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名前のないもの

作者: 灯火サイ



 私には親友がいる。


 親友は爽ちゃんといって、わたしが幼稚園の時からの友達だ。彼はいつだってわたしの傍にいてくれた。


「爽ちゃん」

「なぁに、さっちゃん」


 わたしが爽ちゃんと呼ぶと、彼はさっちゃんと答える。

 わたしはそれが好きで、理由もなく爽ちゃんと呼ぶ。理由がないと分かっていても、爽ちゃんはいつだって、優しそうな顔でさっちゃんと答えてくれる。

 いつも一緒だ。おててを繋いで公園へ行き、野山を駆ける。わたしも爽ちゃんも運動が得意ではなかったから、すぐに休んで、二人で笑った。

 わたしは爽ちゃんと遊ぶのが好きだ。わたしと爽ちゃんの好むものは似ていて、いつだって気が合った。

 好きな食べ物はカレーで、好きな遊びは砂遊び、運動が苦手で家の中にいる方がいい。わたしの行く先にはいつだって爽ちゃんがいた。


 だからかもしれない。


 わたしは小学生になっても、爽ちゃん以外の友達ができなかった。大勢の前にいると、わたしは逃げ出したい気持ちになった。おなかに鉛ができたみたいに、重い気持ちがわたしを飲み込んだ。


「さなえちゃん」


 そう呼ばれても、喉がからまってうまく話せなかった。結局わたしは口ごもって、呼んだ人は不思議そうに去っていく。

 しだいにわたしはクラスメイトから疎んじられるようになっていた。面と向かって悪口を言われる時もあった。

 そういう時はだいたい数人で来るから、わたしは黙ってその波が収まるのを待っていた。鉛をおなかに抱えて、外の言葉に触れないようにしていた。

 波が去って、重りがなくなったら、わたしは決まって爽ちゃんと呼びかけた。

 彼はさっちゃんと答えてくれる。わたしはそれに安心して、そのまま爽ちゃんと一緒に遊び行くのだ。いつの間にか手を繋いで、わたしは登下校をして、今日のことを爽ちゃんに話す。

 彼はわたしがいてほしいときにいてくれた。


 爽ちゃんも人が嫌いだと気付いたのは、わたしがこうやって悪口を言われるようになってからだった。


 爽ちゃんはわたしが人に話しかけられていると、絶対に近寄っては来なかった。

 思えば小さい時から、爽ちゃんはいつもわたしと一緒にはいたが、誰かもう一人がいると、彼はいなかった。


 彼といるときにクラスメイトに話しかけられても、わたしと揃って口を噤む。わたしにだけ話しかけるクラスメイトを、わたしが好きになれるはずもなかった。

 わたしの手をいつの間にか握って、励ますように、ただじっとしていた。彼はわたしと同じように、波が過ぎるのを待って、悪意がなくなるのを待っているのだ。爽ちゃんはそれを一時的なものだと知っているのだ。

 わたしもそれに気づき始めていたから、じっと終わりの時をただ待った。

 わたしと違ったのが、大人を特に怖がっているところだった。近くに大人が来ると、爽ちゃんは肩をこわばらせる。その緊張がわたしにも伝わってきた。

 わたしも爽ちゃんといるときは、いつもより大人が怖くなった気がした。

 爽ちゃんに、どうして、と聞くことはしなかった。わたしもどうして人と話せないのかと聞かれたら、うまく答えられる自信がなかったからだ。


 わたしはそのまま小学五年生になって、爽ちゃんといない時は図書室にいることが日課になっていた。図書室では、話す人の方が悪いと決まっていたから、わたしは気が楽だった。わざわざわたしに話しかける人もいない。

 わたしは放課後もそこで本を読んでいた。本はわたしを知らない世界に連れて行ってくれる。知らない世界が広がり、わたしはその世界でだけ、自由でいられるような気がした。

 本に集中している間は、爽ちゃんが現れることはなかった。



「いつも本読んでいるよね」


 快活そうな女の子が立っている。唐突な言葉に答えられなかったのは、わたしに話しかけられたのだと気付けなかったせいだ。

 わたしは狼狽えながら、ただ頷いた。


「ふーん、何かおすすめの本はある?」


 彼女はわたしに聞いたが、わたしは答えられなかった。勧められるほど、彼女の人となりを知らない。わたしはただ目をせわしなく動かした。

 彼女は気分を害した風もなく、自分は冒険小説が好きだとか、この前読んだ野球の話は面白かっただとか、わたしに話し続けた。彼女は見かけによらず読書家らしかった。


「今、似合わないって思わなかった?」


 拗ねたように彼女は言う。


「まったくいつもそうなのよね。私、運動より本を読む方が好きなくらいなのよ」


 彼女は心外だと言わんばかりに口を尖らせる。わたしはその様子に思わずくすりと笑ってしまった。


 彼女はにんまりと笑い、またねと言って去っていった。

 いつものような鉛の感覚はなかった。私はすぐに爽ちゃんを呼べた。


「爽ちゃん」

「さっちゃん」


 彼はひょっこりと図書室の出入り口から顔を出した。優しそうな笑顔はいつもと変わらなかった。


「さっちゃんと友達になれそうだね」


 爽ちゃんの言葉にわたしはとっさに頷いた。



 次の日も、次の日も彼女は図書室にやってきた。わたしに話しかけたり、隣で本を読んだりした。わたしはこんなに爽ちゃん以外の人に話しかけられ、一緒に居るのは初めてだった。彼女が話していても、鉛が溜まらない。わたしは自由に彼女の話に相槌を打ち、笑顔になった。


「……え、えりかちゃん」


 わたしが初めて名前を呼ぶと、彼女は目を輝かせたが何も言わずに、たどたどしいわたしの話を聞いてくれた。やっと彼女にお勧めの本を言うことができた。

 今度はわたしの好きな本の話をしては、彼女と趣味が合うことを喜び、逆に合わない部分があることも楽しかった。

 彼女は確かに読書家だったが、印象通りに運動も得意だった。好きな食べ物はラーメン、好きな遊びは鬼ごっこ、彼女の周りにはいつだって人がいた。


 私は彼女と友達になった。それは素敵な言葉で、彼女の世界でわたしは自由に羽ばたいているような感覚になった。幸福さに心が弾み、わたしは学校に来るのが楽しくなった。彼女と登下校し、彼女と一緒に遊んだ。


 数日たって、爽ちゃんの名前を呼ぶ回数が減ったことに気付いた。


 わたしは爽ちゃんにも彼女を紹介しようと思った。彼女と爽ちゃんとわたしで話すことができれば、こんなにも幸福なことはない。

 わたしはさっそく爽ちゃんに話そうとした。階段の踊り場で、わたしは彼に向かって呼びかける。


「爽ちゃん」

「さっちゃん」


 彼はただそこに立っていた。わたしはあれ、と思ったが、すぐに彼女の話をした。彼女と爽ちゃんが会うことは素敵な相談に思えた。わたしと気が合ったのだから、爽ちゃんもそうじゃないかと信じて疑っていなかった。だって、わたしと爽ちゃんはとっても気が合うのだ。


 わたしが話し終わると、爽ちゃんは一つ頷いた。わたしは喜びかけ、彼が目を伏せているのに気付いた。


「爽ちゃん?」

「さっちゃんに友達ができたんだね、本当に、良かった」


 安堵した様子の爽ちゃんに、わたしは笑顔で頷いた。


「そう、そうなの。だから三人になったら、もっと楽しいと思うの」

「三人にはなれないよ」


 爽ちゃんはただ悲しそうだった。それでも、どこか嬉しそうにも見え、ちぐはぐだった。心底、わたしに友達ができたことをうれしがってくれているようだった。だからこそ、彼の悲しみが分からなかった。


「どうして?」

「さっちゃんは分かっているよ、分かっている」


 爽ちゃんは笑った。優しそうな顔だった。わたしは何も言えなくなった。


「さっちゃん、もう一人遊びは卒業しなくちゃいけない」


 彼はわたしをあやすように、抱きしめて、背中を優しく叩いた。抱きしめられているはずなのに、暖かくはなかった。

 手に温もりがないみたいに思えた。

 彼はすぐにわたしから離れて、階段を上っていく。


「爽ちゃん」


 彼はさっちゃんと答えてはくれない。踊り場で何度も彼を呼んだが、ついに彼は振り向かず階段を上り終え、北の方へ曲がった。

 わたしは視界から爽ちゃんが消えて初めて、階段を急いで上った。曲がった方へ、もう一度爽ちゃんと呼びかけても、ひょっこりと誰かが現れることはない。ただ、いつもの廊下が広がっている。

 何も、ない。


「爽ちゃん」


 もう一度呼んだ。


 わたしに、訳の分からない涙が溢れてきた。

 






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