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Stand Alone Stories

女郎蜘蛛と紋白蝶

「好きです。付き合ってください!」

 と、誰かが言ってくれないものか。

 しかし、告白と言うのは男からしてなんぼではないだろうかという価値観に縛られている向きも有り、それ故に顔を赤らめながら必死に声を絞り出し愛の言葉を紡ぐ、そんな女の子の努力を想像して見ても現実味は皆無だった。

 帰宅部(正確に言うならば軽音楽部の幽霊部員)としての高校生活も二年目を迎えた春、少し開けた窓から入り込む心地よい風にやんわり身をまかせながら、古暮昭明は当ても無い考えに浸る。――例えば机の上に落書きしている所を隣の席の女の子が眺めていて……いや、よそう。自分の座席は窓際の前から二番目だ。割と目立つ。

 そして隣の席には、都合のいい事に女子が座ってはいたが、この手の話題で名前が挙がる事の無い典型的な暗い雰囲気の女の子である。だって名字も倉石(暗いし)、正直いくら過去に遡って見ても、絡みは一切無い。彼女も、このような前方の座席に配置されたその身の不幸を憂えているに違いない。ただ、同じメガネ族として多少の親近感は抱いていた。このクラスにはメガネ人口は彼ら含め四人しかいない。このご時世にまったく有り得ない事にだ。

 昭明は何の気なしに自身のメガネを外し、ケースから取り出したクロスで優しくフレームを撫でる。春休みに買ったばかりのメガネである。姉と一緒に買いに行って割引してもらった。ちなみにこのメガネ一つで姉のメガネは同じものを六つ揃える事が出来る。パソコン用のメガネが欲しかっただけらしい。しかし照明は割り引いてくれるならとちょっと普段手が出無いようなフレームに非球面レンズなどというハイカラなものをこさえた訳である。銀縁のクールなメガネは、いまいちぱっとしなかった照明の顔をいくらか締まりあるように見せるのに一役買ってくれていた。これで髪形を何とかすれば気持ちの良い好青年に見えるに違いない。

 メガネをかけ直し、再び窓の外に視線をやる。校庭では体育の授業が行われているようで、サッカーのゴールに手でつかんだボールを放り込んでいる所を見ると、ハンドボールをやっているらしい。そうして幾らか時間が過ぎた時、自分でも気付かないうちに、春の妖精の魔法にでもかかったように、彼のシャーペンを握る右手は、その机上に柔らかな言葉を綴っていた。


  この風になびく君の長い髪に


 そこまで書いておいて我に返り、彼はシャーペンを操る右手をを停めた。さきほどの想像をいつの間に実行に移していた自分に冷や汗をかきつつも、その視線を授業中の教師に向ける。歴史の授業は退屈だ。中学時代に教わった事をまた繰り返している。歴史は繰り返す。然り。比較的真面目に授業を受けたせいで彼の知識は中学時代に高校生のそれに匹敵するレベルまで達していた。とはいえ、受験生のそれと肩を並べるほどでもない。それ以上を望むべくも無い。

 照明は再び自分が書いたそのセンテンスに視線を落とす。この心地よい春の風のそよぎにのせて、自分は歌を届けるのだ。


  この風になびく君の長い髪に


 その文字は、どこか軽薄な所はあったものの曲線と直線がハッキリした丁寧な文字だった。ノートに書き込まれている板書も同様に。中学時代から、先生が最初の一文字を書き始めた時点で、照明はその先に書かれるであろう事を既にノートに書き写す事で優越感に浸ると言う寂しい行為を日常的に繰り返していたため、板書の先回りがオートメーション化されていた。彼にはたっぷりと授業の余白を取る事が出来たのである。

 そう言えば自分は軽音楽部員だった。彼の場合は余った時間でパワーコードを鳴らすだけの拙いギター演奏で心を満たす時間が好きだっただけである。部活動には絶対入れと言う学校が悪いのである。幽霊部員を増やして何がしたいのか? そう言う訳で彼は決して自分が、正式な帰宅部員になることは出来ない事をひそかに恨めしくも思っていたのである。

 軽音楽部員がそっと机に詩を並べる事が、漫画研究部員たちが机にデッサンを書きこむ事と並べて落書きと称されることに変わりは無い。学徒にとって授業の余白は専らこれと睡眠か、友人との私語に費やされるものと相場が決まっている。その私語も今は電子的な文字による会話になりつつあるが。


  この風になびく君の長い髪に

  僕は指をからませたい

  女郎の糸にからめ取られる

  哀れな紋白の様に


 そこまで書いて思った。それってどうなのだろうか? 正直自分で書いていてもそこまでの気持ちに自分が支配される事は全く想像がつかなかった。自分の経験から詩を書く人は多いが、思って無くても書けるものだ。絡め取られてどうしたい? ふと視線を横に移す。隣の席の女の子は机に突っ伏しながら、しかし腕の隙間から横目に彼の綴ったセンテンスを追っているらしかった。なぜそれに気付いたか。もちろん、お互い向き合っているはずなのに彼女と視線が合わなかったから、その先にあるものが自ずと察せられたからに他ならない。ここで動揺するのが青二才が青二才たるゆえんだ。見られている事に気付いたからと言って、何も自分が慌てる必要は無い。見られている事に気付いていないように自然にふるまって、消しゴムでこの文字列を撫ぜて、床に払ってしまえば良い。この消しゴムも新学期に合わせて新調したものである。まっさらな、その見事な角張りを誇らしげに輝かせている。

 しかし、つまみ取ろうとした消しゴムは不敵にも彼に反抗心を見せた。一度捕まった照明の手を見事にすり抜け、床へと飛び去って行ったのである。これには流石に照明も動揺した。なぜなら消しゴムは窓際の壁に当たって跳ね返り、となりの席の彼女の足元へと転がり落ちたからである。こうなってしまっては嫌でも彼女と視線が交錯するはめになった。彼女は何も言わず机に下へ身体を屈め、その細い指先で消しゴムを拾い、そっと照明の机の隅に載せた。礼を言おうと思ったが、授業中なので手振りでそれを伝える。それに彼女は眼鏡越しに、笑顔で応えた。


  この風になびく君の長い髪に

  僕は指をからませたい

  女郎の糸にからめ取られる

  哀れな紋白の様に


 再び彼の掌に納まった紋白は、少女のしなやかな指先に包まれたわけである。妙な気分に苛まれた照明は、そのまっさらな身体を汚してやりたくなり、机上の文字列へと荒々しく撫でつけた。しかし、それがすべて消えた時には黒い消しカスを吐き出すばかりで、消しゴム自身は脱皮でもしたかのように真っ白のままだった。折良く授業終了の鐘が響く。


「あの……」それとともに、優しい声で「古暮くん、メガネ変えたんだね……」と彼に向って声をかけて来たのは隣りの席の彼女であった。その一言に、照明は妙な感動を覚えた。なぜならその事に付いて言及してくれたのは新年度が始まって一週間、彼女が初めてだったからである。その事は予想外に彼の心を高揚させた。しかし同時に、机上に綴っていたあの文面を見られていた事も思い返される。その事に付いて何か言われるのは非常に困る。しかしそれより、彼女に話しかけられるのも初めてだったし、名前を覚えているとも思って無かったので、頭が混乱してきた。

「フレームだけで四万したんだぜ」

 漸く絞り出した一言はそれだったが、それにも彼女は興味深そうに小首をかしげながら微笑んだのである。

「そうなんだ、良い買い物したね。似合ってるよ」

「ああ、ありがとう」彼女はこれほど喋る女の子だったろうか? と振り返ってみた所で無駄である。なぜなら彼女との会話はこれが初めてであるし、それまで彼女の事を考えた事も殆ど無いのだから。本当に彼女は暗い少女なのだろうか。勘違いだったのかもしれない。

「倉石さんのメガネは――」

「フレームが一万円くらいかな。そんなに目が悪い訳じゃないんだけど、学校ではかけてた方が良いかなって」

「でも茶色ってのは少し地味じゃないかな。もう少し明るい色にしてみたらどう?」

「そうかもね。――古暮くんのメガネが変わったのは、すぐ気付いたよ。何か、髪形が変わるより曖昧で、でも何かはっきり違うって解って、不思議だったの」

「そう言えば、一年の時もクラス一緒……だったね」

「もしかして、忘れてた?」

「いや、話すのこれが初めてだし」

「ほんとに? そうかな。でも、私――古暮くんと部活同じだよ?」

「え、帰宅部?」

「えっと、そうじゃなくて――古暮くんはそうなのかもしれないけど、違うよ、私は軽音楽部だよ。そっかー、覚えて無いんだね。色々、話したんだけどな……」

 だと言うならば古暮が彼女と会話を交わしたのは部活の説明会の時のはず。他には考えられない。なぜなら照明が部活に参加したのはその日が最初で最後だったからだ。

「そ、そうだった……かもしれない」

「ああ、そうだ。私、メガネしてなかったから」そう言って倉石はメガネを外し、鬱蒼とした前髪を上げ、後ろ髪を手で束ねて見せた。ほんの一年前の事である。昭明も、徐々に記憶がよみがえってきた。生意気そうな表情が其処に有った。この顔は見覚えがある。

「あぁ、……あぁ!……そうか」

「ふふ、思い出したね」

 しかし全く全然印象が違う。あの時の倉石は、彼女よりはアイツとでも言う方が良さそうな少女だったものだから。もしかして教室では目立たないように、抑えているのか? 部活に行っていない昭明には、倉石が実際に演奏している姿を一度も見ていない。つまり、そう言う事も有るかもしれない。

「ねえ、部活に来る気は無い?」

「どうして」

「そろそろ後輩が入ってくるでしょ、それにオリエンテーションでも演奏するし、この際だから古暮くんも弾けてみないかなって」

 その誘いは、今の照明には酷く魅力的に響いた。

 そして恐ろしく真っ当な衝動に身を任せて見たいと。

 窓の外で一羽の紋白蝶が躍っていた。

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