いつかの始まり
激動の一日であった。これ以上に目まぐるしい状況を、アストラ・レイヴァンスは今に至るまでのいかなる戦場でも経験したことがなかった。
地平線の彼方に、黄金色の光が顔を覗かせつつある。
夜が明ける。
セントアリアの孤児院を抜け、墓地を抜け。少し歩いた先にある岬の先端。切り立った崖を背に、カンナが立っている。
傍らには二歳になる子供、シェダがおぼつかない足取りで立ち、まとわりついている。
昨夜、カンナの頼みで一も二もなく聖石を盗んだ。聖石を盗むなどまずどのような一流の盗賊でもなし得ない無茶ぶりなのだが、カンナの常識を超越した魔術によってあっさりと、アストラとカンナの顔を誰にも知られずに成し遂げたのである。
それから夜通し、アストラ自身が馬車を駆って出来るだけグローリー王国首都から遠ざかった。制限時間は日の出まで。そうしてやってきたのがこのセントアリアの岬である。
夜明け前だというのに起きていて祈りを捧げていた孤児院のシスターは、突如押しかけてきたカンナの、岬に行きたいという懇願に何も言わずに笑顔でこたえた。
アスロック大陸南西部、最南端。カンナはここを世界の終わりにするつもりなのだろう。
先ほど、シスターに簡素な墓石を建てて欲しいと依頼していた。
身投げと思われたか、シスターはカンナを止めようとしていたが。やんわりと否定したカンナの説得に納得したのか、すんなりと応じていたようである。
そうして岬に立って二人見つめ合い、どれだけの時間が経っただろう。
「……時間です。そろそろ行かないと」
カンナは寂しそうに。けれど努めて明るく振舞っていた。
「アストラさん。ありがとうございました。なんとお礼を言っていいか」
「……礼が欲しくて、やったわけじゃない」
聖石を盗むのは、カンナ一人でもなし得なかった。グローリー王城の内部に通じた誰かの協力が不可欠だったのだ。
カンナは微笑む。ただ真っすぐに、アストラの目を見つめて離さない。
「あなたは、そういう人でしたね」
「やめてくれよ、その目。俺を買いかぶらないでくれ」
朝日が昇り始めた。まばゆい後光に照らしだされたカンナは少し笑って、アストラに近づいていく。
「そろそろ、あなたはグローリーに帰らないと。聖石を盗んだ犯人の顔はまだ割れていません。ですが、あなたがいなくなったとなれば嫌疑がかけられてしまうかもしれない」
「確かにそうだ」
「私の魔術で、あなたをグローリーに転移させます。空間転移は正直言ってまったく得意ではないのですが、グローリー王国首都のどこかにはたどり着くはずです」
「おおざっぱだな。神様なのに」
アストラの手を握るカンナ。その手に魔力が込められていく。
「……もう、管理者ではありません。この身体はもとより正式な器ではないので、通常よりリミットが短いのです。この朝日を迎えた瞬間から、私の身体は人間そのものになりつつあります」
管理者が人間界に降りるためには、人の器に神の魂を積み込み、仮初めの人間として成立することが必須だとカンナは言った。
活動時間には限界があり、それを超えると器に魂が馴染み切ってしまい、人間そのものになってしまう。そうしてアトナは神から人間になったのだ。
そして、カンナも。
「いいんです。そんな顔をしないで。私は親友のためになんて言うつもりはありません。アトナの代わりに、この子の親になると決めただけです」
「…………」
アストラは言葉に詰まる。
言いたいことは決まっていた。言葉は用意してある。でも、声を振り絞る機構が錆びついて、軋んで、思うように動いてくれない。
「では、さようなら。アトナのために尽力してくださって、ありがとうござ――」
これを言わせたら終わりだと感じたアストラは、手を振り払った。カンナの目が見開かれる。「なぜ――」
「違う、俺を買いかぶるなと言っているんだ! ……俺は、アトナさんのために聖石を盗んだわけじゃない」
「……アストラさん」
「俺だって、俺の親友のためになんて綺麗ごとを言うつもりはない。エヴァンの代わりに、出来ることをやっただけだ」
そこまで聞き届けて、カンナはぷっと噴き出して笑った。
「……なんだ。似てますね、私たち」
「そう、かな」
「そうですよ。お互いの親友と、その子供のためにあんな無茶をして」
腹を抱えて、目じりに涙を浮かべてカンナは笑っている。何がそんなにおかしいのだろうか。――いや、何が、そんなに嬉しいのだろうか。
「確かに。たいへんよく似たバカ二人だよ」
「言えてます」
浮かんだ涙を指先で拭って、カンナは呼吸を整えた。
「でも、それも建前なんだ」
「はい?」
「君が好きだ」
「――――。」
一体何を。とでも言いたげであった。
完全に面食らって、カンナは停止している。
「愛している」
「! ちょ、い、一体何を言い出すのですっ、どうして」
顔を真っ赤にして、きゅっと握った手を胸に当てて後ずさるカンナ。シェダは何事かといった様子でカンナを見ていた。
二歳の子供に愛の言葉など分かるはずもない。アストラは続ける。
「それに、君がシェダの親として地球で一人でやっていく覚悟があるというのは分かった」
「は、はあ……」
「でも、親は……まあ、事情がない限りは二人必要だろう?」
「……優しいんですね。でも、あなたが人生を棒に振る必要は」
まだ分かってくれないのか。アストラは溜息をついた。
「棒に振るなんて言うな。君も俺も、ここが終わりなんかじゃない。ここが始まりだ。ここから、三人で、全てを始めよう」
「は……」
そう言って、一度は振り払ったカンナの手を握るアストラ。とうとう、何かの堰が切ったようにカンナの顔がぐしゃりと歪んだ。べしゃりと座り込み、涙をぼろぼろと流し、嗚咽を漏らして泣き始める。
「っ……ほんとは、こわい、です」
「ああ」
「管理者を、捨てることもっ……異世界、で、人間として生きること、も……っ」
「ああ」
「何もかも、初めてでっ……ぐすっ、心細かったんですっ!」
朝日に照らし出された輝く涙を、アストラは綺麗だと思った。
思えば、あの時が始まりだった。
アテネシア暦701年から三年間続いた戦争の最中に、アストラの親友であるエヴァンは殉職した。
凱旋の日、アストラは口汚く罵られる覚悟を持ってエヴァンの家に報告に向かったのであった。
そこに親友の妻はすでにおらず。親友の妻の親友――このカンナが子供を抱きしめていたのである。
アストラがエヴァンの殉職を告げると、カンナは泣いた。今と同じように、嗚咽を漏らして、大粒の涙をぼろぼろとこぼして。子供のように泣いていた。
不謹慎極まりないが。その涙を、アストラは美しいと思ったのだ。
カンナにとっていくら親友とはいえ、アトナは他人だ。他人のためになりふり構わずに涙を流すカンナを見て、アストラはどうしようもなく惹かれたのである。
やられた、と思った。
アストラはエヴァンが殉職した時、ただ気を失って一線から退いていた。
ただ消沈して自らを責めるばかりだったアストラには、その涙はあまりにも眩しすぎた。
神と交わって産み落とされた子供が罰によって間引かれると知ったカンナは、子を連れて管理者の手が届かない異世界に逃げると言った。
アストラはなんでもしようと思った。
エヴァンに報いるため。アトナのために献身するカンナの力になろうと決めた。
朝日が昇り始めた。佇むエヴァンとアトナと、子供の三人。
まばゆい光の中に異世界へ繋がる異空間が出現した。聖石を手にしたカンナの目は、まだ腫れぼったい。
「これがゲートです。……その」
「うん?」
紅潮した顔で、カンナはアストラを見つめた。
「これから、よろしくお願いします」
その笑顔に、アストラもまた自身最高の笑顔でこたえる。
「こちらこそよろしく頼むよ」
いつかの始まりはここから。固く手を繋いだ三人は、臆することなく異世界へ飛び立っていった。
ここでいったん終わりです。読んでくださった方はありがとうございました。
もともと他の賞に出してたものを改稿しまくった結果1.6倍くらいになったのがこのテキスト量です。
なのでHJ大賞に投稿という形にはしていますがまあ規定外でしょうね(´∀` )
とにかく書き残した分をどうにかしたいと思って投稿しました。
ここからは7人家族となった神崎家の物語の予定ではありますが、続きをどうするかは未定です。
一か月後くらいにひょっこり現れるかもしれません。




