エピローグ 今一度ここから
地上界生活日誌 その51
アテネシア暦704年6月9日 快晴
今更だが、アトナの日記を全部読んだ。
やるせない。ほかに、私が出来ることはなかったのか……。
もういい。
クソくらえだ。
私の親友と、その子供にちっとも優しくない神界など、知ったことじゃない。
もっと大事なことがある。
上から見下ろすだけのお役所仕事じゃあ分かりっこない。クソくらえだ!
ディーアのばか。あなたにとっても、アトナは親友じゃなかったの……?
――いいや。きっと私がだいぶ人間寄りになってしまっているのだ。
ディーアは悪くない。彼は、あくまで役目を果たそうとしただけだ。
明日、この子を連れて異世界へ逃げる。
この世界で生きちゃいけないのなら、別の世界に行く。簡単なこと。
ユーフェリアと地球では魂の管轄が違う。管理者は地球には簡単に介入できないだろう。
だからこそだ。
エヴァンの親友であるアストラさんが、協力してくれることになった。
親友の忘れ形見のために、平然と国宝を盗むと言ってくれた。
素敵な人だと思う。できることなら――。
……でも、迷惑はかけられない。
最低限、その先は私一人でやらないと。
エヴァンさんが帰らなかったあの日から、私の心はもう決まっている。
涙などとうに枯れた。
※
熊本県の、そこそこ大きい市民病院に大地と影一郎は二人仲良く入院していた。
そもそも二人とも意識不明の重体であり、仲良くというには語弊のある表現ではあるが。
影一郎が受けた傷は、その時フュリーの回復にほぼ魔力を使い切っていた命には完全に治すことはできなかった。気を失って昏睡している大地と共に、地球に帰って早々に入院を余儀なくされる。
影一郎の背中の傷は深く、命の治療もアテにできないということで緊急手術となった。
手術が終わったのち、一日眠って影一郎は目を覚ます。
魔力がすっからかんになって地球に戻った命は、翌朝高熱を出した。
はじめて地球に来た時のブレイズやフュリーよろしく、激しい頭痛と鉛のように重い身体に40℃に迫る高熱という三重苦に責め立てられ、命まであわや入院騒ぎとなりかけた。
が、神崎家の近所にある小さな病院で、一日点滴を打った程度でどうにか済んだのだが。
その全快した命ですら、何をやっても大地の快復には至らず、眠らせておくほかに対処方法が見つからなかった。気をもんだ兄弟と三人娘だったが、大事には至らなかった。
大地は丸三日眠って、ようやく目を覚ましたのである。
影一郎はともかくとして、大地は病状も不明なので栄養剤の点滴以外にうかつに触ることも出来ずに、医者は処置にあぐねていたのだった。
特にそれから身体に異常も見られなかった大地が先に退院し、影一郎を残すこととなる。申し訳のなさそうなその顔に、影一郎はただ一言「いいよ」と声をかけて、笑った。
大地の元には、会社の同僚、あるいは部下や上司と思われる人間がたびたび見舞いに訪れていた。便宜的に、家族旅行の最中に不慮の事故に見舞われたということになっているらしい。仕事の遅れを取り戻すのに、あるいは増えた家族を養っていくため、これから大地は忙しくなるだろう。
フュリーも万全の調子には戻らず、二日ほどは少しばかり熱を出して神崎家の自室で安静にしていた。それでも大地の見舞いに行こうとするので、水成やブレイズがずっと見張っていたのである。
フローリアは見舞いのほか、全員のケアと家事などに終始追われていたが、疲れた様子はなく。むしろどこか活き活きとしていたようにすら見えたという。
神崎家は実に慌ただしい夏休み後半を過ごした。
「お邪魔します」
影一郎の病室に、一人の見舞い客がやってきた。はるばる隣の県から、見舞いのために現れたのは朱鷺宮カナだった。控えめな三度のノックに影一郎が答えると、しずしずと入ってくる。そんなにかしこまらなくてもいいのにと影一郎は苦笑した。
「ご無沙汰してます」
影一郎は身体を起こした。手術してから、身動き一つ取れない日々を送っていたが、最近は命がやってきては少しずつ魔術による治療を行っているので、だいぶ影一郎の調子は良い。医者はありえない回復速度だと驚いているが。
後遺症は見受けられないものの、背中には傷跡が一生残るだろう。
背中の傷は逃げ傷であり恥であると言うが、影一郎はむしろ父親を護った勲章としてそれを一生大事にするつもりでいる。
「ごめんね、来るのが遅くなって。はいこれ、お見舞い」
微笑んで、細腕に下げたバスケットに詰まった果物を見せた。見舞いには定番である。
「なにか、食べる?」
「じゃあリンゴでも……」
「うん」
二つ返事でどこからともなく果物包丁を取り出し、ベッドの傍らの椅子に腰かけると、手慣れた手つきでリンゴの皮をむき始める。
何を話したものか。影一郎は戸惑った。まさか異世界での大立ち回りを話すわけにもいくまい。この大けがでそんな世迷言を言い出したら、間違いなく怒られる。
そうして何かに窮している影一郎を見て、カナは何かを察したように言った。
「いいよ。無理に話さなくても」
「……すみません」
「いつか、ちゃんと話してくれたら嬉しいな」
胸が詰まる。影一郎はいつもこの人に助けられてばかりだった。
穏やかな風が病室を吹き抜けた。少しだけ、夏の暑さも涼やかに変わりつつある。この夏の経験は、影一郎がくすぶっていた随分と長い停滞を打ち破るものとなった。
与えられてばかりではいけない。そして、今の自分ならばきちんとした形で返すことが出来るのではないか。影一郎はそういう風に思った。
これからは、ちゃんと親孝行しよう。
この人からも、ちゃんと自立しなくては。
影一郎の人生は、今一度ここに意味を持った。
*
セントアリアの孤児院にほうほうの体でたどり着いた時。この状態で再度襲撃を受けようものならひとたまりもないと、流石に警戒した。
警戒はしかし、杞憂に終わった。孤児院に潜伏していた兵はすでに引き払っていた。聞けば、それこそがスパイダーの部隊の兵士であり、あの地下牢広間での戦いにすべて投入されていたのだ。後釜がそこに入ることもなく、無事に神崎家は地球に戻ることができた。
十八年の歳月は、風化した指名手配犯をただちに捕らえるにはいくらか長すぎた。膨れ上がった褒賞もまた、スパイダーのように独占を狙う単独行動を誘発した。ようやく統率を取って動き出した頃には、再びおめおめと逃げおおせられているということである。
帰りしな、孤児院の院長であるエレインに三人娘は呼び止められた。
「どこへ行くのかは聞かないわ。――元気でね、私の子供たち」
三人とも、過去にこの孤児院で生活していた頃があった。
ここで過ごした期間は各々違うものの、三人とも共通して、エレインを母親のように思っていた。
抱擁を交わしたのち、そこに残ったのは別れの寂寥感ではなく、笑顔だった。
「ひとつ、聞いていいですか」
フローリアが訊ねた。エレインは笑顔でこたえる。
「なんでも答えるわ」
「カンナさんは、どのような人だったんですか?」
その問いに、エレインは目を伏せた。水成に背負われた大地に目を向け、命に背負われた影一郎を見て。在りし日を思い出すように、穏やかに語る。
「とても優しい、慈母のような女性だったわ。確か、二歳になったばかりの子供の手を引いて微笑みを浮かべるさまは、そういう風に見えたのよね。年下なのに」
その子供は恐らく影一郎なのだろう。
「まさか、今になってカンナの子供と出会えるとは思っていなかったわ」
目じりに浮かんだ涙をぬぐい、エレインは心から嬉しそうに言った。慌ただしくして、地球からここまでやってきたのに、今までろくに挨拶もしなかったことが悔やまれた。
「……その、なぜ、カンナさんの墓石がここに?」
カンナは神崎神奈となり、地球で暮らしていた。ここに墓石がある意味がないのである。
フローリアの問いかけをしかし、エレインはきっぱりと否定した。
「本人にお願いされてね。彼女自身が死んだ訳じゃないけれど、カンナはここで亡くなった。その後、どこの誰として生活していたかは私は存じ上げないことだけど」
つまりは、全ては親友の子を護るため。ユーフェリアでほんの少しだけ人間として生活した実績のあるカンナをここで抹消したのである。
「親父の墓石が立ってないのは、迷惑をかけないためだろうな」
「……多分、ね」
それに比較して、アストラ・レイヴァンスは行方不明とされていた。疑わしきは罰せよということか、痕跡があろうとなかろうと調査の手は伸びていたのだが。もしもアストラの手がかりがここにあれば、この孤児院は今頃機能していなかっただろう。
諜報員の手が伸びはしたものの、十八年の間は本当に穏やかに過ごしていたのだという。
エレインに見送られて、裏手の花畑を抜ける。海を一望する岬に墓石が立ち並んでおり、その集団からやや離れて、神奈の墓石が立っていた。
一行はそこに立つ。
――アストラ・レイヴァンスもまた、ここで亡くなったのだ。
ここで神崎神奈と神崎大地。そして神崎影一郎という三人の家族が始まった。
全ては、ここから。
始まりの場所に立つ七人は、不思議な縁を感じている。
「結局、あたしとフュリーの親は分からずじまいだな」
「……カンナさんだったら、良かったわね」
そんな二人にも、大地は神奈との縁を見出した。今はそれがどのような縁であるのかは分からない。少なくとも、眠ったままの大地が起きるまでは問いただすことが出来ない。
けれど、ほかならぬ大地が確かに与えてくれたのだ。今はそれでいい。
「別に、オレらは構わないから」
「うん。父さんがいいって言ったんだから。もう他人じゃないんだよ」
その心中を察して、水成と命は穏やかに言った。
「ああ。その、なんだ。……よろしくな」
少し照れた様子で頭をかきながら、ブレイズはにっと笑った。
「ありがとう。お世話になります」
ぺこりと、帽子を取って丁寧にフュリーはお辞儀をした。
「家事は任せてください!」
フローリアはぐっと両こぶしを握って力強く答えた。
また、ここから家族が始まる。いつかのリフレインのように。かつて、大地がそうしたように。
どこか満足そうに。カンナの墓石はただ、その様子を見守っていた。
*
ゲートが閉じていく。
いっそ清々しいほど小ぎれいで正確な出力の、見本とも言えるようなゲートを用いて、神崎家の七人は異世界へといざなわれていった。
その上空に、ひとり。どのような魔術なのか、世界のどのような影響も彼をすり抜けているかのように、不自然に静止して宙に浮かんでいた、ひとりの男がいた。
長い銀髪。銀の瞳。法衣ともまた違う無垢な白の正装を思わせる出で立ち。
「やれやれ。一時はどうなるかと思ったが――」
男は人間にあらず。管理者と呼ばれる、神の御使いたる存在である。
彼はこの場所でひとつの家族を見送ると、一仕事終えたといったように大仰に肩をすくめてみせた。嘲笑ともとれる笑みを浮かべて、目を閉じる。
「これでいいんだろう、カンナ。お前の遺言、確かに完遂したぞ」
彼――ディーアと呼ばれる管理者は、地球で交わしたカンナとの一方的な遺言を思い起こしていた。
――二人を連れて行くのは構わない。でも、子供が成長して、もしも私を求めるようになったら、その時は力になってあげてほしい。
思い起こせば無茶な要求であった。娘を二人回収したのは、ほかならぬ神の思し召しである。地球で生まれた二人の女児に、とんでもない異常な魔力指数をキャッチしたのだ。
地球で生きるには魔力の素質がありすぎた。異例中の異例。極めて特異な異分子だったのだ。でなければ管理者が地球に干渉などできようもない。
管理者の中で唯一、地球とユーフェリア間の干渉を認められたディーアは、異例中の異例であるその任を担うことになった。再び友の子を奪わねばならぬ皮肉を、ディーアは二つ返事で受けた。
そういう仕事だから、どうしようもないのである。神に逆らえるはずもない。ディーアには二人の友がいたが、そのどちらも人間と交わって堕天した。
その上ディーアまでもが人間に肩入れする訳にはいかなかった。――神崎大地の、ありえない力による抵抗により、ゲートの時空に乱れが生じはしたものの。
しっかり子供を回収し、魔力の根源を根こそぎ奪ってからユーフェリアに送った。それでディーアの任務は完了した。
回収した子供と、神崎の子供の記憶を消したのはせめてもの情けだった。だというのに、頑なに神崎大地はそれを拒絶した。よもや、その結果がこのようになろうとは。
ともあれ、ディーアにできるのはここまでだ。
きっと、自分は裁きを受けるのだろう。二度もこの世界で強引にゲートを開いたのだから。
「……いいのだ、これで」
炎の病院で、気絶した子供を抱いて泣きながらに訴えかけるカンナのことを思い出す。
またしてもばかと罵られた。なぜだか、人間のように胸が締め付けられた。
これはディーアなりの清算である。アトナとカンナに対する、せめてもの。
「少しでも、友に報いることができたのなら、それでいい」
カンナの墓石を見下ろして、ディーアは言った。
男がいたと思われた上空には何もいなくなった。
※
ユーフェリアで神崎家が合流した日のこと。日の暮れたアーリアの宿。共用トイレの洗面台で、鏡を見つめているフローリア。
――アトナの生まれ変わりである。
方々で呼ばれたその名と、妙にしっくりと来た、自分自身の違和感。
レナードの前で、聖石の入った棺を開けた時の感覚。聖石を用いてゲートを開く魔術の感覚に非常に酷似した、何か特別な力。
そのどれもが、フローリアがアトナという神の生まれ変わりなのだと雄弁に語っていた。
過去に聖石を使って魔術を振るった魔術師など、存在しない。聖石という存在が全土に認められているユーフェリアにあって、それは常識である。キースセインの屋敷で、一般常識として学んだことでもあるし、過去に聖石をどうにか使おうとして、結果どうにもならなかったという結論を打ち出した国もある。歴史上の真実だ。
真実を自分自身が覆したという要因は、”それ“を認めるにあたって非常に大きな要因である。だが、些細なことでしかない。
自分でも不思議に思っていた。この短期間で、影一郎という存在が自分の中で大きくなりすぎていることに。
なぜ、影一郎のことがこんなに気になるのか。
なぜ、影一郎の世話を焼きたくて仕方ないのか。
なぜ、影一郎をずっと見ていたいと思うのか。
――なぜ、影一郎という存在そのものに愛を感じるのか。
同情? 孤独だった自分を、そこに見たから? それだけの理由なのか?
果たしてその疑問は、今、ゆっくりと溶けようとしている。
「わたしが、アトナだったから……?」
産みの親だからとなれば、自身が抱く感情に対する疑問の何もかもが腑に落ちていく。
前世の記憶など、ない。あるはずもない。
しかし。しかしだ。影一郎に向けたこの感情は日に日に大きくなる一方だ。
初恋かもしれないと思っていた。――しかしだ。
「この気持ちは、いったいどこからきたの……?」
自分自身が分からない。この感情が自分のものなのか。アトナのものなのか。
鏡を見つめる。映るのは、自分自身に違いない。違いないのに、これにうり二つだというアトナが確かに過去に存在していたのだ。
フローリアは、鏡を見ることが出来なくなった。俯いて、排水口に流れる水をぼうっと見つめている。
「こわい」
自分が自分でないようで、恐ろしかった。
「こわいよ……」
何よりも恐ろしいことがある。
「こわいよ……影一郎さん……っ」
影一郎へ向けた、温かな思いがウソであることを認めるのが、何よりも恐ろしい。
こわい。こわいこわいこわいこわい。恐ろしい。どうすればいい。
今一度考える。自分とは何だったのか。どういう存在だったのか。
――自分を捨て去ることなど、できない。
――アトナを捨て去ることなど、できない。
だって、そのどちらも自分なのだから。理屈や経緯は分からないが、そうあったから今の自分があることには他ならない。
であれば、戦うしかないと思った。
顔を上げる。映るのは、見慣れた自分の顔だ。
「あげない」
アトナの顔かもしれない。それでもいいと思った。それでも、いい。
「あなたには、この気持ちだけはあげられない」
今の自分に一番大切なのは、この気持ちだった。これさえあれば、フローリアはフローリアでいられる。
「……そうよ。だってあなたのそれは、母親としての愛情でしょう。――ふ」
考えてみればそうだ。単純なことである。最初から恐れることなどなかったのだ。
フローリアの顔にはもう、恐怖など微塵も浮かんでいなかった。
「あなたとは違う。だって、わたしの感情は……――」
鏡の中のアトナに、そう宣戦布告をした。
確かに始まりは、アトナの魂がもたらした母性の影響なのかもしれない。
今は違うと、はっきり言える。短い期間だが、この気持ちを育てたのは自分なのだから。
「……感謝します。あなたのおかげで、影一郎さんとの縁ができたのだから」
フローリアに届いた謎の書状。
差出人はいまだ不明であるが、内容の謎は解けた。
出生の詳細とはきっとこのことだろう。ヴェルダンの街に行った程度では他人の空似で終わっていたことである。それにしたって、回りくどいことをさせるものだ。
「それにしても、恥ずかしい。何やってるの、わたしは……」
我に返ったフローリアは、自らの台詞を思い出して赤面する。
冷水で顔の熱を冷ます。気持ちを新たにしたフローリアの顔に、もはや迷いなどあるはずがなかった。




