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神崎家と異世界の三人娘  作者: 未確認物体X
12/21

第3章-2 アトナ

 グローリー王国の検問は厳しい。


 まず、隣国レッドヴォルフとの国境から一定の距離を置いて規則的に砦が配置されている。

 それは首都グローリーに向かうまで続く。砦から南北に伸びる高い壁は、グローリー魔術の粋を集めたものである。頑丈さには定評があり、多少の魔術攻撃ではびくともしない。


 ヴェルダン地方から首都のあるヘルドラデ地方まで連綿と立ちはだかる壁は、堅牢な護りの象徴である。

 しかしながら弱点があった。それは砦の管理にかなりの人を割かねばならないこと。


 それゆえ、検問にも隙が生まれる。砦一つに検問が発生するシステムであり、とにかく人間を使う。組織下部が多ければ多いほどに一枚岩となりにくいものだ。

 とかく厳しい。首都の城下町にともなれば、交易品の持ち込みですら国境から半月かかるケースすらある。

 人間の出入りに関しては徹底的に身元を洗い上げて、他国の間者という線を潰してからでしか敷居をまたぐことが敵わない。


 その件に関してはセントアリア孤児院のシスター、エレインが顔が利くらしく、三人分の身元を証明する書状をでっち上げてもらったのだった。

 加えて「これも持っていきなさい」とバスケットにおにぎりやパンの詰め合わせを持たせてもらい、母親が子を見送るような慈母の眼差しに見送られたものだ。


 そうして、影一郎、フローリア、ブレイズの三人は無事に検問を潜り抜けた。

 とは言えヴェルダンは国境も国境、グローリー最東端の街である。


「やれやれ、上手くいったな」


 妙に似合った伊達眼鏡を中指でくいっと上げて、自分が策を弄したわけでもないのにブレイズは渾身のドヤ顔である。


「その眼鏡、どうしたんだ」

「水成の部屋からパクってきた。なに、ちょっとした変装だよ」


 水成の部屋に一日入り浸っていた話は聞いていたが、なるほど。ちゃっかりしているものであると影一郎は感心した。

 水成の視力は1.5である。あれだけゲームやPCにかじりつく毎日を送っていても、視力は十全たるものだ。だが、たまに気分的にと言って度の入っていない眼鏡をかけて出かけることがある。それをこっそり拝借してきたのだろう。


「変装する必要、あるんです?」


 三人はセントアリアで適当に見繕ったボロ外套に身を包んでいた。三人きょうだいの旅人という出で立ちで検問をスルーする予定だった。


「もしかしたらあたしを知っているやつがいるかもしれない。もしかしたら、な」

「へえ、ブレイズは有名人なのか?」

「……まあ、な」


 影一郎が聞いたところだと、ブレイズは確かレッドヴォルフ帝国という国の出身だったと思われる。

 他国で名を轟かせる何かを成したのだろうが、ブレイズの神妙な面持ちを見るに、それを聞くのははばかられた。


 目当てである実母の墓石があるヴェルダンの街にはほどなくたどり着いた。

 国境の街と呼ばれるヴェルダンは、戦時中にはもっとも危険が及ぶ可能性が高く、大半の住人は避難するという。今はそうではないので、活気に満ち溢れた街という印象を受けた。

 家々が所狭しと並び、グローリー特有と言われる大地のマナによるものだろうか。地面はいっそ不自然なほどに整然とアスファルトで舗装されており小石ひとつ見当たらない。

 影一郎が物珍しそうに街並みを眺めていると、立ち止まったブレイズがうげ、と唸った。


「どうしたんだ」

「……こりゃあ親父殿とはぐれてよかったかもな」


 目の前には、掲示板と思しきものが立っている。掲示物は目線の位置に貼りつけてあり、目を通しやすい。影一郎が全く見たこともない文字で記載されたものばかりだが、便せんの一件と同じく、不思議と読めた。


 ギルドメンバー募集とか、仕事の依頼だとか、ファンタジー世界によくあるような内容の掲示物ばかりだが、その中にひときわ異彩を放つものがある。

 手配書。WANTEDと書かれて、大々的に似顔絵の描かれた、古びてはいるもののしっかりした紙である。どこかで見たようなその顔と、極めつけは名前であった。


「アストラ・レイヴァンス。元聖騎士団第一隊副隊長……。冗談じゃなかったようだな」


 影一郎はここに来てようやく父親の身元を信用した。

 ソースが手配書というのも、何だが。


「デッドオアアライブ、賞金は五千万テナ……うへえ、マジかよ」

「テナっていうのは、お金の単位かな」

「そうだ。多分だけど、地球で言う円と価値はほぼ同じだと思うがね」

「五千万円……あの親父を突き出せば五千万円なのか」


 とは言え影一郎には絶対に無理である。下手をすると日本中探しても彼を捕らえることができる人間はいるのかどうか、怪しいものだ。

 本気、出したことあるのだろうか。

 影一郎が手配書を見て大地の様々な武勇伝に思いを馳せていると、背後から女性の声が響いた。


「アトナちゃん……? あんたアトナちゃんじゃないかい?」

「へ? わたしです?」


 その女性はいかにも中年という小太りの女性で、買い物帰りなのか紙袋を手にしている。

 およそ信じられないものを見るような、奇異の目でまじまじとフローリアを見ていた。


「人違いです、わたしはフローリアといいますが……」

「あ、ああ……そうよね。あの子がいるわけ……ごめんね!」


 女性は小走りで駆けていった。

 単に似ているといった事情にしては反応に一抹の違和感があるように思える。


「一体なんだったんでしょう……」

「世の中には、自分とうり二つの人間が三人はいるというが」

「よくある話さね。さて、お前ら喉渇いてね? 酒場入ろうぜ」


 掲示物を一通り確認して、ブレイズは酒場の入り口をくいっと親指で指した。


「俺はいいんだけど、君らお酒飲めないよね」

「酒を飲む必要はない、ソフトドリンクもあるし。情報収集がしたいんだよ」


 三人がドアを開けて中に入ると、昼時だということもあってか、客席はそこそこに埋まっていた。内装は木目の素材で統一されており、明るすぎず、薄暗くもない絶妙な照明の具合も相まって落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 カウンター席に座ったブレイズの両隣に影一郎とフローリアが腰かけた。


「いらっしゃい。昼間から酒……をかっくらう客には見えないな。メニューはこいつだぜ」


 酒場のマスターと思しき、立派なあご髭をたくわえて、精悍な顔つきをした男性がメニューを寄越した。やはり出てきた見慣れない文字に影一郎は面食らうものの、やはり偶然ではなく読めるようである。

 食事はひとまず置いておくとして、三人でドリンクを注文する。


「あたしはミルクで」

「……コーヒー」

「紅茶で、お願いします」

「はいよ」


 注文を受け取ったマスターは、カウンターの奥へ引っ込んでいった。

 影一郎は、ぼそっと小声でブレイズに耳打ちした。


「もしかして、ブレイズたちが地球に来た時もそうだったのか」

「なんの話だ?」

「文字だよ。今俺は全然見たこともない文字を読むことができた」

「ああ……それか。うん、お前が感じてるのとおおむね似た感覚だったと思うよ」


 今のところ影一郎はここが異世界であることが分かっているが、フローリアたち三人は地球をユーフェリアのどこかだという認識でいただろう。見慣れない文字に相当面食らったのではないだろうかと影一郎は疑問に思った。


「混乱しなかったのか」

「した。頭じゃ分かっていても読めるだけで書けないときた。でもまあ、読めて理解さえできれば当面は問題なかったからな」


 影一郎ははっとした。確かに知識では理解できているような気がしているが、おそらく書き取りは不可能だろうと察した。不思議な感覚である。


「はいよ、ミルクとコーヒーと紅茶お待ち」


 すす、と三人の目の前に注文した通りのドリンクが差し出された。


「なあ、表にも貼ってあったが、アストラっていうのはまだ指名手配中なのかい?」

「ああ……あれか。もう取っ払ってもいいんだが、国から指定されているもんでそうもいかなくてな。何せ、奴が雲隠れして18年になるが一向に手がかりが掴めないらしいな」


 そりゃあ異世界に隠れたとなれば捜索は困難を極めるどころの話ではない。うまくやったものだと影一郎は感心する。

 続けてブレイズは質問の手を緩めない。


「しかし生死問わずなんて、一体何をやらかしたんだ?」

「有名な話ではある。……なんだ、あんたら余所モンか?」


 鋭いマスターの目が更に細められ、抜身の刃のような眼光を放つ。思わず影一郎とフローリアはぞくりと震えた。

 だがブレイズはそれに全く意に介した様子もなく、あっけらかんと答えた。


「ああ、わけあって親と死に別れて、三人きょうだいで新天地を探してるところでな。ここへは、山の多い辺鄙なド田舎からはるばるやってきたんだ」

「……なるほど。野暮なこと言って申し訳ない。ドリンクはサービスにしとくよ」

「痛み入るよ」


 出まかせを放ち続けるブレイズに淀みは一切ない。


「――アストラに関しては諸説あってな。自分がのし上がるために、聖騎士団の第一隊隊長を殺したとか。国家に反逆を企てていたとか。立場を利用して要人を殺そうとしたとか」

「嫌疑だらけじゃねえか。だが、そのくらいでその賞金首か?」


 なおも情報を引き出そうとするブレイズに、酒場のマスターはこっそりと顔を寄せてきた。

 あまり聞かれたくない情報を話そうとしているのだろうか。耳打ちするようにブレイズにこそっと話した。


「……ここだけの話な。聖石を盗んだっていう話が最有力だ」


 影一郎とフローリアは変にリアクションを取って怪しまれないように、静々と飲み物を口にしている。はっきりとは聞こえなかったが、察しはつく。


「が、聖石を盗めるわけはないし盗めたとしてもどうするんだって話だ。実際に見たことはないが、あれは人に扱える代物じゃないってのは常識だろ」

「アストラがそもそも他国の間者だった可能性は?」

「ないらしいな。というか、グローリーは聖石がない現状を18年間隠し続けているって話だぜ。――これは他言無用でな」


 マスターの顔がブレイズから離れていく。

 グローリーの入国審査が厳しいのには理由があった。こうした状況を他国のスパイに嗅ぎまわられては国の沽券に関わるし、何より弱点を晒すことになる。


 聖石は国の秘宝である。曰く、聖石からはその国特有の属性を持ったマナが常に大気中に分泌されており、それは人々の生活や魔術の根幹をなす。

 手っ取り早い発展を手に入れるには、他の性質をもった聖石を奪うのが一番である。そのような思想をもった人間が戦争を始めたが、今日に至るまでまともな成果は挙げられていない。


「……聖石ってなくても大丈夫なのか?」


 ブレイズは、ふと脳裏によぎった疑問を口にした。


「学者サマの見立てによれば、マナ自体は枯渇することがないと。聖石がない時代にも魔術師はいたんだからな」


 聖石が各国にもたらされたのは、900年前の大戦からあとの話である。

 その大戦にはやはり魔術が主戦力として用いられた歴史が判明していたのだ。


「ただ、グローリー特産である大地のマナは目減りしてるらしいが詳しいことは分からん。近年、右肩下がりに不作になっていて作物の値段は上がりつつあるな……」


 聖石を盗んだアストラ・レイヴァンスは徐々に。真綿で首を絞めるようにグローリーを滅ぼしつつあるということだろうか。影一郎はいたたまれない気持ちになる。


「今のところこのグローリーじゃあアストラを知らないやつなんていない。控えめに言って、大悪党ってところか」

「なるほど、事情は分かった。表の手配書が気になったもんでな、礼を言う。ドリンクのお代は払うし、情報料も乗せとくよ」


 影一郎を気遣ってか、そこでブレイズは話題を打ち切って、椅子を引いて立ち上がる。影一郎とフローリアに目配せをして、マスターに地球のものではない貨幣を差し出した。


「……あと、教会はどこにある? 裏手に墓地が併設してある教会なんだが」

「それなら、店を出て左、突き当たって右で大通りに出る。で、左側を歩いていけばそのう見える」

「左右左な。さんきゅ、ミルクうまかったぜ」


 ひら、と手を振って踵を返すブレイズ。影一郎とフローリアもそれに倣おうとするが、そこに声がかかる。


「すまんが、ちょいと待ってくれるか」


 呼び止めたマスターの、精悍な顔にはしかし色濃く戸惑いの表情が見えた。

 視線を泳がせ、言っていいのかどうか。遠慮がちに口を開こうかどうか。といった具合だ。

 見た目に似合わない仕草をしていたマスターだったが、意を決したようにフローリアを見据える。


「お嬢ちゃん、名前を教えてくれるか」


 影一郎はずるっと滑りそうになる。


「ナンパかよ。しかも少女趣味か」

「違う! ただ、あまりにも昔の知人に似ていてな……」

「フローリアです。フローリア・フローライト」

「……だよな。すまん、忘れてくれ」


 目を伏せ、納得したように。あるいは、自分を納得させたようにうんと頷くと、それきり背を向け、もうブレイズたちを呼び止めることはなかった。

 そのやり取りは、ヴェルダンに来て短い時間で二度目のことである。


 二度なら、まだ他人の空似程度の間違いはありうることである。三人はその時はあまり気にしていなかったものの、街を歩いていると三度、四度と回数を重ねていった。

 三人とも流石におかしいと思い始めたころ、ようやく大通りの左手に教会らしき建物が見えてきた。


 そこでもまた、同様のことが発生する。

 教会の古びた扉をノックすると、ややあって扉が開かれ、修道服に身を包んだ初老の女性が姿を見せた。来客に笑顔を浮かべた修道女はしかし、その目を見開いた。


「アトナ……いや、そんなはずは……」

「またか」

「……」


 五度目。フローリアの瞳が強い戸惑いに揺れる。影一郎はす、とフローリアの前に出た。


「突然で申し訳ありません、ここに古い友人の墓石があると聞いて、やってきたのですが」

「あ、ああ……ごめんなさいね。名前は分かるかしら」

「エヴァンという男性のものなんですが」


 この一連の流れ。明らかに普通ではない。

 普通に考えれば、フローリアにうり二つのアトナという女性が以前この街に住んでいたのだろう。という結論がすぐに出る。

 出るのだが、それにしては街の人々の反応がおかしい。誰もが一様に驚愕の表情を浮かべ、まるでそこにいない、触れることのできない誰かに触れようとするかのように、哀愁や寂寥に似た感情を混じらせていた。


 なるほど、アトナなる女性は街に愛されていたのだろう。それは分かった。

 それにしてはどこか異質なものを感じるのは、果たして気のせいだろうか。


 「ちょっと来るのが遅れたけど、許してくれな」


 教会の裏手。摩敷霊園よりやや手ぜまではあるが立派な集合墓地が広がっている。

 修道女から聞いた列の並びを調べていき、あっさりとその墓石は見つかった。

 柄杓に汲んだ水をかけ、地球から持ってきた掃除道具一式を振るい、墓石を磨き上げる。


 綺麗になった墓石を前に、影一郎は手を合わせた。

 ブレイズとフローリアもそれに倣い、しばしの間黙とうした。


「ごめんな、付き合わせて。でもおかげでちゃんと、知ることができた」


 改まる影一郎に、ブレイズはふっと微笑んでフローリアを見る。


「元々フローリアが言い出したことだ。あたしはただの付き添いだよ」

「……その。放っておけなかったので」

「ありがとう。どんなに礼を尽くせばいいのか今は分からないけど、ありがとう」

「え、あ、……う」


 あまりにもまっすぐな感謝に、フローリアはしどろもどろになって赤面した。


 ――エヴァンとは、大地ことアストラと同じグローリーの騎士である。

 誰もが認める実力者であり、常に第一線に立って戦う隊長格の猛者。アストラとは同じ隊に属しており、二人のコンビネーションは抜群であったとか。


 結婚してからはヴェルダンの街に暮らしており、子供を授かっている。ヴェルダンではそこそこ有名なおしどり夫婦であったらしい。


 その子供が影一郎だ。影一郎はれっきとしたユーフェリア人だったのだ。

 だが、幸せな家庭も束の間。20年前に勃発した戦争の最中に殉職したという。時期にして、18年前。同じくして伴侶もなくしている。

 さらに修道女が語った情報によれば、戦争に翻弄された夫婦の運命をヴェルダンの人々は悲しみ、この墓石をここに建てたという。


「でもこれ、隣の墓石が妙に近くないか?」


 辺り一帯をなんとなしに眺めていたブレイズは指摘する。

 言われてみればそうだと影一郎も気づく。集合墓地のため、収容スペースと間隔の問題だと思っていた。


「……ええと、なんて書いてあるのかな、これは」


 影一郎が目を凝らす。慣れない文字のためか、古びていて認識しづらいのか、少々読み取りづらく感じていた。そもそもなぜ文字を認識できるかも分かっていないのだが。


「アトナ、でいいのか? ――――アトナ?」


 聞き覚えがある名前に、影一郎の思考が止まる。というかそれ以前にアトナという名前は、ここに来る前に五度も耳にしている。

 フローリアに視線を向けると、困った様子でふるふると首を横に振った。


「――――あ?」


 その時、アトナの墓石に刻まれたメッセージを読み進めていたブレイズは、首を傾げた。


「どうしたんだ?」

「どうしたもこうしたもあるか。確かこっちに来る前にちゃんと確認したよな?」

「何を」

「父親の名前だ」

「ああ。エヴァンで間違いないぞ」


 ブレイズは分かりやすくしわの寄った眉間に指をあて、目を閉じた。何かをじっと考え込み、やがて長い長い溜息を苛立ちと共に吐き出した。


「……ちなみにこのメッセージ、読めるか?」


 墓石には、名前の下に短めのメッセージが彫ってあった。ブレイズは影一郎にそれを指し示す。


「うーん……難しいがなんとか。――――あれ?」


 影一郎は慣れない英語を読む時のように、なぜか知識として頭に入っている単語と文法をどうにか組み合わせて読み解いていく。……すると、どうか。


「生まれ変わってもあなたを愛する。愛しきエヴァン――」

「エヴァンさんの墓石にも、そのように刻んであります。愛しきアトナ、と……。おそらく示し合わせて作られたものだと思います……」


 エヴァンの墓石にあるメッセージを確認していたフローリアの声は、メッセージの示すところを察して尻すぼみに小さくなっていく。


「つまりここに並んでいるのは夫婦……」

「ええ、エヴァンとアトナはとても仲の良いおしどり夫婦だったのよ。ただ、アトナは身体が弱くてね、出産してから、身体が弱ったところに病気を患って……」


 理解の追いつかない影一郎らの背後。様子を見に来たらしい初老の修道女が、当時のことを思い出しながら語り始めた。


「その折、ちょうどレッドヴォルフと戦争が始まってね。子どもは、アトナの友人が面倒を見ていたようだけど……とうとう終戦になってもエヴァンは帰ってこなかったのよ」


 影一郎の脳裏に、酒場で聞いた話がよぎっていく。


 ――自分がのし上がるために、聖騎士団の第一隊長を殺したとか。――


 大地こと、アストラ・レイヴァンスが聖騎士団第一隊副隊長。これは指名手配所にも記載されていた事実。

 根も葉もないはずの情報と、定かになった影一郎の正体という事実が重なり合って、何かを指し示している。おぼろげに輪郭の浮き出て来たそれは、影一郎をはげしく揺さぶろうとしている。


「……エヴァンという方は、聖騎士団の方なんですよね」

「ええ、確か第一隊の隊長さんだったはずよ。聖騎士団の隊長と、魔術士官。お似合いだったのよ、本当に……」


 当時の情景とはどのようなものだったのだろう。それは、幸せな夫婦だったのかもしれない。戦争がはじまり、終わるまでの短い間だったとしても、そうに違いないのだ。

 共に戦場を駆け抜け、街に帰れば人々に愛され、おしどり夫婦と呼ばれ、子をもうけた。そこから、幸せな家庭が始まるはずだったのだ。


 けれどそれは叶わなかった。予定調和のように、運命は二人を引き裂いたのだ。千々にちぎれ、跡形も残らないほどに。


 そして、子供が一人、残った。



 ――影一郎は、大地の子でなければ、神奈の子でもなかったのである。

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