特訓
「できないよー」
漁船の上で私は叫んだ。潮風が目にしみる。
「できないじゃない、やるんだよ。凪、できるまで今日は陸に上げないからね。あと、次、弱音を吐いたら、二度とバレエを教えないからね。死ぬ気でやりなっ。このっ、馬鹿孫がっ」
もう優しかった雛ばあはいない。
どうしてこうなったか、回想する。
放課後、港へ来た私は、雛ばあと仲の良い漁師さんの船に乗せてもらって、海へ出た。甲板に立って瀬戸内海の島々を眺める私に、雛ばあは言ったのだ。
「今日からあんたにバレエを教える。まず基本姿勢から。パラレル」
「え?」
「何呆けてるんだよ。六番ポジション、パラレル。さっさとやりなっ」
「は、はいっ」
本の内容を思い出しながら、パラレルの姿勢を取った。要は、つま先をそろえてまっすぐ立った。
「背中曲がってるよ。お腹凹ませな。太ももの内側を意識」
雛ばあは私の背中やお腹や太ももを手で触って、どう力を入れればいいのか、教えてくれた。
「バレエ、教えてくれないんじゃなかったの? いいの?」
「いいんだよ」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもあるかい。気づいただけさ。ビンタ一発じゃ足りないって」
「え? ビンタ?」
誰を? まさか私を? ひええ。雛ばあ、鬼になちゃった。
「私は美咲ともう一度会って、今度はあの子を殴るよ。ビンタなんかじゃ済まさない。あの子のしたことは、もっと重い。それを昨夜、確信した。だから、凪」
雛ばあが私の目を見た。
「桜水のトップに立ちな。あの子の栄光を踏み潰すぐらいすごい役者になりな。そうなれば、絶対あの子はあんたの前に現れる」
「そんな保証ないって言ったのは、雛ばあだよ」
「あるんだよ。なにせあの子は根っからの負けず嫌いだからね。自分より上手い役者の存在が許せないはずだよ。ほら、足、力を入れ過ぎない」
力を抜くと、船の上ということもあってバランスが崩れた。
「もう一回。まず一分間、パラレルを維持してみな」
船は島々の間を縫うようにして進んでいた。船がどう動くかを予想しながら、直観もフルに働かせて、体のどこに力を入れれば、もしくは体のどこの力を抜けば体勢を維持できるか、必死になって考えた。
「よし。一分。次は三分だよ」
「え? またパラレル?」
「何だい? 文句があるのかい?」
雛ばあの目が三角になった。
「ありません」
三分ができたら、十分、三十分、一時間と要求される時間が伸びていった。
「できないよー」
一時間、パラレルの体勢維持ができない。三十分はできたのに。コツはつかめたはずなのに。
陽が沈んでから三十分は経っただろうか。海の色も黒く濃くなってきている。体の節々に痛みを感じている私は、潮風すら目にしみるように感じた。
「馬鹿孫がっ」と言う雛ばあの叱咤が耳に刺さる。
「十分、休憩しな」
雛ばあは無理を突きつけているわけではない。一時間ごとに休憩は取ってくれるし、私が甲板の階段に座ると、足や肩をマッサージしてくれる。でも、一時間同じ体勢なんてできないよ。駄目だ。私、今度は心の中で弱音言い始めてる。
「集中力の限界はあるんだよ。一時間ずっと集中なんて無理に決まってるね」
「じゃあどうすればいいの?」
「自分で考えな」
休憩を終えて、甲板に立つ。パラレルの姿勢になる。雛ばあがストップウォッチを押した。
一時間ずっと集中なんて無理なら、いっそ、気を張らず景色でも眺めていようかな。幸い、今日はずっとこの練習をしてきたから、慣れてきて、今や景色を見る余裕ぐらいはあったりする。
夜の海に浮かぶのは、他の船の明かりだ。視界を広くとると、島の明かりも見えた。島の向こう側は見えない。瀬戸内海の外を、私はあまり知らない。
不意に船が傾く。姿勢を崩さないよう足裏やおへそや首筋に力を入れる。体の芯を意識して、体幹が揺らがないようにする。
よし。雛ばあが何も言わない。姿勢は崩れてない。なんだ。集中しなくてもできるじゃん。いや、違う。船が傾く一瞬だけ集中すればいいんだ。集中の瞬発力だ。あとはリラックスして、海でも見てよう。受験に合格して桜水へ行くことになったら、寮生活だろうから、青架島を離れることになる。この景色も当たり前じゃなくなるんだ。ずっと青架島で育ってきた私は、懐かしいという感覚が分からない。でも、もうすぐ分かるときが来る。お母さん。お母さんはどういう気持ちで、芸名の苗字を青架にしたの? 会えたとき訊いてみたいことが一つ増えたよ。
そう言えば、今日、発声練習してなかった。あとでしなくちゃ。
「はい。一時間」
「嘘? もう?」
「短かったかい?」
私はうなずく。
「色々と考えてたから。あ、そうだ。発声練習しなくちゃ」
甲板にタオルを敷いて、その上に寝転がる。今日の夜空は月が見えない。分厚い雲がかかっているのかな。
声が夜空を突き抜けて宇宙まで届くようイメージする。息を吸う。
「アーーー」




