冒険と選択はキャンサー
「我々はやがてカニになる可能性が極めて高い」
スーツ姿の男は神妙な面持ちで何度か言葉をためらったあと、軽く自棄っぱちな口調になりながらもようやく話を切り出した。
僕はごくりと固唾をのむ。この男がふざけている様子は感じられない。この状況下で騙すメリットも思いつかない。つまりその言葉は真実に他ならないはずだ。
「カニ、ですか」
急な事実にあまり頭が付いていけていない。僕は男の言葉を繰り返すだけで精いっぱいだった。
***
放送室はそれほど狭くはない空間であるが、流石に男三人が集まるといささか窮屈に思えた。
男三人。僕ら二人と今朝やってきたスーツ姿のややくたびれた男である。
僕が目を覚まし、何度か開扉ガチャを試みていたところ学者を名乗るこの男を発見した。
学者はもともとシブヤのゲーム会社に勤めていたが、ある日、僕らと同じようにこの世界に紛れ込んでしまったという。
「ゲームにハマる人間には四つの類型があるんだ。アイテムや図鑑を集めることに楽しみを覚える『収集家』、誰かとコミュニケーションを取って遊ぶことが好きな『協力者』、他者と競い合ってひとつでも上のランクを目指す『競争者』、そして誰よりも先に未知の世界を開拓していくことに意義を見出す『冒険家』だ」
学者は生粋の冒険家だった。この世界に紛れ込んでからもうずいぶん経つという。
この世界には僕らと同じようにいくらか人が迷い込んでいるらしい。社会とはまだほど遠いものの、集落を形成したりする集団も見たと言っていた。
僕がワサビーフを差し出すと、学者は目を輝かせてお菓子の包装をひっくり返したりしながらまじまじと検分していた。
「いやあ、貴重な食糧をすまない」
僕らにとっては要らない物資であったが、それは言わないでおいた。
それから学者は視線をきょろきょろと動かし、落ち着きなく放送室の中を観察していた。
「それで、ふたつほど伺いたいのですが」
学者は僕らのほうに顔も向けず返事をする。
「なんでも聞いてくれ、もとの世界に戻る方法以外ならね」
「……。ではふたつめの質問ですけど、ここはファンタジー世界なんですか」
「難しい問いかけだね」
ひとしきり部屋を調べまわったあと学者はワサビーフをつまみながら、何から話そうか迷っているような表情を浮かべた。
「キミたちはカニと言われて何を思い浮かべるだろう」
「森で大きなカニは見かけましたね」
「そう、それ。私の友人にカニの専門家が居てね、彼はこの世界に足を踏み入れてからひたすらカニの生態について調べていた。彼はもともとひ弱だったが、カニを追いかけるために体力をつけ、身体を鍛えた。森で生き抜くための勘を磨いた。そしてカニと寝食を共にし、ときに殺し合い、奪い合い、ある時は共闘することもあったという」
「そして彼はカニになった」
「はあ」
「死が平等に訪れるように、この世界ではやがて人はカニになる」
「カニ、ですか」
「理性を失い、泡を吹き、あたりかまわず暴れ狂うカニだ。これをファンタジーだというのならファンタジー世界には違いない」
学者はクツクツと皮肉っぽく笑う。そしてどこか他人事のように言い放った。
「もっとも私にとってはファンタジーとかファンタジーじゃないとか、人生とか人間関係とか現実世界とかこれまで築き上げてきたありとあらゆる事とか、そんなのはどうでもいいと思うがね。この世界の真実を自分の目で確かめたい、もうただそれだけの命だ」
学者の瞳は爛々と輝き、そのくたびれた格好との落差にどこか空恐ろしさを感じた。
おそらくこの男は既にファンタジーの領域で生きている。
彼に深く関わってはいけないという本能的な警告が、頭の中で鳴り響いていた。
思うに学者は、元から冒険家のような性格だったのだろうか。
ファンタジーの環境に飲み込まれてそのような生き様になったのだろうか。
後者だとしたら、なおのこと気を付けなければならない。
「カニになることのはっきりした原因は分からない。そして私も先は長くない」
学者が腹をまくると、肌の一部からキチン質の甲殻が覗いていた。
「ただ、彼が残したものはそうした絶望だけじゃなかった。カニの生態、カニの急所、それからカニの持つ秘密、それらを知らなければ私は今ここには居なかっただろう」
そこまで喋ると、突然学者は立ち上がった。
「そろそろお暇させてもらおうか。私は冒険家だ。余生には限りがあるし、ここはもう飽きた」
あっけに取られている間に、学者はテキパキと荷物をまとめあげる。
「大事なことは一つだけ言うと、カニのふんどしは異世界に繋がっている」
「それってもしかして……」
「残念ながら、現実世界に繋がっているとは限らないがね」
学者がおもむろに放送室の扉を開けると、そこには巨大なカニが待ち構えていた。
襲い掛かるカニのハサミを華麗に避け、メリケンサックを装備した右の拳を何発か叩き込むとカニはそのまま沈黙した。
「それじゃあ、またどこかで」
僕は扉の外へ出て、慌てて学者のもとへ駆け寄ろうとする。まだ聞けていないことがたくさんある。
しかし学者は慣れた手つきでカニをひっくり返し、ふんどし部分をメリメリこじ開けるとその中へするっと潜り込んでしまった。
どうする。
振り返ると、僕らの放送室に繋がっていた扉も朽ちて化石化したカニであることに気付いた。
学者が倒したカニの身体は、猛烈な勢いで腐り落ちようとしている。
いまの僕らにカニを倒す手段はない。
ここに留まってカニになる瞬間を待つか、新たな世界に踏み出すか。
ここから先に踏み出せば、もう二度とここには帰ってこられないだろうという確信が沸く。
じめじめとした先の見えない森の中心で、僕たちは選択を迫られていた。