002
遠くの森で微かだがはっきりと聞こえた、常人には届かない悲鳴を聞き取った彼は、予定を変更して現場へと急行した。
例えそこが、目的地の4倍は離れていようと、その悲鳴が気のせいレベルの微かさだろうと、彼、サク・ラシードには関係がない。
悲鳴が聞こえた。
その事実さえあれば充分だった。そして、その一事をサクは放っておくわけにはいかない。自らに立てた誓いのために。
今さらその現場に赴いた所で既に事は終わっているかもしれない。それほど絶望的な距離がその森とサクとの間に横たわる。
そもそもがそんなに距離の離れた悲鳴が聞こえるハズがない。これが常識というものだ。しかし、サクは常識を無視した。考える前に身体が動いた。
そう、直感に従ったのだ。
従ったからには後は為すだけ。シンプル・イズ・ベストが彼の信条でもある。
走り出した2・3歩は常識的だった彼の速度だったが、その加速度が異常だった。
ほんの7・8歩で目にも止まらぬ速さになったかと思えば、その加速度は増し続け、まるで風と追い駆けっこでもしているかの様な速さで、あっという間に森の入り口に到達してしまった。
流石にその速度では、鬱蒼と木々が聳える森の中を駆け抜ける訳にもいかず、ズザーという音を立てて急ブレーキをかけた。
サクが悲鳴を聞き付け駆け出してからものの2拍(2分)たったそれだけで2刻は掛る距離を走破したのだ。常人の60分の1、その数字だけを見てもサクの驚異的な加速度がわかる。それだけの速さで疾駆したにも関わらず、1クール(1メートル)にも満たない短さで止まって見せたその制動力。それもまた、サクの身体能力の高さを窺わせる。
が、それでも2拍、一瞬とは言い難い時間を消費してしまった。それでもまだ現場まで辿り着けていない。そのことにサクは小さく舌打ちをした。
間に合わなかったかもしれない。そう思えばこその舌打ちだった。
ここまで近付けばわかる濃厚な複数の魔物の気配。その気配が激しく動いていない。悲鳴を上げるほどの事だ。争う気配くらい漏れてきても良いはずだった。
それでも慎重とは程遠い無造作な足取りでサクは森に踏み入った。しかしその気配はとても希薄で、足音すら立たない。かなりの技量を感じさせる身のこなしだ。
やがて、濃厚な気配の発生源にサクはたどり着く。そしてそこは、かの悲鳴の発生場所でもあるはずだった。
そこにいたのはカダイラという魔物の集団だった。手には各々粗末な斧や剣といった武器を持ち、これまた粗末な革製の防具を着込んでいる。その容貌は醜いの一言に尽きる。
些末な知能を持ち、群れを成して人を襲う魔物だ。
カダイラを単体で見れば、その実力は低いため初級の冒険者でも討伐可能だ。しかし、その群れの規模に寄っては魔法まで扱うような変異体が混ざっていたりと、危険度が変わる。また、何かの拍子に群れているカダイラの一体を仕留めようものなら、その群れのカダイラ達はその相手を決して逃がさない。その群れで最後の一体になってでも相手を殺そうとする習性を持つため、冒険者泣かせの魔物でもある。
また低脳ながら知恵もあるため、連携を駆使しようとしたり、罠に嵌めようとしたり、一旦引いて数日後に襲いかかって来たりと、いたずら好きの悪知恵しか働かせない子どもの集まりの様な奴等だ。そんなやつらと命を懸けた鬼ごっこをしたい人の方が珍しいだろう。
だが、それもターゲットが一人の場合の厄介さだ。こちらも複数人で狩れば、必ずや混乱をきたし、内部分裂を引き起こす。そして、単体で見れば弱い。そうでなくても群れの規模が縮小すればするほど危険度は下がるのだ。通常は群れの規模に応じた人数を集めた冒険者たちの格好の獲物だ。
カダイラの繁殖力が高いため常に間引かなければ、やがて大きな群れとなって人や街を襲う。そういった事情もあり討伐金は一定の水準で推移し、大きく値崩れすることがない。
初級に成り立ての冒険者の生活の糧と言っても過言ではない魔物でもあった。
しかし、サクの目の前の群れは大規模な集団だった。曲がりなりにもその全員が武器や防具を装備している事からもその危険度が高いことを示している。
根拠として、それだけの武器や防具をどこから得たのか? 当たり前だが街の武器屋や防具屋ではないだろう。では、どこから? 初級の冒険者の屍からに他ならない。
それだけ優秀な指揮官にでも率いられたのか、その大群は見える範囲で数100匹は静かに整列していた。
対して、サクは一人。如何にサクだろうとこの規模のカダイラに手を出そうとは思わない。し、思えない。
静かに整列する数100匹のカダイラ達。
それはまるで、暴風吹き荒れる前兆の様な静けさだった。