8
「ありません」
なぜ!? 私は打ちひしがれました。膝から崩れ落ちました。
「どうして、どうしてですの。
たったひとつのお願いでしたのに。
私に小麦粉を、とあれほど言ったでしょう。なんですの焦らすのがお望みですの。
そんな下賤なメイドに育てた覚えはなくてよ!」
激昂して怒鳴り散らすのを、カリアは小さく、うなづきながら見つめております。
ああ、その冷静さが憎らしいですわ。
だん、と床を殴ると素早くカリアが私に寄り添います。さら、とそれはもう整った紫の髪の毛。黒に近いそれは近寄れば新緑の香りが致します。切れ目がちなその目は薄い水の色をしておりまして、濃い髪それぞれの色の美しさを際立たせておりますの。近寄ると小さな傷がいくつも皮膚に走っているのがわかります。才能がありつつも、自らを追い立てるように修行する真面目さの現れですわ。
すん、鼻をならして恨みがましくカリアを見上げました。
「幾つか商店を見て回りましたが、この国もパン屋が多数ございます。王都では平民達はパン屋でパンを買うのが主流。個人用の小麦粉もあるにはありましたが……ご希望の量では、『お届けに参ります』としつこく所在を聞かれてしまいました。」
「貧民……貧民はどうなの!」
「貧民用の質の悪い小麦は、ご主人様の望むようなものではないと判断いたしました。麦粥用の麦も売っておりましたが、それは量がかないません。いくつかの商店で、三日後の市が少量で多種多様な素材を仕入れられる、とのことでしたので」
それで。
小麦を断念した、ということ。
私は深呼吸をして、我が身を押さえました。
「分かりました……何もかもがはじめから揃う、などと私としたことが愚かなところを見せてしまったわね」
私が詫びると、いいえ、とカリアは答えます。
ふと、カリアが目を閉じました。長く、真っ直ぐな睫毛は窓から漏れた明かりでもって、うすく影を作ります。
「スカーレット様。
まずはじめに、こちらの国で人気のパン屋から取り寄せたパンを召し上がりませんか」
「あら」
私が顔を上げますと、先ほどの怒りがすっかり喜び変わるのがわかりました。
見れば、カリアの手には大きな籠があります。底に入っているのは――そうこの匂いは間違いありません。少し濡らした布巾がかかっているものもありますわ。しっとり系ですわね!
「そうね、そうするわ」とすましてこたえました。目は完全に籠に固定でしたけれど、鼻はせわしく匂いを追っていましたけれど、ヨダレがたまって口が潤いに潤っておりましたけれど、私は女王です。待て、ができる良い子ですわ。
「すべて、ご主人様のものです」
同時にカゴの中に手をつっこみ、お目当てのパンをゲットしました。
「いやっふー!」
奇声ではございません。これは歓喜の声なのです。
ですけれど私を知らない者からしてみれば、奇異に見られるかもしれません。
王子なんて椅子から転げ落ちかねませんもの。
配慮はばっちり、カリアの防音魔法は今日も素晴らしいですわ。
窓の外に目を向けると、死んだ男を取り囲み、大きく口を動かす王子がちら、と見えました。
と、すぐさま状況を察したカリアがカーテンを引き、目くらましの魔法を追加してれました。
さすがですわ。