海に歌えば
瀬戸内海に向かって歌を歌う、中三の女子って、私ぐらいだろう。秋風になびく髪が頬や目元をくすぐる。でも、手で振り払ったり、顔を振ったりはしない。歌は姿勢が大事だから。あと、私の顔なんて誰も見ていないから。浜辺には私以外だれもいない。左手の方、港では二、三人が突っ立って定期船を待っている。
合唱曲として有名な「秋蛍」を歌い終わった私は、次は何を歌うか考える。「翼と風」と「涙の渚」で迷い、結局、「涙の渚」にする。「翼と風」だと未来とか進路について考えてしまいそうだから。今は、歌を歌う時ぐらい、迷いや不安を忘れていたい。
午前十時着の定期船が海上を進んで来ている。私は息を吸ってから出だしの音を出す。あとは止まらず、音をつなげていって旋律にする。旋律は渦巻いてどこかへは向かうけど、目的地もないから、どこかで力尽きて消える。ブレスして、声を出して、旋律が途切れないよう頑張るけど、やっぱり、また消える。
「涙の渚」の一番を歌い終える頃には、港に到着した定期船から人が降りていた。いつもの顔ぶれの中に一人、見覚えのない女の人がいた。背が高い。ボストンバッグを肩に担いでいるけど、旅行客だろうか。青架島には観光名所なんてないのに。
女の人はボストンバックを駐車場に置いて、浜辺に降りてきた。私は歌うのを止めずに、瞳だけ動かして女の人を見ていた。すると、女の人が近づいて来た。足が長いから一歩が大きい。
私は頬が熱くなる。島の人に聞かせるのならいざ知らず、島外の人に歌を聞かせるなんて恥ずかしい。でも、私の羞恥心のせいで中断したら歌に申し訳ないから、最後まで歌い切った。私より歌優先だ。だって私なんて、歌に比べたら米粒ほどの価値もない。
女の人は首を鳴らしてから、言った。
「へったくそ」
聞き間違いか。いや、この人、とてもきれいに日本語を発音した。滑舌がよくて聞き取りやすかった。
「す、すみません。下手で」
平謝りする。うひゃあ。一人よがりだったみたい。私の歌、島では評判良かったけど、みんな優しいから、上手いねってお世辞を言ってくれてただけなんだ。恥ずかしくて死にそう。
女の人は胸を張って、足を肩幅ぐらいに開いた。背筋が地面に対し垂直だ。分度器を持ってきて直角を測りたいぐらい。
「『涙の渚』はこう歌う」
鋭く息を吸う音がした。
女の人が口を開けた瞬間、空と海が震えた。まるで歌に呼応しているかのように、さざ波が現れては消えていく。あれ? 私は目をこする。眼前の海が、瀬戸内海が、いつの間にか沖縄の海、美ら海になっている。
空いた口が塞がらないって小説の中の言葉だと思っていたけど、現実にあるんだ。そういうこと。今まさにそれだ。
歌が終わった。私は余韻に溺れていた。
「じゃあね、田舎娘」
女の人は百八十度ターンして、海から離れるように歩き出した。背中が遠ざかっていく。
「待ってください」
叫んでた。
強い海風に目をつむる。一、二秒してから目を開けると、女の人が振り返り、半身だけをこちらに向けていた。
「何?」
声がまっすぐ、喉元へ突き刺さるように伸びて来た。
距離は二十メートルも離れていないはずなのに、女の人が遠くにいるような気がする。でも言わなくちゃ。こんな出会い、滅多にない。もしかしたら二度とない。
「歌を」
息を吸い込む。肺に潮風が香る。
「歌を教えてください」
女の人が私を見据える。今私、八百屋の野菜の気分だ。痛んでないか、見られてる。
「お願いします」
上半身を九十度近く折り曲げてお辞儀する。潮風が前髪を揺らす。波の音が聞こえる。
「顔上げな」
勢いよく顔を上げると、女の人の目の中に私がいた。私が私を見つめ返す。
「お前、いい目をしてる。声質もいい。なのに、なんであんな歌になるんだよ」
「すみません」
「謝らなくていい。とりあえずいつもどうやって発声練習してるか、見せて」
「はいっ」
砂の上に寝転がって空を仰ぐ。首元を通って砂が入ってくる。靴の中にも。でも、いいんだ。歌を教えてもらえるんだから。
息を吸って、
「アー」
ドの音を八泊伸ばす。テンポは六十。秒針が進む速度と同じだ。音にムラができないよう、最後の最後まで気を抜かない。八泊伸ばした後は、四泊使ってブレス。次の音、レの音を伸ばす。
一オクターブ上のドまで行くと、女の人が手を叩いた。
「普段はどこで練習してる?」
「音楽室でやってます」
「だからか。お前、音が伸びてない。音楽室の天井を抜けてさらにその先へ音が伸びて行く、そういうイメージを持って練習したことは?」
「ありません」
音楽室の中で響けばいいと思ってた。合唱部、と言っても私一人だけだから、私が私の歌を聴いてあげればいい。そう思ってた。でも、違うんだ。外があるんだ。
「手本を見せてやる」
女の人はそう言って砂浜にお尻をつけた。
「ダメです。汚れちゃいます」
「あ?」
「いや、その、服が砂で」
砂だから、泥に比べたら大した汚れにはならないだろうけど、汚れはする。
「気にするな。ジャケットもパンツも安物だ」
「でも」
女の人が上半身を倒した。さっきまでの私と同じ体勢だ。
「いいか。要はブレスとイメージだ」
そう言ってゆっくり息を吐いていく。でも、吸うのは一瞬だった。これがこの人のブレス。出た音は、ド。でも、私のドと全然違う。何だろう、これ。音が意志を持っているみたいに飛んで行く。揺らぎのない音程で、音量も申し分ない。何よりまっすぐ伸びて行くから、自分が置いて行かれたような気分になる。なのに、寂しいというより、爽やかな気持ちになる。
レ。ミ。音が上がっていく。まるで空へと続く階段を登っているみたい。歩いてじゃない。走って。体が軽い。そんな錯覚を起こす。
私も歌いたい。この人みたいに歌いたい。ただの発声練習で人の心を揺さぶれるぐらい、まっすぐな声を出したい。
できないよ。できるわけがない。胸の奥から声がする。
息苦しくて胸に手を重ねる。肩を縮こませ、うつむいて目を閉じる。私はどこへも行けはしない。
「アー」
女の人の声が、私の感情を散らした。気持ちいいぐらい何もない。ここには、音しかない。
「ま、こんなもんだ」
軽い調子でそう言うと、女の人は立ち上がった。お尻や背中の砂を払いながら口を動かす。
「基礎は毎日の積み重ねだ。毎日やってればできるようになるから、やれ」
「やります。毎日、浜辺に来てやります」
「別に室内でやっても問題ない。言っただろう。要はイメージとブレスだ。でも確かに、慣れないうちは外でやるといいかもな。イメージをつかみやすいから」
女の人は目を細め、小島が浮かぶ海を見やる。中型船が、速いとも遅いとも言えない微妙な速度で海面を滑っていく。空にはハケで掃いたような筋雲が掠れている。
「いいところだな」
「そうですか?」
「違うのか?」
私は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
青架島の人はみんな、親切だ。空気は澄んでいて息がしやすいし、食べ物はおいしいし、コンビニはないけど、なかったらないで困らない。テレビも見れるし、インターネットもつながっているから、島外の情報も入って来る。都会に憧れはあるけど、島だって捨てたもんじゃない。そう思える。
なのに、どうして私は心から笑えないのか。
島はいいところだ。
でも、私の居場所はここじゃない。島の人が私を追い出そうとしているわけじゃない。島が私にふさわしくないのとも違う。逆だ。私には過ぎた場所なんだ。私が居ていい場所じゃない。私の居場所はどこにもない。生まれたときから、ずっと。ねえ、お母さん、そうでしょ。
「なにしけた顔してんだよ。発声も終わったし、歌うぞ。何でもいい。歌え」
せっかくだから、下手くそと言われた「涙の渚」を歌う。メジャーな曲だし、私が今、歌いたい歌だし。
息を吐いてから、吸う。さっき女の人がしてたみたいに一瞬で吸ってみた。でも、なんか違うや。当たり前か。すぐできたら私、天才ってことになっちゃう。そんなのあり得ない。
できるだけまっすぐ飛ばすイメージを持って歌う。でも、歌声が曲がってしまう。どうしようもないや。全然ダメ。違う違う。できる。私だってまっすぐ歌えるはずだ。何も考えず歌え。不安なことなんて何もない、はず。
「歌い続けろ。止めるなよ。いいか。今、お前の歌はまっすぐ飛んでいない。でも問題はそこじゃない。お前の歌、何か隠してるんだよ。自分をさらけ出してない。自分を見ようともしてない」
図星を突かれて私は声を小さくする。
「バカ。もっと声出せ。いいんだよ。屈折してるのは悪いことじゃない」
単純な私は歌う声を大きくする。どこへでもいいからとにかく出す。歌を表現できればいいんだ。私の迷いや悩みなんかどうだっていい。歌を大事にしなくちゃ。
「歌の奴隷になるな。はき違えるなよ。歌を大事にするのと、自分を押し殺すのは違う。歌詞を表現しなくていい。メロディを表現しなくていい。そんなことはお前、もうできてんだよ」
歌詞でもメロディでもない。あれ? なら何を表現するの? 疑問に囚われて、私の歌声は輪郭のはっきりしない、歌とも呼べないような代物になる。
「表現すべきはお前自身だ。歌にお前を乗せろ。今迷ってること、あるだろ。今悩んでること、あるだろ。ぜんぶ乗せろ。隠すな。さらけ出せ」
無理だよ。
だって私、自分と向き合ってこなかった。自分を見たくなかった。自分の存在が嫌だ。自分の気持ちなんて、もっと嫌だ。
本当の気持ちから目を逸らして生きてきたのに。今、急に変われるわけがない。歌を表現すればいいんだ。私なんかどうだっていいんだ。私に価値なんて、これっぽっちもないんだ。
「そんなに嫌か? ならもういい。私が連れ出してやる」
ブレス。
私のブレスとは、音も鋭さも何もかもが違うブレスだ。
次の瞬間、歌声が二つになった。まっすぐな歌声と、行く当てのない、曲がりくねった歌声だ。
ああ。やっぱり、私はこの人みたいには歌えない。
自然とあごが下がる。声が小さくなる。すると、女の人の声も小さくなった。さっきまでまっすぐ前へ飛んでいた歌声が、私の歌声に寄り添ってくれている。右に行ったり、上に行ったり、螺旋を描いたりする私の声に付き従い、ハモっている。
振り切ろうと滅茶苦茶に声を出す。でも、女の人の声は当たり前のようについてくる。ついてくるというか、傍にいる。二人三脚で走ってるみたいだ。
どういうつもりなのか、視線を投げつけると、女の人は私の手を握ってくれた。弱い力で、壊さないように、労わるように。私は握り返さない。でも、目頭が熱くなって、声が震えた。ビブラートみたいなきれいな震えじゃない。歌詞だって、滑舌が悪くなって聞き取り辛い。でも歌う。やめたくない。この人ともっと歌っていたい。他の誰でもない、私が、歌っていたいんだ。そう思った瞬間、私は歌に乗っていた。丸ごと全部、足裏から頭の上まで乗ってる。秋晴れの下、さざ波の立つ海上を飛んで行く。潮風すら巻き込んで、どこまでも。
気づいたら、私の声はまっすぐ飛んでいた。今なら言える。私は自分が大嫌いって、胸を張って言える。お母さん、どうして私を捨てたのって、大声で言える。
女の人の手を握り返す。さらに強い力で握り返される。
泣き出す寸前で、歌が終わった。歌詞を使い切ったのだ。魔法が解けてしまった。私の剥き出しになった心に潮風がしみる。すぐ必死で防壁を築き直す。私は何も思わない。お母さんに言いたいことなんてない。捨てられたのもきっと偶然だ。理由なんてないはず。
女の人の茶色い瞳が私をのぞきこむ。
「ピッチは甘いし、伸びもまだまだ。表現力以前に基礎がなってない。でも、よくなった」
頭を撫でられる。口元が緩むのを堪える。無理だ。緩む。
「ありがとう、ございました」
「じゃ、私、もう行くから」
女の人がきびすを返して、私から遠ざかる。歌声と同じようにまっすぐ歩く。歩調に全くと言っていいほど迷いがない。行ってしまう。
「待ってください」
足が止まった。
「名前を、名前を教えてください」
「凛。陸井凛」
振り返らず名乗って、また歩き出す。私は背中を見送ることしかできない。
二、三歩進んだ凛さんが、再び立ち止まった。
「お前は?」
「え?」
凛さんが振り返る。
「名前だよ。お前、何て名だ?」
すぐ答えようとして、でも、息が出なくて詰まった。だって聞かれると思ってなかった。一拍置いてから答える。
「凪って言います。私、水野凪です」
凛さんが目を見開いて、砂を後ろへ蹴り出すほど速く走り、私のもとへ戻って来た。
「水野? ってことは、お前、那美さんの娘か? 案内しろ。頼む。私を那美さんの実家へ案内してくれ」
「え?」
私のお母さんは、水野美咲ですよ。