プロローグ2 異世界からやってきた少女
うだるような夏場にあって地獄に少し近い島、九州のド真ん中、8月初頭。まだまだこれからも暑さが粘っこく続いていくことを思わせる三十五℃の日差し。
「あっちぃ……」
夏用の礼服に身を包んだ神崎影一郎は、恨めしく空を見上げた。
雲一つない快晴。空の青を遮るものはなにもなく、午前中なのに日差しが容赦ない。
腕で額の汗を適当に拭うと、眼前の墓石に再び向き合った。
影一郎は一人、熊本県の郊外にある某霊園に来ていた。
今年は母の十三回忌であるが、特に親戚のいない神崎家の法事は例年、家族四人で行われている。墓参りののち、いつも通り簡素に済ませて終わるのだろう。
今日この日、母親の命日には決まって家族全員が集まることを決めている。影一郎は県外に安アパートを借りて大学に通っているため、墓石のある霊園に現地集合となっていた。
たまたま野暮用があるとかで父親以下弟二人は少々遅れるとのことで、早めに到着した長男であるところの影一郎は我先にと母の墓石を掃除していたのである。
腕まくりをして作業を続ける影一郎だったが、一抹の違和感を覚えて辺りを見回す。
参拝客ははっきり言って皆無だった。何せシーズンにはまだ早い。神崎家の墓参りが早いのは、たまたま今日この日が母の命日であるだけの話である。
墓石が立ち並ぶ霊園。人は自分一人。覚えず何やらうすら寒いものを感じた影一郎はかぶりを振って自分に言い聞かせる。
「こんな昼間っから幽霊なんてある訳ないだろ。気のせい気のせい――」
――パチッ
清掃の続きを始めるべく墓石の前に屈んだ影一郎は、何かの音を聞いた。
放電のような音。それも一度や二度ではなかった。
――パチッ、パチパチ、バチッ
「……」
それも何やら、今磨いている墓石の上の方で。
ちょっと家の事情が特別なため影一郎はオカルトには理解があるほうではあるが、こと心霊現象のほうはさっぱりである。
しかしこれは心霊というよりはプラズマ……。
そろりと上を見上げた影一郎は面食らった。青天の霹靂のように、静かにそれは佇んでいた。小さな空間の亀裂という表現がしっくりくる。亀裂が走ったように空間が裂け、ぱっくりと黒いブラックホールのような異空間が覗いている。
身長180cmほどはある影一郎が少しばかり見上げるほどの位置に。それも徐々に裂け目が大きく、それだけ異空間の規模は増しているように見える。
「冗談だろ……! 一体何が起こるっていうんだ!?」
しかも、母の墓石の真上で。
影一郎としては墓石に被害が及ぶことは断固避けたい。
マザコンというわけではないが、影一郎にとっての母親は特別大きな存在である。たとえ墓石になろうとも。
異空間を見上げて睨みつける。気のせいか、少しばかり風が出てきたようだ。
そして、そんな何に対してかも定かでない警戒をあざ笑うように、現実は影一郎の予想の斜め上を彼方に突き抜けていくこととなった。
「へっ」
「えっ……!?」
お見合い。
空間の裂け目からぽん、と現れたのは、少女。あまり年端のゆかない、あどけない風貌の少女だった。緩やかなウェーブの、淡い桃色を放つ異彩の髪に影一郎の目は奪われる。
とまあそこまでだった。中空に投げ出された少女と、影一郎のお見合いはその刹那に交わされて。あとは重力の自然作用によってコトは進んだ。
少女は影一郎めがけて落下した。とっさに避けようとして、ぎりぎりで思い直した影一郎は受け止めることを選択した。なんとか少女の小さい身体をキャッチし、そのままかばうように背面から倒れていく。
頭を打たないように器用に倒れ込んだ影一郎の上で、少女は慌てて身を起こした。
「ご、ごめんなさい、大丈夫です!?」
「この通り、なんとか」
とっさの判断にしては上手くいったと、サムズアップする影一郎。少女はほっと胸を撫でおろした様子で、なおも謝罪を続けた。
「ほんとにごめんなさいです。その、わたしもなんでこんなことになってるのか」
「それはうん、悪気はないってのは分かるけど、とりあえず降りよう」
危機を脱したら脱したで、少女の重みがやけに生々しく感じられた。我に返った様子の少女は、顔を赤くしてそそくさと影一郎の上から離脱した。
「……あの、繰り返しごめんなさい。重かったですよね」
「いや、軽かったよ、うん。もうその話はいいんだ」
……影一郎はマザコンというわけではないし、ロリコンという訳でもない。閑話休題。
影一郎が土ぼこりを払って立ち上がると、墓石の上に発生していた空間の裂け目は綺麗さっぱりなくなっていた。
「何だったんだ、今のは」
まるで最初から何もなかったかのように、空は快晴の様相である。
改めて少女を見る。黄土色の外套のようなものは旅装束だろうか。その下にちらりと見て取れたのは、歩きやすそうなブーツに短めのスカート。どこか浮世離れしたアンバランスな印象を受ける。
「気づいた時にはあの空間に吸い込まれていて……。何がなにやらです」
「そうか、災難だったな」
「そうです、災難です」
どこか他人事のように、二人して愛想笑いをした。
「ところで、ここはどこなんです? わたしがさっきまでいた場所とはお墓くらいしか共通点がなくて……」
少女はそわそわした様子で辺りをを見回した。影一郎は、あの空間の亀裂がどこか別の場所とここを繋いでいたのだろうかとなんとなく察する。
「ここは熊本の摩敷霊園だよ。きみはさっきまでどこにいたんだ?」
影一郎が言うと、少女はきょとんとした。
「……え? く、くま?」
別段滑舌に問題のないところの影一郎は、もう幾度か同じことを繰り返した。
しかし少女の頭上には疑問符がいくつも浮かび上がるばかりで、一向に要領を得ない。
「聞いたことのない場所です」
「そうか。やたら流暢な日本語を喋ってるから日本人かと思ったけど、髪とか目の色もだし……海外もあり得るか、うん」
「うーん……?」
何に対してなのか、少女は強い戸惑いを表情に示している様子である。
「まあいいや。もうすぐ親父たちも来るし、墓参りが終わったらすぐ帰るし。よかったら、うちに来てお茶でも飲む?」
「いいんです?」
「こんなところで立ち往生もなんだしな」
影一郎は墓石の掃除を再開した。とは言えもうほとんど終わっており、あとは拭き上げて供え物の整理をするだけだ。
「あなたも、お墓参りだったんですね」
「そういえばさっき、君も墓がどうとか言ってたな」
「はい。わたしの母親……とおぼしき人の墓石の前に立ってました」
「おぼしきって。母親じゃないのか?」
「……孤児なので。そうとしか言えないというか」
目を伏せる少女の様子に、まずいと影一郎は思った。覚えず地雷に足がかかっていた。
「ご、ごめん」
影一郎が謝ると、少女はきょとんした顔で小首をかしげた。
「はい? ……ああ、いいんですよ。気にしないでください」
苦笑して、手をひらひらと振って。柔らかな笑顔を浮かべた少女は言った。
「優しいんですね」
そんな表情を向けられるとは思わず、影一郎はどきりとする。
「……そんなことは、ない」
現にこうして、ひとりで墓石を磨いている。どうにも家族とはすれ違ってばかりだ。本当に優しい心を持っていれば、もっとうまくやれるのにと影一郎は自嘲気味に吐き捨てる。
「もっと心穏やかにありたいもんだ」
「穏やかに見えますよ。少なくとも、お墓を手入れしているあなたは、とても穏やかです」
心を見透かされていると錯覚した。出会ったばかりだと言うのに。
変わらず浮かべている、日だまりのような笑顔を影一郎は見つめた。この少女は一体。
「兄貴が女の子連れ込んでる」
「兄さん……」
見つめ合う二人の傍らにいつから立っていたのか。二人組の少年がいた。
学生服のものであろうワイシャツに身を包んだ二人組。片や影一郎に迫るかという上背の、穏やかな物腰をした青年になりつつある少年。片や中肉中背の、くせっ毛の目立つツンツン頭をしたガラの悪そうな少年。
神崎家次男・神崎命(みこと)と三男・神崎水成(|みなせ)その二人である。
命は引きつった笑顔を、水成は面白そうな笑顔を浮かべていた。
「連れ込んでるってお前人聞きの悪い。そもそも霊園に連れ込んでどうする」
「人のいない時間を狙ったんだろ? 分かってるよ、皆まで言うな! しかし兄貴がそういう趣味だとは露知らず」
「どういう趣味なんです?」
「やめようね!」
なぜか乗っかってきた少女に突っ込みを入れつつ、影一郎は悪ノリしてきた弟を諫めた。
そこでふと、もう一人この場にいるべき人物の不在に気づく。
「……親父は?」
「いや、父さんはとっくに着いてるはずだけど。おれたちコンビニに寄ってきただけだから――」
そう言いつつ辺りを見回す命ははっと何かに気づいた。
同じ列のちょっと離れた墓の影に、人影が見える。何かを目撃した家政婦のように半分だけ顔を覗かせてこちらを伺っている世にも怪しい中年(40)がいた。
その不審者を確認した影一郎。ずんずんと歩いていって中年の首根っこを掴みあげる。メガネがずり、と落ちた。
「親父……いつからそこにいた」
「……影一郎くんがあの女の子を押し倒していたとこからかな」
メガネをくいっと上げて、なぜかふいっと顔を背けて。父・神崎大地はそう言い放った。
押しも押されぬ冤罪である。
「やっぱりロリコンじゃねーか!」
「違う! 逆!」
「兄さん。逆も逆でどうかと」
「あっ」
「……」
俯いて顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている少女がいた。
なんという辱めだろうか。神崎家四人の連携プレーにより、少女の自尊心は砕かれつつある。
「い、いいんです。事実ですから……」
「よくないわ! お前らそこになおれ!」
炎天下の下、やいのやいのと騒ぎ立てる神崎家。
墓石になって佇む神崎家の母は、そんな家族を静かに見守っていた。
*
多少は街中寄りにある住宅街に静かにたたずむ、日本家屋の神崎家。
簡素に法事を終え、居間のちゃぶ台に集まった五人は改めて少女の身の上について聞いていた。
フローリア・フローライト。
それが少女の名である。
年の頃は10歳。多感な年頃の少女を辱めた罪は重い。
さて、そこまでは良かった。良くはないのだが、そこで一つ問題が発生した。
「ユーフェリア、ねえ」
影一郎は聞いたことのあるようでない文字の羅列を反芻する。
話を聞くに、どうもフローリアは地球でない別の惑星出身である疑いがある。それも火星や金星とかそういうレベルではなく、まるで別次元の地球そのものであるような――。
「そうです、間違いないです。大陸もこんな感じじゃなくてもっとこう、地続きがある感じで、名前も違います」
コンビニで買った世界地図を眺めていたフローリアは、やはり違う、と断言した。
身振り手振りでここでないどこかの話を繰り広げるが、まるで神崎家には伝わらない。
「異世界じゃね!?」
アニメゲーム脳の水成が目を爛々と輝かせて身を乗り出した。
昼下がり、神崎家の居間。そこまで広くないちゃぶ台を5人で囲んで井戸端会議の真っ最中であった。
ちゃぶ台の片隅には、空になった弁当箱が5つ重ねて袋に乱雑に押し込んである。
昼食後、改めてフローリアの身の上を確認していたところ、そのような流れになりつつあった。
「どうも本当っぽいね。彼女が持っている地図も地球のものとは全く別物だよ」
フローリアが持っていた世界地図と、スマホを見比べていた命はそう結論づけた。
「まあ似てるところはあるんだけど地名が違うし、そもそもグローリー王国なんて存在しないよ」
「そのグローリー王国っていうのが、フローリアの出身でいいんだよな」
影一郎が問うと、心なしか表情を曇らせたフローリアは言いづらそうに答えた。
「えっと、その。会った時も言いましたけど孤児だったので。グローリーのとある地方の孤児院に預けられていた、というのが正しいところで……」
「生まれはどこか分からないと」
「はい」
詮索するつもりはないのだが、この話題はあまりよろしくない。影一郎は別の話題を持ちかけた。
「あの小さいブラックホールみたいなのから出てきたよな。あれは何だったんだ?」
「そこのところはわたしにも分からないです」
ふむ、と一息。顎に手を当てて影一郎は考えた。いや、考えてもどうしようもない。
「元の場所に帰る手段がないということか」
「そのようですね」
影一郎は言いながら、我ながら残酷な結論を突きつけていると感じ入っていたのだが。フローリアのほうはどこか他人事のような反応をした。戸惑った影一郎は問いかける。
「……大丈夫なのか? 帰れないかもしれないんだぞ?」
「うーん、元から天涯孤独の身ですし。事情があって住んでるところを出てきたので、ユーフェリアに帰れたとしても、帰れないとしてもあまり変わらないです」
と、あっけらかんと言い切った。
「事情とは何か、聞いてもいいかい?」
無言で話を聞いていた大地が口を開いた。
「さっきも言いましたけど、わたしはどこの誰かも分からない孤児でした。ですが、ある日わたしの元にこの書状が届いたんです。匿名で」
フローリアは傍らに置いていた小ぶりのバッグのようなものから一通の便せんを取り出すと、中身の手紙を取り出した。ちゃぶ台の真ん中に差し出してくる。
大地はそれを受け取ると、文面を確認した。
「……えらく簡素だね」
影一郎もそれを確認した。文字は見たことのない文字だが、なぜだか読み方を頭が理解しているようで、なんとか読み取ることができる。
「君の疑問であるところの、出生の詳細を示す。この日時に下記の場所まで来られたし」
水成、命にも手紙を回した。二人とも面食らっていたが、やはり読めるようだった。
謎が深まる。
「自分の出自がわかると思ってたんですが。まあ、その場所はわたしが育った孤児院でして。裏手には墓地があるんですが、その手紙を見てはじめて知った墓石があったんです」
「墓石……ああ、そういえば言ってたな」
出会いがしら、墓石のあった場所から飛ばされたような事を言っていたと、影一郎は思い出した。
「手紙に記された墓石は、カンナという女性のお墓でした。だから、てっきりわたしはそのカンナという女性が母親なのではないかと――……?」
フローリアは、周囲の異様な反応に気づいた。神崎家の男が4人とも、一斉に目の色を変えてフローリアを見つめているのである。思わずぎょっとしてあたふたした。
「今、カンナって言った?」
影一郎はおそるおそるフローリアに問うた。
「です」
「あの墓……オレたちの亡くなった母さんも、カンナって言うんだよ。神崎神奈」
水成が神妙な面持ちで立ち上がる。
「へっ?」
「そこから導き出される答えは一つ……!」
素っ頓狂な声を上げたフローリアを尻目に、水成は妙な口上と共に大地を指さした。
「親父、隠し子がいるならなんで今まで黙ってたんだ!」
「な、なんだってー!!」
命が悪ノリして、信じられない!といった視線で大地を貫こうとする。
「ちょっと待ってくれ! 確かにまだ子供は作る予定だったけど違う! 誤解だ!」
「しかもこの子は10歳。おふくろが死んだのは12年前の今日だ! 計算上――……間に合わんな」
「勝手に盛り上がっといて雑だな!」
影一郎が突っ込む。なにせ神崎神奈が死んで2年後に子供を産まねばならない。とんだ矛盾であるが、なにかの関係性を疑わずにはいられない。
「……でも、偶然にしては出来過ぎてるよね。そこんとこはどうなの、父さん」
「いやいや、どうと言われても困るよ命くん」
「もう一度、母さんの墓を調べてみるべきだろうな」
何はどうあれ、あの墓石しか手がかりはないのである。影一郎は立ち上がった。
「という訳で、行くか」
「え、今からもっかいあそこまで行くのか? 明日でよくね?」
郊外の摩敷霊園までは車で1時間ほどかかる。どうという距離ではないものの、1日に何度も往復するのは骨が折れる距離ではあった。
「いやでも、問題を先送りにしてもフローリアが……」
「つーか、出奔してきたって言ってたよな。そのフローリアちゃんを異世界に送り返すのが先決なわけ?」
「――」
影一郎は絶句した。
フローリアを思った善意のつもりだったが、その実最も残酷なことを自ら率先してやろうとしていた。
出会った時もそうだ。自然と相手を抉る言葉を放っていた。
なぜ、望まないのにこうも傷つけてしまうのか。影一郎は眩暈を覚える。
「い、いえいえ! 別に帰ろうと思えば帰れるので! 問題ないです!」
フローリアは慌ててかぶりを振って否定した。その勢いに水成は圧倒される。
「お、おう。ならいいけどよ」
「はい! あの、影一郎さんの気遣いは分かってます。……ほんとに優しいんですね」
「……そうありたいな」
「ともあれ、もう一度確認したいのは事実なので……。すみませんが、恥を忍んで一日だけ泊めていただけませんか?」
フローリアはちゃぶ台を挟んだ大地に正面から向かって正座した。一礼して真っすぐ大地を見据える。その礼儀正しさに大地は嘆息した。拒否すべくもないと、満足そうに笑う。
「了承。むしろ、好きなだけいてくれてもいいくらいだ」
その日、男所帯の神崎家は、フローリアの家事スキルの前になす術なく陥落した。