第1章-1 疑惑
地上界視察日誌・第7節 その1
アテネシア暦701年4月1日 曇り→晴れ
今日は五十年に一度、九十日間限定の地上界視察の初日でした。
アーリアから左遷されて実に五度目ですね。少しだけグローリーにも慣れてきました。
例によって地上界にいる間は趣味の日誌を綴っていこうと思います。
今回は地理学者の卵という設定で、ここグローリー王国南西部ヴェルダンの街を拠点とします。仕事は仕事だけれど、ぶっちゃけ観光のようなものだし。例よって楽しみながらやっていきたいと思います。
……そのはずでしたが。もう日付も変わろうかという時間なのに一切荷ほどきができていません。あまつさえ何も口にしていません。おなかすいた!
そんなに使う予定のないはずの魔力も使いすぎて空っぽだし。
人間の身体でこれはちょっと……しんどい……
そのかわりと言っては何ですが、ちょっとした出会いがありました。
今回の視察は退屈しそうにないというか、ちょっと面倒臭そうだというか。
神界も地上界も、楽しいことばかりだったらいいのになあ。
*
夢を見ている。これは馴染みのある夢だった。見るのはもう、何度目か。
これはきっと遠い昔の記憶。神崎影一郎の原初の記憶だ。
夢の中の影一郎の目線は低い。足取りもどこかおぼつかなくて。夢だからか自我というものも危ういように思う。家は今のような日本家屋ではなく、木目基調のシックな洋風の内装になっている。そこにいる自分が見上げるのは、まだ若い母。
神崎神奈。黒い長髪が美しく、大人のような子供のような。可愛らしくもあり凛々しく、美しくもある顔が魅力的だったと思う。マザコンという訳ではないが。
見上げた母の顔は、この夢の中では決まって寂しそうな顔をしている。今にも泣きだしてしまいそうな、何か張りつめたような顔だ。決して大きくはない身体と、震える手で自分を抱きしめる。大丈夫、きっと大丈夫だから。そう、呟いて。
ややあって、家のドアが開かれる。
きっとそれを、母は待っていた。希望の眼差しで、玄関へ視線を投げかけた。
そこにいたのはまだ歳若い父親。神崎大地。
息を切らして、すぐに母と自分のもとに駆け寄った。
そんな父を見て――母は、顔をぐしゃりと歪ませて、目にいっぱい涙をためて。こらえるように、しかしこらえきれず、大粒の涙をとめどなく流した。
影一郎の原初の記憶……だと、思われる。きっと、記憶の奥底に影一郎はこの光景を覚えている。だからこそ疑問を持った。
なぜ父が帰ってきたのに、母は泣き出してしまったのか。それも尋常な泣き方ではない。
きっと嬉しいからだと、そう思った。単身赴任か何かでずっと帰ってこなかったのだろう。そう思っていた。夢だからと深く考えることはなかった。
でも。今でこそ影一郎はでもと思う。どう考えても、あれは悲しい時にする顔だ。
夫が帰ってきて悲しくなる嫁などいないだろう。
それが知りたい。無性に知りたい。だが、その手段はもう失われている。
死人に口などないのだ。だから、夢の中で影一郎は母親に問いかける。
「母さん、なんで――」
そんなに悲しそうに泣いているの?
その言葉は母に届くことはない。なぜなら――
「……あ、起きましたね。おはようございます」
そこで決まって夢は覚めてしまうからだ。ただ、今まで夢を見るときは決まってひとりだったが、今は傍らに誰かがいた。
フローリアが、ちょこんと正座していた。
緩やかにウェーブのかかった桃色の髪が可愛らしく、なんというか、不思議とそのほほえんだ顔を見ていると安心できた。
この暑いのにベージュのタートルネックセーターのようなものを着用している。下は赤いチェック柄のミニスカートに黒のニーソックスをはいている。
昨日、出会った時と同じ服装だ。黄土色の外套の下は、ラフなものだった。
新しい服も用意してあげないとなと思う。
そういえば母も寒がりで、いつも厚着をしていた。妙にだぶって見える。
記憶を手繰り寄せようとする影一郎。霊園で、空間の亀裂から誰かが降ってきて――。やわらかく押しつぶされて。その後、何かに頭をぶつけたような気がする。
その頭の痛みが消えていることを確認し、心の中で命に感謝した。
「うなされていたみたいですけど……お水、持ってきましょうか」
「いや、いいよ。ありがとう」
上半身だけ起き上がり、周囲を見回す。
「……なんだ。いつの間に帰ってきてたのか」
気づけば日が沈みかけていた。どれだけの時間気絶していたのか。
「帰りはあのー、車?にも乗らないので大地さん、二往復したんですよ」
「乗らない……? ああ、あの二人、連れて帰ってきたんだな」
「とりあえず居間のほうにみんないますので。行きましょうか。立てます?」
「大丈夫だ、問題ない」
影一郎は差し伸べられた手をやんわりと断る。立ち上がると少しだけふらついたが、フローリアの手前だからとすぐに建て直した。
ふすまを開けて縁側の渡り廊下を歩き、居間へと向かう。
居間では男二人と女二人がテーブルを囲んでいた。そこへ二人が入り込む。
今まで男三、四人で使っていたちゃぶ台も、これだとやや手ぜまになってしまう。
「起きたんだ。まあ、軽い脳震盪とたんこぶでよかったね、兄さん」
そう言って微笑みかける命。
「お前がそう言うんなら間違いないんだろうな。恩に切るよ。で、親父は?」
「そこの弁当屋。今日は色々あったからもう弁当買ってくるってさ」
ぶっきらぼうに答えた水成。
「兄貴はノビてたから知らないだろうが、あれからできる範囲で霊園を片付けてから帰ってきたんだよ。つい三十分前な。もう皆クタクタだ」
あの惨状は確かにそのままにはしておけない。見過ごして帰ってくることも出来ただろうが、母が眠る地はせめて綺麗にしてあげたい。皆、同じ思いだったのだろう。
「そうか。それで、こちらの女の子たちは一体?」
「どうやら母さんを頼ってきたようだね。見ての通り外国の人……だと、思うよ」
見た目はそうだ。赤毛と緑毛なんて今日びアニメの中でしか見ない。
しかし影一郎の記憶が正しければ、日本語が流暢であった。これはフローリアと同様の案件である。
「いや、不可抗力とはいえ昼間はすまないことをした。詫び入るよ」
「本ッ当に私が至らないおかげで、とんだ迷惑を……あの、大丈夫なの?」
赤髪の少女は身体に対してやや大きめの赤いジャケットを羽織っており、大きく腰でクロスしたベルトで留められている。中は鎖骨の下辺りまで空いた襟付きのシャツと短いスカートと涼しげである。赤髪は頭の後ろで大きな赤い髪留めで留められており、長い後れ毛はみずら結びのような形で留められている。いずれも少々雑さが垣間見える。
傍らには長い杖のようなものが置いてある。長い銀色の柄の先に、サッカーボールほどの大きさがある赤い球体が鎮座していた。影一郎の頭にヒットしたのはアレだろうか。
緑髪の少女はやや身長が高めだろうか。影一郎ほどではないが、迫るくらいはありそうだ。座っていて
もそれは分かった。降ってきていた時にかぶっていた白いキャスケットは傍らに置かれている。白いジャケットの下には鎖骨の出た淡い紺色のジッパーつきブラウスに、同じ色のホットパンツとオーバーニーソックス。動きやすそうな服装である。
「大丈夫、うちには医者よりずっと頼れるのがいるからな」
言って影一郎は命の頭をぽんぽんと叩いた。この出来た弟には随分と助けられている。
命がいなければひょっとすると脳に重大な後遺症が残っていたかもしれない。
「彼女の杖が、ちょっとだけいいところに当たっただけみたいだから。本当に大したことなかったから。なんならたんこぶのほうがよっぽど重大だったから」
……どちらにせよ後遺症とやらが残ることはなかったそうな。頭をさすると出来ていたらしい重大なたんこぶは綺麗さっぱり引っこんでいたようだ。どこにあったのやら。
「んなことどうだっていいだろ。それよりあんたら、兄貴に自己紹介してやってよ」
文庫本(ラノベと思われる)をけだるげに読んでいた水成がちら、と二人の少女に目配せをした。少女たちは居住まいを正す。
「あたしはレッドヴォルフ帝国から。ブレイズ・ヴァレンタイン。歳は十四」
「私はティターニア王国から。フュリー・エインフォースです。花も恥じらう十九歳です」
その自己紹介にデジャヴを感じた影一郎は弟たちに視線を投げかける。
すると同じ感想だったらしく、静かに首を縦に振って肯定した。
「……ええと、俺は神崎影一郎。見ての通りの冴えない普通の男だよ。二十歳。そっちの三人の紹介はもういいかな」
ちなみに、水成は十五歳、命は十七歳である。命は学校では生徒会副会長のポストにいる優秀な弟である。水成は冬に高校受験を控えているが、影一郎は彼がアニメと読書(漫画とラノベ)とゲームとPCをしているところしか見たことがなかった。なんならイラストも堪能だとか。
その水成が好きそうな中世ファンタジーの世界から飛び出してきたような風貌をしている二人の少女。 そして、フローリア。
答えはもう出ているに等しい。
「二人とも、ユーフェリア出身だとか言うんじゃ」
「その話か。まあ、世界地図とやらは見せてもらったが、いまいち信用できないね」
ここがユーフェリアではないどこかであることは、影一郎が起きてくる前に談義していたらしい。ただ、フローリアとは違ってブレイズは簡単には信じていない様子である。
「というと?」
影一郎が問う。ブレイズは少し苛立った様子で腕を組んだ。
「ここはユーフェリアのどこかだ。おそらく、極東の島国じゃないかと見ている」
「まあその認識はあながち間違ってないが……」
ヨーロッパを中心とした時、日本は世界において極東の位置に浮かぶ島国となる。
ユーフェリアにも同じような境遇の国があるということだろう。ブレイズはそのように断定している。隣のフュリーは頷きつつも、どこか曖昧な表情を浮かべていた。
「地球、だったか? お前らの話が本当なら、ここは異世界ってことになる。そんな与太話、とてもじゃないが信じられねえよ」
「そりゃ立場を逆転しても同じ話になるだろ。 ――と、こんな感じの禅問答になって話がまとまらない訳だ」
水成はお手上げだ、と言った風に両掌を大仰に広げてみせた。
場にぴりぴりとした空気が流れる。誰がなんと発言したものか、一触即発とさえ思えるその空気を打ち破ったのは、大地の帰還だった。車の排気音が止むと、弁当の袋が揺れる音を鳴らして、玄関が開かれた。ほどなくして大地が居間にやってくる。
「ただいまー。買ってきたよー」
信じられないほど呑気に登場した父を見て、緊張が解けたのか。ブレイズはふうと一息ついて姿勢を崩した。場の雰囲気が少しだけ和らいでいくのを感じる。
「昼間と同じようなやつかな。ありがたくいただくよ」
「ありがとうございます」
大地から弁当を受け取ると、ブレイズとフュリーは律義に一礼した。
気難しいと思ったが、案外まともなのかもしれない。影一郎は、少しだけ安堵した。
食後、話はやはり振り出しに戻った。
フローリアが用意した緑茶を手元に、相変わらずの禅問答が繰り広げられている。
「食事の水準がこれでしょう。そしてその目の色、髪の色……、ここはやっぱり極東の島国じゃないかと思ったのよね」
「……まあ、確かにそう言われればそうだね」
首をかしげ、微妙な顔をして大地はひとまず話を受け入れる。
「文明がよくわかんねえんだよな。この茶に使われている水だってそうだし、いやまあ一番最初にもらった水でも分かるが。このレベルの浄水技術ってアニス公国に匹敵するぞ」
「照れるな」
言って、水成は頭を掻いた。ブレイズとフュリーはきょとんとして顔を見合わせる。
「それに緑と土壌もグローリーに匹敵して、文明はレッドヴォルフにも及ぶ……」
ブレイズは涼やかな風を吐き出し続けているエアコンのほうを見た。流石にこの季節の熊本はエアコンがないと本気で死に及ぶ可能性がある。
やおら、思い出したようにフュリーがポシェットから丸まった羊皮紙のようなものを取り出して、広げて見せた。
「ボロボロだな、描いてあるのは……地図?」
「私たちはこれを見て旅をしてきました。詳しくは、もっと細かい地図があるんですが」
フュリーはいくつか地図を差し出してきた。こちらの地図で言う拡大版のようなもので、簡素ながらも街の名前、それに連なるいくつもの街道の名前なども見て取れた。
それらは先日、フローリアが神崎家に提示したものとほぼ同じものである。
「だが、あたしらが持っているものと親父殿が持ってきた地図とはどうにも何も一致しそうにない……極東の島国じゃなきゃ、未開拓のどこかか?」
ブレイズは怪訝そうに父・大地を見た。その目には猜疑心が色濃く宿っている。
「未開拓の国なんて今日びほとんどないと思うけどねえ」
「だよなあ。だとすると、やっぱり異世界の線もあるんだが――」
ブレイズが食い下がる。少しの時間思案げに黙り込んだのち、再び大地に向き直った。
「……あと、ひとつ確かめたいことがある」
プラスチックのフォークを所在無げにいじっていたブレイズは、それをノーモーションで大地に投げつけた。目にも止まらぬ勢いで大地目がけて飛んでいく。
が、大地はそれをたやすく割り箸で挟んで受け止めた。
「親父殿よ。あんた、ただものじゃねえな」
大地が受け止めていなければ、額に突き刺さっていた。いかにプラスチックと言えど、けがをしたかもしれない。
「いやいや、僕なんて一介のしがないサラリーマンでしかないよ。君が警戒するほどの人間じゃない。ただ――」
割り箸で挟んだままのプラスチックのフォークが、ぱきりと割れる。
「ここで乱暴しようっていうなら、僕は容赦しないけどね」
「二飯の恩義がある、地図も提供してくれた。そんな人道に反する真似はしないさ。ただ、気になっただけだよ。もしかして、あたしらをはめてるんじゃないかってな」
「……はめている? 騙すってことかい?」
大地はきょとんとした。神崎家の誰もが、もはや話についていけていない。
「ちょっとブレイズちゃん、落ちついて!」
青ざめた顔でフュリーがブレイズの肩を掴んだ。それを振り払い、ブレイズは続ける。
「悪い。でもな、おかしいと思わないか。墓参りしてたら突然現れた訳の分からんブラックホール。吸いこまれて出てった先には待ち構えてました、とばかりに民間人の家族。そのうち一人はとんでもない手練ときた」
「そこまで褒められると照れるね」
大地は愛想笑いをした。完全に目は笑っていないのだが。
「……こっちのフュリーはともかく、あたしは死んだことになってんだ。色々あって、誰に怨まれても仕方ない人生を歩んでる。ここまで話しておいてなんだが、親父殿よ。あんた誰かの指示や依頼でここにいるわけじゃないんだな?」
「そうだとしたら、どうするのかな?」
大地が大仰に肩をすくめてみる。
一体何を言い出すのか。この挑発するような発言の意図を、誰もが汲みかねている。
「申し訳ないが、自分の尻ぬぐいは自分でしなきゃならない」
気持ち小さめのちゃぶ台の上に沈黙が流れる。
話がまとまらない中であるが、一つだけ明らかなことがあった。
この少女がどこで何をしてきたのかは、誰もが分かりかねる。しかし、きっとそれに後ろめたいことがあって、誰よりもそれを重く受け止めていて。それでも、誰も巻き込みたくはないと思っているのだろう。
優しいんだな、と影一郎は思った。きっと何かやむにやまれぬ理由があることだろう。
それにしたって恐らく神崎家はそれと関係があるはずがない。
影一郎はひとつ溜息をついて、視線で父親を咎めながら言う。
「おい、その辺でいいだろ親父」
「そうだね。僕らは君の害になる存在なんかじゃないよ。それは命に代えて保障しよう」
「そうか、悪かった、攻撃なんてしちまって……この通りだ」
あっさりと否定して手のひらを振る大地。
それにいくらか安心したのか、ふかぶかと頭を下げるブレイズ。大地は破顔した。
「よしてくれよ。別に、気にしてないさ。それはそうと、君たち神奈を頼ってきたんじゃあなかったのかい?」
異世界のくだりはひとまず互いに矛を収めることと相なった。
もともと、”カンナ“の墓石に参っていたところ、同じように突如現れたとのことだった。フローリアと全く同じ状況である。
霊園の後始末や車での二往復、異世界禅問答でてんやわんやして全くその件はいままで忘れられていたのだった。そういえば、といった様子でフュリーが苦笑する。
「……ごたごたしててすっかり忘れてたわね」
「は? まさか今からまた往復すんのか?」
勘弁してくれ、と言わんばかりの水成だが、そこは大地がやんわりと否定する。
「いや、すぐそこに仏壇があるじゃないか。そこでも問題ないと思うけど、どうかな」
大地は二人を仏間に案内した。観音開きの扉を開くと、簡素な仏具が並ぶ。
「特に仏教という訳ではないんだけど、形ばかりでも家に神奈を置いておきたくてね」
「そうか。……参ってもいいか?」
「もちろんだとも」
ブレイズとフュリーは仏壇の前に正座した。静かに目を閉じる。
「花は……用意しようとしたんだけど、来る時に無くしちまった。許してくれ、母さん」
「逢いに来るのが遅れてごめんなさい。でも、ようやく来られたわ。……お母さん」
祈りを捧げる二人。ごたごたと慌ただしくなってしまったが、ここに来た目的だけでも完遂してもらえれば、それに越したことはない。何より神奈が喜ぶだろう。
――。
「ちょっと待て」
影一郎は眉間を押さえて、黙とうする二人を静止した。
全く持って無粋である。無粋であるが、ひとつ確認せねばならないことが増えた。
「水成、命」
「……いや、まさかそこまでは聞いてないぜ」
「うん。フローリアちゃんの便せんと同じものは持ってた。でも――」
フローリアは、匿名の手紙に出生を教えるとだけ書かれた手紙を頼りにやってきた。
手紙に記されていたのはとある女性の墓石で。その墓石が母親なのではという推測を持っていた。この二人も同様である可能性が非常に高い。
「え、カンナはあたしらの母さんだって話だが……」
「ええ」
今更何なのだと言わんばかりに、きょとんとしているブレイズとフュリー。
「……親父」
そして、今度ばかりは年齢の辻褄が合ってしまう。最低限、二人とも神奈の生前に生むことが可能な年齢ではあった。
「異父きょうだい……」
ぽそりと発した水成の言葉に、大地はびくりとする。
神崎家兄弟の冷たい視線が大地を射抜いた。
「ちょっと待って、僕は本当に知らないよ。本当に。本当に!!」