プロローグ3 空から降ってきた少女
「ほんとに好きなだけいてくれていい、むしろいてください」
誰が発したか。水成だったような気がするし、命であったとも思うし、はたまた影一郎や大地だったかもしれない。
ずらりと並んだ”おふくろの味“の前に神崎家が堕ちたのは昨夕の話である。
今朝も同様にサンドッチにサラダにフルーツなど。家庭的なモーニングが振舞われた。
お茶を淹れるのも堂に入っている。スーパーで買ったはずの紅茶なのに、味音痴の水成ですら舌を巻いたほど。
神崎家の家事は分担制である。
母親が亡くなってからは、大地と当時8歳の影一郎が家事全般をやっていたが、水成と命がある程度育ってくると全員で分担するようになった。
のちに、命が率先して家事を引き受けるようになった。それに甘んじず、自分のことは自分で、をモットーに神崎家はある程度の秩序を持ってそれなりに成立していた。
それがこの日、音を立てて陥落したのである。
家事歴は命とフローリア、比較して下手をすれば命のほうが長いというのに。炊事洗濯等々どれを取ってもフローリアのスキルが勝っていた。
命は思い知る。
アマチュアは、プロには敵わないのだと。
「いやいや、命さんは胸を張っていいと思います。わたしは生きるためにプロの仕事を叩き込まれただけですから」
「生きるため……」
並んで食後の皿洗いをしていた影一郎は、初めてフローリアのルーツに関する話を聞いて、少しばかり嬉しく思った。
口を開けば地雷ばかり踏んでいたので、彼女のことを知りたくとも腰が引けていたのだ。
なお命は戦意喪失して洗濯に向かった。
「はい。孤児院からわたしを引き取ったお屋敷で、わたしは色んなことを学びました。そのうちの一つが、こうしたハウスキーパーの真似事です」
「真似事とは」
「資格を持っている訳ではないのです」
そういえば家政士なる資格を小耳にはさんだことがある。そのことだろうかと影一郎は想像する。
……こんなに有能ならそんな小難しいものはいらないのではと思わなくもない。
「それで、まあわたしの話はいいんですけど……その」
フローリアがと遠慮がちに何かを切り出そうとしている。影一郎はすぐに思い至った。
「ああ。親父は今日まで休みだから、いつでも車は出せるぞ。これ洗ったら出るか?」
すると、フローリアの表情がぱあっと明るくなった。
「は、はい。よろしくお願いします」
世話になる立場であるからか、自分からは言えずにいたのだろう。出会って1日しか経たないが、影一郎はなんとなくフローリアの性格の一端を掴めてきた。
なんと奥ゆかしいことか。
その上控え目で穏やかで優しく、家事全般を難なくこなす。
容姿もあどけなさを残しながら、女性らしく美しく成長していく前途を思わせる。いわゆる二次性徴というやつだろうか。
これは将来、きっと男をダメにする。影一郎はよく分からない謎の確信を持った。
「……影一郎さん?」
「大丈夫だ。俺はダメ人間じゃない」
思考が妄想の彼方に突入していた影一郎。はっと我に返ると、フローリアがじっと顔を見つめているので、覚えずどぎまぎする。
というか、今何を口走っただろうか――。影一郎の顔に冷や汗が流れる。
「……男性はちょっとダメなくらいがちょうどいいと思いますけどね。わたしは」
……なんでそんなに顔を見つめて言うのだろう。そんなにダメそうに見えるのだろうか。
よく影が薄いとか昼行燈とか揶揄される影一郎は妙な不安を覚える。
「ごめん、忘れてくれ」
「はあ」
食器洗いもひと段落し、命の洗濯も終わったところで早々に出発と相なった。
5人乗りの普通車にすし詰めになって1時間。車を留め、再び摩敷霊園の門をくぐろうかというところで異様な空気を察知した神崎家一行は立ち止まった。
霊園の上空で、何かが渦を巻いている。近づくにつれ、異様に風が強くなっている。
「なんだ、あれは」
影一郎が空を見上げる。昨日と同じ、雲一つない快晴の青におびただしい亀裂が走り、空が真一文字に裂けていた。
裂けた空間から覗くのは、渦を巻いた黒く禍々しい異空間。掛け値なしのブラックホールのようにも見え、足がすくむ。
風はもはや強風というレベルを超え、熊本をよく通過していく台風のそれと同等のものになりつつあった。
「台風……のようには見えないね。そもそも来てないし」
スマホから目を離して、空を見上げる命。
水成と大地も立ち止まり、一体どうしたらいいのか測りかねているようだった。
そんな中、影一郎はいの一番に走り出した。
未曽有の災害が接近しているのかもしれない。だとすれば、母の墓石が危ない。
一番に駆けつけて、護らなくては。その使命感が影一郎を駆り立てる。
「ちょ、影一郎さん!」
フローリアの静止は耳に入っていなかった。
霊園には幸いにも人はいなかったが、ひどい有様であった。強風によりお供え物や花瓶の花や卒塔婆などが木の葉と一緒に渦を巻いて巻きあがってゆく。
あの異空間は一体どこに繋がっているのだろう。
その先を見ようとしても、禍々しい黒以外には何も見えない。神奈の墓にどうにかたどり着いた影一郎だったが、飛来物が危なっかしくて最早その場で屈んでいるのがやっとだった。まともに目も開けていられなくなる。
その中心部から、何かが放り出された。ような、気がした。
影一郎はなんとか目を細く凝らしていく。人のようにも見える。それも二人。真っ逆さまに霊園に向かって落ちてきているようだ。
しかし、落ちてくるにしては、スローモーションのような。明らかに自由落下のスピードではないような気がしている。
これがたとえば、空から女の子が落ちてくるとかだと、水成が好きそうな漫画やラノベのシチュエーションのようだと思った。
そもそもすでに状況が普通ではない。が、フローリアをすんなり受け入れたように、神崎家という家族は割と普通ではないのでまあ、多分みんなこの展開くらいは普通に受け入れるんだろうなと影一郎は思うのである。
そんなことを考えながらも、相変わらず影一郎は低姿勢で身を守るのに精いっぱいなので、気づかない。真っすぐに、影一郎に向かってそれが落ちてきていることに。
ややあって、暴風をまといながら二人組が霊園に落下してきた。
まさか自分に向かって落下してくるとは露も思わない影一郎。どこか他人事のようにそれを見守っていた。違和感と危機を感じ取ったころには、もはや時は遅かった。
着地際にひときわ激しく風が巻き起こり、最終的には割と緩やかに不時着した。
渦中の二人の少女は、折り重なるように影一郎の上に着地し、そうしてどうにか事なきを得たのである。
「事なきって! どう見ても無事じゃないんだけど!」
影一郎は潰れながら、不平を叫んだ。折り重なった少女のうちの一人が、平謝りする。
「す、すみませんすみません、でも自分ではちょっと軽いほうだと思ってたのよ?」
「あんたがいくら軽かろうが、二人乗ると常識的に考えて重いだろ!」
「ったく甲斐性のない。男なら女二人くらい片腕で持ち上げてみせろよ」
一番上に絶妙な体制で着地した赤髪の少女は、軽い身のこなしでひょいと地上に降り立った。悠々と不遜な態度で無茶ぶりをする。
「本当にすみません……私の力不足のせいです。今すぐ退きます」
申し訳なさそうに緑髪の少女が身体を起こそうとした。
「た、頼む。重いのもそうなんだが色々あってとにかく迅速に頼む」
昨日も同じことがあって同じことを言ったなとげんなりする影一郎。
――と、その時である。
上空からまた何か降ってきた。それは、赤髪の少女が携えていた杖であった。
「おっと危ねえ。よっと――あっ」
こともなく赤髪の少女はそれをキャッチしようとして、なんと失敗した。
不幸かな、手から滑ったそれは、いまだ押し倒されている色男・神崎影一郎の頭にクリーンヒットしたのである。
「おうっ」
間抜けな声をあげて影一郎は白目をむいた。腹上死ならぬ腹下死である。
「あ……やっちまったわ」
「せっかく被害なく着地できたのに何してるのよ!?」
「被害……ないと思うか?」
赤髪の少女が遠い目をして辺りを見回した。
「私、戦場跡で拾われた時のことを思い出したわ。覚えてないんだけど」
「すっげえ笑えない冗談だからな、それ」
やおら緑髪の少女は立ち上がり、どう収拾をつけたかどう逃げようかと現実逃避を始めた。集合墓地であった霊園は大規模な台風が過ぎ去ったあとのように荒れ放題だった。
枝は折れ、木は無残な姿で横たわっている。葉っぱやらゴミやらお供え物が縦横無尽に散らばっていた。大惨事そのものである。
いつの間にか、空を切り裂いていた異空間は姿形もなく消え去っている。
空を見上げて、墓地を眺めて。溜息をついた二人のもとに、神崎家の面々がやってきた。
まず荒れた霊園に面食らい、次に倒れた影一郎を確認すると、まっすぐ走ってくる。
「こりゃあ、とんずらこくわけにもいかなくなったな」
青ざめる緑髪の少女の傍ら、赤髪の少女はのんきに笑った。