表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
凪の歌  作者: 仙葉康大
第一章
1/52

海に歌えば

 瀬戸内海に向かって歌を歌う、中三の女子って、私ぐらいだろう。秋風になびく髪が頬や目元をくすぐる。でも、手で振り払ったり、顔を振ったりはしない。歌は姿勢が大事だから。あと、私の顔なんて誰も見ていないから。浜辺には私以外だれもいない。左手の方、港では二、三人が突っ立って定期船を待っている。


 合唱曲として有名な「秋蛍(あきぼたる)」を歌い終わった私は、次は何を歌うか考える。「翼と風」と「涙の(なぎさ)」で迷い、結局、「涙の渚」にする。「翼と風」だと未来とか進路について考えてしまいそうだから。今は、歌を歌う時ぐらい、迷いや不安を忘れていたい。


 午前十時着の定期船が海上を進んで来ている。私は息を吸ってから出だしの音を出す。あとは止まらず、音をつなげていって旋律にする。旋律は渦巻いてどこかへは向かうけど、目的地もないから、どこかで力尽きて消える。ブレスして、声を出して、旋律が途切れないよう頑張るけど、やっぱり、また消える。


 「涙の渚」の一番を歌い終える頃には、港に到着した定期船から人が降りていた。いつもの顔ぶれの中に一人、見覚えのない女の人がいた。背が高い。ボストンバッグを肩に(かつ)いでいるけど、旅行客だろうか。青架島(あおかじま)には観光名所なんてないのに。


 女の人はボストンバックを駐車場に置いて、浜辺に降りてきた。私は歌うのを止めずに、瞳だけ動かして女の人を見ていた。すると、女の人が近づいて来た。足が長いから一歩が大きい。


 私は頬が熱くなる。島の人に聞かせるのならいざ知らず、島外の人に歌を聞かせるなんて恥ずかしい。でも、私の羞恥心のせいで中断したら歌に申し訳ないから、最後まで歌い切った。私より歌優先だ。だって私なんて、歌に比べたら米粒ほどの価値もない。


 女の人は首を鳴らしてから、言った。


「へったくそ」


 聞き間違いか。いや、この人、とてもきれいに日本語を発音した。滑舌がよくて聞き取りやすかった。


「す、すみません。下手で」


 平謝りする。うひゃあ。一人よがりだったみたい。私の歌、島では評判良かったけど、みんな優しいから、上手いねってお世辞を言ってくれてただけなんだ。恥ずかしくて死にそう。


 女の人は胸を張って、足を肩幅ぐらいに開いた。背筋が地面に対し垂直だ。分度器を持ってきて直角を測りたいぐらい。


「『涙の渚』はこう歌う」


 鋭く息を吸う音がした。


 女の人が口を開けた瞬間、空と海が震えた。まるで歌に呼応しているかのように、さざ波が現れては消えていく。あれ? 私は目をこする。眼前の海が、瀬戸内海が、いつの間にか沖縄の海、(ちゅ)ら海になっている。


 空いた口が塞がらないって小説の中の言葉だと思っていたけど、現実にあるんだ。そういうこと。今まさにそれだ。


 歌が終わった。私は余韻に溺れていた。


「じゃあね、田舎娘」


 女の人は百八十度ターンして、海から離れるように歩き出した。背中が遠ざかっていく。


「待ってください」


 叫んでた。


 強い海風に目をつむる。一、二秒してから目を開けると、女の人が振り返り、半身(はんみ)だけをこちらに向けていた。


「何?」


 声がまっすぐ、喉元へ突き刺さるように伸びて来た。


 距離は二十メートルも離れていないはずなのに、女の人が遠くにいるような気がする。でも言わなくちゃ。こんな出会い、滅多にない。もしかしたら二度とない。


「歌を」


 息を吸い込む。肺に潮風が香る。


「歌を教えてください」


 女の人が私を見据える。今私、八百屋の野菜の気分だ。痛んでないか、見られてる。


「お願いします」


 上半身を九十度近く折り曲げてお辞儀する。潮風が前髪を揺らす。波の音が聞こえる。


「顔上げな」


 勢いよく顔を上げると、女の人の目の中に私がいた。私が私を見つめ返す。


「お前、いい目をしてる。声質もいい。なのに、なんであんな歌になるんだよ」

「すみません」

「謝らなくていい。とりあえずいつもどうやって発声練習してるか、見せて」

「はいっ」


 砂の上に寝転がって空を仰ぐ。首元を通って砂が入ってくる。靴の中にも。でも、いいんだ。歌を教えてもらえるんだから。


 息を吸って、


「アー」


 ドの音を八泊伸ばす。テンポは六十。秒針が進む速度と同じだ。音にムラができないよう、最後の最後まで気を抜かない。八泊伸ばした後は、四泊使ってブレス。次の音、レの音を伸ばす。


 一オクターブ上のドまで行くと、女の人が手を叩いた。


「普段はどこで練習してる?」

「音楽室でやってます」

「だからか。お前、音が伸びてない。音楽室の天井を抜けてさらにその先へ音が伸びて行く、そういうイメージを持って練習したことは?」

「ありません」


 音楽室の中で響けばいいと思ってた。合唱部、と言っても私一人だけだから、私が私の歌を聴いてあげればいい。そう思ってた。でも、違うんだ。外があるんだ。


「手本を見せてやる」


 女の人はそう言って砂浜にお尻をつけた。


「ダメです。汚れちゃいます」

「あ?」

「いや、その、服が砂で」


 砂だから、泥に比べたら大した汚れにはならないだろうけど、汚れはする。


「気にするな。ジャケットもパンツも安物だ」

「でも」


 女の人が上半身を倒した。さっきまでの私と同じ体勢だ。


「いいか。要はブレスとイメージだ」


 そう言ってゆっくり息を吐いていく。でも、吸うのは一瞬だった。これがこの人のブレス。出た音は、ド。でも、私のドと全然違う。何だろう、これ。音が意志を持っているみたいに飛んで行く。揺らぎのない音程で、音量も申し分ない。何よりまっすぐ伸びて行くから、自分が置いて行かれたような気分になる。なのに、寂しいというより、爽やかな気持ちになる。


 レ。ミ。音が上がっていく。まるで空へと続く階段を登っているみたい。歩いてじゃない。走って。体が軽い。そんな錯覚を起こす。


 私も歌いたい。この人みたいに歌いたい。ただの発声練習で人の心を揺さぶれるぐらい、まっすぐな声を出したい。


 できないよ。できるわけがない。胸の奥から声がする。


 息苦しくて胸に手を重ねる。肩を縮こませ、うつむいて目を閉じる。私はどこへも行けはしない。


「アー」


 女の人の声が、私の感情を散らした。気持ちいいぐらい何もない。ここには、音しかない。


「ま、こんなもんだ」


 軽い調子でそう言うと、女の人は立ち上がった。お尻や背中の砂を払いながら口を動かす。


「基礎は毎日の積み重ねだ。毎日やってればできるようになるから、やれ」

「やります。毎日、浜辺に来てやります」

「別に室内でやっても問題ない。言っただろう。要はイメージとブレスだ。でも確かに、慣れないうちは外でやるといいかもな。イメージをつかみやすいから」


 女の人は目を細め、小島が浮かぶ海を見やる。中型船が、速いとも遅いとも言えない微妙な速度で海面を滑っていく。空にはハケで掃いたような筋雲が(かす)れている。


「いいところだな」

「そうですか?」

「違うのか?」


 私は曖昧な笑みを返すことしかできなかった。


 青架島の人はみんな、親切だ。空気は澄んでいて息がしやすいし、食べ物はおいしいし、コンビニはないけど、なかったらないで困らない。テレビも見れるし、インターネットもつながっているから、島外の情報も入って来る。都会に憧れはあるけど、島だって捨てたもんじゃない。そう思える。


 なのに、どうして私は心から笑えないのか。


 島はいいところだ。


 でも、私の居場所はここじゃない。島の人が私を追い出そうとしているわけじゃない。島が私にふさわしくないのとも違う。逆だ。私には過ぎた場所なんだ。私が居ていい場所じゃない。私の居場所はどこにもない。生まれたときから、ずっと。ねえ、お母さん、そうでしょ。


「なにしけた顔してんだよ。発声も終わったし、歌うぞ。何でもいい。歌え」


 せっかくだから、下手くそと言われた「涙の渚」を歌う。メジャーな曲だし、私が今、歌いたい歌だし。


 息を吐いてから、吸う。さっき女の人がしてたみたいに一瞬で吸ってみた。でも、なんか違うや。当たり前か。すぐできたら私、天才ってことになっちゃう。そんなのあり得ない。


 できるだけまっすぐ飛ばすイメージを持って歌う。でも、歌声が曲がってしまう。どうしようもないや。全然ダメ。違う違う。できる。私だってまっすぐ歌えるはずだ。何も考えず歌え。不安なことなんて何もない、はず。


「歌い続けろ。止めるなよ。いいか。今、お前の歌はまっすぐ飛んでいない。でも問題はそこじゃない。お前の歌、何か隠してるんだよ。自分をさらけ出してない。自分を見ようともしてない」


 図星を突かれて私は声を小さくする。


「バカ。もっと声出せ。いいんだよ。屈折してるのは悪いことじゃない」


 単純な私は歌う声を大きくする。どこへでもいいからとにかく出す。歌を表現できればいいんだ。私の迷いや悩みなんかどうだっていい。歌を大事にしなくちゃ。


「歌の奴隷になるな。はき違えるなよ。歌を大事にするのと、自分を押し殺すのは違う。歌詞を表現しなくていい。メロディを表現しなくていい。そんなことはお前、もうできてんだよ」


 歌詞でもメロディでもない。あれ? なら何を表現するの? 疑問に囚われて、私の歌声は輪郭のはっきりしない、歌とも呼べないような代物になる。


「表現すべきはお前自身だ。歌にお前を乗せろ。今迷ってること、あるだろ。今悩んでること、あるだろ。ぜんぶ乗せろ。隠すな。さらけ出せ」


 無理だよ。


 だって私、自分と向き合ってこなかった。自分を見たくなかった。自分の存在が嫌だ。自分の気持ちなんて、もっと嫌だ。


 本当の気持ちから目を逸らして生きてきたのに。今、急に変われるわけがない。歌を表現すればいいんだ。私なんかどうだっていいんだ。私に価値なんて、これっぽっちもないんだ。


「そんなに嫌か? ならもういい。私が連れ出してやる」


 ブレス。


 私のブレスとは、音も鋭さも何もかもが違うブレスだ。

 次の瞬間、歌声が二つになった。まっすぐな歌声と、行く当てのない、曲がりくねった歌声だ。

 ああ。やっぱり、私はこの人みたいには歌えない。


 自然とあごが下がる。声が小さくなる。すると、女の人の声も小さくなった。さっきまでまっすぐ前へ飛んでいた歌声が、私の歌声に寄り添ってくれている。右に行ったり、上に行ったり、螺旋を描いたりする私の声に付き従い、ハモっている。


 振り切ろうと滅茶苦茶に声を出す。でも、女の人の声は当たり前のようについてくる。ついてくるというか、傍にいる。二人三脚で走ってるみたいだ。


 どういうつもりなのか、視線を投げつけると、女の人は私の手を握ってくれた。弱い力で、壊さないように、(いた)わるように。私は握り返さない。でも、目頭が熱くなって、声が震えた。ビブラートみたいなきれいな震えじゃない。歌詞だって、滑舌が悪くなって聞き取り辛い。でも歌う。やめたくない。この人ともっと歌っていたい。他の誰でもない、私が、歌っていたいんだ。そう思った瞬間、私は歌に乗っていた。丸ごと全部、足裏から頭の上まで乗ってる。秋晴れの下、さざ波の立つ海上を飛んで行く。潮風すら巻き込んで、どこまでも。


 気づいたら、私の声はまっすぐ飛んでいた。今なら言える。私は自分が大嫌いって、胸を張って言える。お母さん、どうして私を捨てたのって、大声で言える。


 女の人の手を握り返す。さらに強い力で握り返される。


 泣き出す寸前で、歌が終わった。歌詞を使い切ったのだ。魔法が解けてしまった。私の剥き出しになった心に潮風がしみる。すぐ必死で防壁を築き直す。私は何も思わない。お母さんに言いたいことなんてない。捨てられたのもきっと偶然だ。理由なんてないはず。


 女の人の茶色い瞳が私をのぞきこむ。


「ピッチは甘いし、伸びもまだまだ。表現力以前に基礎がなってない。でも、よくなった」


 頭を撫でられる。口元が緩むのを堪える。無理だ。緩む。


「ありがとう、ございました」

「じゃ、私、もう行くから」


 女の人がきびすを返して、私から遠ざかる。歌声と同じようにまっすぐ歩く。歩調に全くと言っていいほど迷いがない。行ってしまう。


「待ってください」


 足が止まった。


「名前を、名前を教えてください」

「凛。陸井凛(りくいりん)


 振り返らず名乗って、また歩き出す。私は背中を見送ることしかできない。

 二、三歩進んだ凛さんが、再び立ち止まった。


「お前は?」

「え?」


 凛さんが振り返る。


「名前だよ。お前、何て名だ?」


 すぐ答えようとして、でも、息が出なくて詰まった。だって聞かれると思ってなかった。一拍置いてから答える。


(なぎ)って言います。私、水野凪です」


 凛さんが目を見開いて、砂を後ろへ蹴り出すほど速く走り、私のもとへ戻って来た。


「水野? ってことは、お前、那美(なみ)さんの娘か? 案内しろ。頼む。私を那美さんの実家へ案内してくれ」

「え?」


 私のお母さんは、水野美咲(みずのみさき)ですよ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ