは私の意図を、すべてではないけど、汲んでくれる。スラーの歌い方を真似したり、クレッシェンドのペースを合わせたりしてくれる。もっと自分勝手に歌うのかと思ってたけど、やっぱりこの人、生意気なのは口だけだ。素直じゃないだけなんだ。
さて、そろそろ試験官も私達の歌に慣れてきた頃だ。
勝負をかける。
譜面上の音符や記号からいったん離れ、真っ黒な夜空をイメージする。青架島から見上げた冬の夜空だ。そこに、星が二つ瞬いている。光は輝きを増していって、ついに、夜空一面が光になる。
何もない、ただ光に照らされただけの開けた場所に、私と宗谷さんが立っている。
宗谷さんが口を開けば、足元に緑の大地が現れ、私が口を開けば、真っ青な海と水色の空が描かれ、二人で歌えば、歌が生まれる。
あと一小節しかない。
終わりたくなくて、私は宗谷さんの目を見てしまう。宗谷さんも私の方を見てくれた。
歌い終えても、余韻が残っている内は誰も何も言わなかった。
退出すると、廊下待機の試験管が「第二多目的ホールへ向かってください。次が本日最後の試験となります」と言ってきた。
移動中、宗谷さんが呟いた。
「この借りは必ず返すから」
「借りだなんてそんな。お互いがお互いのパートナーなんだから、助け合うのは当たり前でしょ」
「私たち受験生は、合格を奪い合うライバルであって、仲良しこよしのお友達じゃあない。お前、身長だけじゃなく、精神年齢までガキかよ」
かちん。
「言っとくけど、精神年齢で言ったら、宗谷さんの方が断然低いから」
「あ? どこが低いんだよ? 言ってみろよ。おら」
「すぐ攻撃的になるそういうとこ。あと本当はありがとうって言いたいのに、言えなくて、貸し借りどうこうの話をしちゃうとこ」
「ありがとうなんてぜーんぜん思ってねーよ。てめえの妄想を俺に押しつけてんじゃねえ」
歩く速度が速まるにつれて、私と宗谷さんの口論も激しくなっていった。
「そこの二人。私語は慎みなさい。さっさと次の試験会場へ行きなさい」
通りすがりの試験管に注意された。
私と宗谷さんは、口をへの字に曲げたまま、第二多目的ホールへ向かった。




