第2章-1 影一郎の影
地上界視察日誌・第7節 その5
アテネシア暦701年4月30日 晴れ
やっぱりというか何というか。カンのいい人間はあまり好きではないです。
初日に知り合った人に、いまだ付きまとわれています。今は解放されてますが。
現聖騎士団の第一隊の隊長らしいですね。そんな人が前に出ている時に鉢合わせるなんて、私の運の悪さも大概です。
悪い人じゃないですけどね。顔もいいし、なんか名前褒められたし……
……決まり事だから仕方ないけど、こんな時期に降りるもんじゃないですね。
今、各地方の視察のため、軽く鉄道の旅をしていますが、予想以上に戦争が勃発するのが早そうだという印象を受けます。
この任期が終わるうちに始まるか始まらないか……。
戦争に関してわたしがあまりかかわる訳にはいかないので、残り二か月はひっそりと暮らしながら静観していることにしましょう。
それ以外には、おそらく問題点は特になし。貧富の格差もそこまでではなし。
これも土壌の豊かで一年中実りのあるグローリーだからこそといえるでしょう。
魂の総量やバランスも良いのではないでしょうか。……今のところは。
先ほど、アーリアの街を通り過ぎました。
できればちょっとだけ中を見たい気持ちもありましたが、流石に国境を越えたら怒られると思うので、今回も国境ギリギリから眺める程度しかできませんでした。
特に滅んだりしてないようで、よかったです。であれば、いまだ不戦条約は生きているようですね。頑張った甲斐があります。
帰ったら、またあの隊長さんに付きまとわれるのかな。
まあ、それもいいか。
※
福岡県の某市、某所。高速バスと地下鉄を乗り継いで、神崎影一郎の現在のねぐらである借りアパートに帰り着いたころにはすっかり日が暮れていた。
アルバイトは休みをとってあるので、今日はもうゆっくり休むつもりである。
夏休み真っ最中だからか週末だからか、帰り道は渋滞でバスがまともに動かなかった。もう少し早く帰れると思っていたのだが、見通しが甘かった。
昼に神崎の実家でサンドイッチをいただいたものの、この時間になると少々空腹になってきた。冷蔵庫を開けるが、どうにも心もとない。
影一郎はかんたんな料理ならできないこともないが、一人暮らしをしていると節制しないといけない反面、ついつい面倒だと思ってしまうことが多々ある。
「明日からがんばろう」
――近くの牛丼屋で済ませよう。昼間二度も否定したダメ男そのものである常套句をもって玄関に向かったところ、玄関先でチャイムが鳴った。
出かけついでのようにそのまま開くと、影一郎のよく知るところの、すらっと背の高い女性が立っていた。
「カナさん」
「あ、やっぱり帰ってた」
カナは、肩のあたりで一本結びにした黒い長髪を揺らして、ふにゃっとあどけない笑顔を見せた。
「あー、今日は大丈夫って言ったじゃないですか」
「そのつもりだったんだけどね。ちょうどあたしも夕ご飯どうしようかなって、考えてたところだったから。そっちは?」
「まあ、俺もですけど」
「どうせぼっちだからもう簡単に済ませちゃおうかなって思ってたから、何も用意してないんだけどね……」
「俺もですけど」
二人で顔を見合わせて、くすくすと笑う。
朱鷺宮カナ。隣に住んでいる社会人の女性である。
実はわけあって神崎家と家族ぐるみの付き合いをしていた時期があり、そのころ影一郎はまだ十六歳の高校生であったが、歳も三つほどしか離れていないので姉が出来たようで少しうれしかったのを覚えている。
一年間ののち、就職のためカナが熊本を離れることとなり、すっかり神崎家とは疎遠になってしまった。
……のだが、影一郎だけはその二年後、まさかの運命めいた再会を果たす。
大学に近いこの安アパートの偶然空いていた角部屋に越してきたその日、お隣に挨拶に伺ったところ、年季の入ったドアから顔を覗かせたのがこのカナであった。
実を言うと初めての一人暮らしの先行きに不安を感じていた影一郎だったが、その時ばかりは世界の狭いことに感謝した。
それから今に至るまで、色々と世話を焼いてくれる。影一郎がアルバイトをしながらの苦学生をするのだと知るや否や、そこからほとんど毎日夕食を作りに来てくれる、影一郎にとっては菩薩を超越した別次元の何かである。
食材はどうせついでだからと買い込んでは影一郎の冷蔵庫にため込んでいる。
ずかずかと我が家のように上がり込み、冷蔵庫を覗き込むカナ。
「それじゃあ、冷蔵庫にあるもので適当に作っちゃう?それとも、外食がいいかな?」
「外食がいいならここにくる必要はないのでは……」
慣れた様子のカナは冷蔵庫をかぱかぱと開けては微妙な顔をする。
「今更そんなつれないこと言わないの。……うーん、今日はもともと計画してなかったから微妙かな。どっか食べに行こっか?」
食材については流石に影一郎も半分出しているのだが、たまにこうして一緒に外食する時は、影一郎が何を言っても代金を持たせてくれない。
「だいじょうぶ、お姉さんがお代は持つから」
こういう風に。
曰く、男であれ何であれ学生に外食代を出させる社会人は落第だとか。
「それなら今から買い出しして何か作ったほうが」
「もう二十時半でしょ、それだと半額の売れ残りお惣菜買った方が早いよ。でもそれだと味気ないじゃない?」
「わかりましたよ、じゃあ、行先は」
「はいはい、それはあたしが決めるから。じゃ、着替えてくるからちょっと待っててね」
ぱたぱたとひっかけたサンダルを鳴らして隣に戻っていったカナ。
こういう場合はたいてい近所の安いファミレスである。
これがまあ、例えばデートだったりすれば、エスコート先に苦労するのだろうがこの人に限ってそういう事は何も気にする必要がなかった。
たまにファミレス以外に行こうと提案すると一応汲んではくれるのだが、基本的に気遣い無用と色々なことは止められてしまう。
……なので影一郎は異性としては見られていないのだろう。
こんなに面倒見がよくて、外見も綺麗とかわいいの中間くらいではっきり言って魅力のある女性だ。この様子だと今はいないだろうが、男が放っておく訳がない。
もし、そうなればこうした時間も終わるのだろうか。などと影一郎はつらつら考えた。
*
ファミレスで二人向き合って定食をつついていると、カナが手を止めてじーっと影一郎の顔を眺める視線に気づいた。
「俺の顔に何か」
「いや、一昨日から熊本の実家に帰ってたんだよね?」
「そうですね、墓参りついでに」
言って影一郎は気づく。実家に帰るのに墓参りついでというのも我ながらおかしいと思った。カナに耳ざとく注意されてしまう。
「またそんなこといって。……それで、どうだった?」
「……いつも通りでしたよ」
空から降ってきた台風のような三人娘の話はひとまず置いておく。言ったところで適当に流されて明日の献立をどうするかという話になるに違いない。
「そ? なんだかちょっと疲れているような気がしてね。何かあったのかなって」
「ああいや、それは思ったより高速道路が渋滞していたからで……」
これは事実である。実際は色々あり過ぎて若干バタバタと落ち着かなかったからだが。
「一応、仕送りはあるんでしょう? あんまり意地張ってると身体もたないよ」
「……」
一月に一度振り込まれる大地からの仕送りには、まだ手をつけていない。熊本までの移動手段を新幹線でなく高速バスにしたのも節約の一環である。
勝手に熊本を離れて、県外の大学に通っているのは自分のわがままだ。
感謝しこそすれ、迷惑をかけるわけにはいかない。
それでも、どうしても立ち行かない時は借りるという形を取って、大学卒業のあかつきには耳をそろえて全額返却するつもりである。そして、就職して自分が逆に仕送りをするくらいの気概でいる。
「もっと家族に頼っていいんじゃないかな」
「善処はします」
「心がこもってないなあ。家族は大事にね」
「大事にはしてますよ。盆と年末年始には帰ってますし……」
「墓参りについでに家に寄ったみたいな事をのたまったのはきみだよ」
「……」
ぐうの音も出ない影一郎。
ややあって、まじめな顔をしていたカナがふっと破顔する。
「ごめんごめん、別に怒ってるわけじゃないんだ。というか、あたしが怒るのもなんかおかしな話だよね」
「勘弁してくださいよ……」
カナは二十三歳という若さで天涯孤独の身である。
その事情について、影一郎は深くは把握していない。
おそらく大地あたりに聞くとこたえが返ってくるのだろうが、安易に首を突っ込んではいけない気がしている。
こうやって家族に対して消極的な影一郎におせっかいを焼くのも、その反動なのだろう。それを思えばこそカナに対して何を言い返せようか。
「ね。あたしは常々思うんだけど、家族に血のつながりは関係ないと思うんだ」
「……」
「あたしと神崎さん家は一年そこらしか付き合いがなかったし、ずいぶんご無沙汰してるけど。あの時にはもう鑑定出してたんだっけ?」
「ちょうどカナさんと知り合う直前くらいですね」
影一郎が大地との血の繋がりがないことを知りえたのは偶然だった。
……果たしてあれは偶然だったのか。運命のめぐりあわせのような、必然めいた偶然のようなものを感じている。
12年前。忘れもしない8歳のころ。燃え盛る病院の中で、神奈と影一郎の知らぬ何者かがそう話しているのを偶然こっそり聞いてしまったというだけのこと。
地域の歴史に痛々しい爪痕を残していった大火災。子どもを産んだばかりの母・神奈が入院していた病院は全焼し、燃え広がる火災は近隣の住宅街にまで広がり、完全に鎮火するまで丸一日以上を要した。
その渦中にあった影一郎ははっきり言ってまともな精神状態ではなかった。
まともにそのことを考えることが出来るようになったのは、事件からおよそ一月が経ったころのことだった。
母親を失ったショックのせいか、思い出そうとすると記憶が混濁した。ありていに言えばもやもやしてよく分からないといったところか。
少しばかり冷静になってきたころ。自分なりに調べて戸籍を取り寄せてみたのだが、戸籍の内容自体はちゃんと神奈と大地の子であった。
が、あの時の母と何者かが嘘やでたらめを言っているようには思えなかった。
そこまで進んでようやく影一郎は、大地に質問するに至る。
大地はというと影一郎の真剣な質問に対して最初はとぼけていたが、母と話をしていた何者かに言及すると、その態度が一変。
あの時はじめて父親を怖いと思ったものだ。
――それが一体誰なのかは知らないが、忘れろ。いいね。
幼心に影一郎は悟った。触れてはいけない何かに触れようとしているのだと。
それから大地には絶対にバレないように注意を払って調査を続けたところ、割と簡単にDNA鑑定というものができるのだということに気づく。
父親の名前で、字を綺麗に真似てサンプルを封入して郵送するだけ。
サンプルは大地が寝ているときに楽にとれた。
おかげでため込んだ小遣いとお年玉がすっからかんになったが、結果は黒。
……やはり大地と影一郎は血の繋がった親子ではなかった。その事実にあまり動揺しなかった自分を、影一郎は割と素直に受け入れている。
問題はそこではないからだ。
なぜ、息子である自分が核心に触れたにかかわらず隠すのか。
なぜ、何も話してくれないのか。歳を重ねるごとにつのっていく疑問と、家族の中で自分だけ、血縁のない他人だという事実が、真綿で首を絞めるように折り重なってゆく。
たっぷり時間をかけて、それは影一郎の中にひっそりと、静かに孤独という根を張りめぐらしていた。
それをすっかりこじらせて今に至る。
わざわざ他県の大学に進学したのも、仕送りに手をつけていないのも、あまり実家に帰らないのも、みんなそうだ。
どこか心の中で”家族“に対して遠慮が生じている。
――と、建前はそういう風に取り繕って、孤独から逃げたい一心でここにいた。結果、逃げれば逃げるほどにやはり、心は孤独だった。
孤独だった影一郎に偶然とはいえ寄り添ってくれたカナには、正直言って頭が上がらない気持ちである。もはや家族同然といってもいい。
気恥ずかしさが勝つので、間違っても本人には言えないが。
「ね。あたしなんかとの付き合いより神崎家の歴史のほうがずっと長いのよ。それでも他人だなんて言うの?」
「他人だなんて、間違っても言いませんよ。……気持じゃわかってるんですが、ちょっと整理しきれないところがまだあって」
「一度ねじくれちゃったら、解くのも一苦労ね。ところで、今日何日だっけ?」
「へ? 確か8月の6日ですね」
「そう。……そっか」
カナの表情が思案げに揺れる。
しばらく瞳を伏せ、何か考えている風だったが、やおら目を開けて影一郎を見据える。
「ね、影一郎くん」
「……はい?」
あまりにもまっすぐな視線に射抜かれてどきっとする。
「大地さんのこと、ちゃんと見てあげてね」
「……もっとちゃんと実家に帰る時間を作れということですか?」
「うーんと、そうって言えばそうなんだけど……。言葉通りかな」
「それじゃあ、二か月に一度くらいで……」
「交通費に困ってるっていうんなら、あたしが」
「それはやめてください、分かりましたから!」
影一郎の胸中には、家族に対する遠慮と同時に、相対する一つの気持ちが沸いている。
感謝である。血の繋がりはどうであれ、ここまで健やかに育つことが出来たのだから、それを返さねばならないという気持ちだ。
きちんと大学を出て、稼げる会社に就職し、初任給と同時に仕送りをのしをつけて返却する。それが今のところのいわゆる”恩返し“プランである。
「でも、いずれ恩返しするために貯め込んでるのは分かってください」
カナとしては何度目かに聞いた恩返しという言葉。
やたらとそれにこだわり続ける影一郎に、カナは溜息を一つついた。
カナの脳裏にもやもやと絡みついた、影一郎の抱える思い違いにどうしようもなく苛立っている。
――それは、恩返しなんかじゃなくて――。
「……はいはい、今のところはそれでいいよ。すぐにとは言わないから。まあ、くれぐれもね」
「カナさんがそう言うなら」