1話
鼠色(ねずみいろ)の壁の町屋造り風の外観、店内はレトロな喫茶店・金木犀。
本日のおすすめは『ロシアンコーヒー』
カランカランと、お客さんが来たことを知らせる扉の鈴。
「いらっしゃいませ」
「いつもの、ホットコーヒーをお願い」
「はい」
巴は、ホットコーヒーの用意をする。
金木犀は、巴の祖父・巽が切り盛りする店。巽一人では大変なので、孫の巴が店員として働いている。店長として厳しく教育する巽のおかげで、巴は開店準備を任されるようになった。
和装が基本のこの国。洋装か流行りだしてきているなかに、店は巽のこだわりで和装。巴が来ているのは、萌木色(もえぎいろ)の地に、前下身頃には椿の刺繍がある着物。その上に白いフリルのついたエプロンをしている。巽も茄子紺の着物にエプロン姿の渋く粋な感じである。
「はい。お待たせしました」
「ありがとう」
コーヒーに焼き菓子を添えるのが、この店の特徴。今日の焼き菓子は、抹茶のクッキー。
「巴ちゃんも、店番が板についてきたね~」
「まだまだですよ」
巴は苦笑する。常連客の多いこの店で、巴の顔なじみも増えてきた。
そこに、もう一人お客が来た。
「いらっしゃいませ」
「本日のおすすめで!」
来たは、この町にある花屋で働く黒崎海。
焦げ茶で少し長めの髪に、褐色の肌、涼しげな顔立ちの青年。
「今日は、ダリア」
英字新聞に包まれた、小ぶりの桃色と白のダリアが、カウンターに登場。
「いつも、ありがとうございます」
「黒崎ちゃん、まめだね~」
からかう常連のおばさんに、海は淡い笑顔で応える。
海は店に来るたびに、小さな花束を持ってくる。おかげで、店内はいつも華やかだ。
「今日は、ロシアンコーヒー」
「ありがとう」
巴は、もらったダリアを花瓶に活ける。海は、その後ろ姿をじっと見つめる。
「何かついてますか?」
視線を感じて、巴は海を振り返る。
「いや」
カランカラン。
「いらっしゃい。あ!剣ちゃん」
「こんにちは」
「今日は、お休み?」
「はい」
そんなやり取りをしながら、海のひとつ隣に座るのは、明るい茶の癖毛に漆黒の瞳の洋装の青年・木藤剣迩(きとうけんじ)。
剣迩は、幼い頃この町に越してきた。慣れない土地で道に迷い、途方に暮れているところを、巴に助けられた。それ以来、仲の良い幼馴染みだ。
歳は巴の一つ下。父親が東都国人、母親は西都国人、いわゆるハーフ。明るい茶の癖毛は母親譲り。
「何にする?」
「カプチーノ」
「了解」
巴は、カプチーノを作り始める。
「ダリアですか」
「あぁ。今日入ってきたんだ」
花瓶に活けられたダリアに気がついた剣迩に、海が答える。
「剣ちゃん、お待たせ」
「ありがとうございます」
剣迩にカプチーノが出される。
「珍しいですね。黒崎さんが黙っているなんて」
「ん?心配してくれてるの?」
「べ、別に。ただ珍しいから」
顔を紅くして否定する巴を、海は楽しそうに見ている。剣迩は、そんな二人を静かに見守る。
「もう、一年になるんだなぁと思ってさ」
「一年?そうか、一年になりますね」と剣迩。
一年前、巴は事故に遭い、記憶の一部が抜け落ちている。
「足りないものは、思い出せた?」
「何も……ごめんなさい」
海に問いかけられた巴は、悲しそうに首を横に振る。
「謝ることはないよ」
「でも!」
「ほら、接客業がそんな顔しないの」
「そうですよ。せっかくの花かんばせが台無しですよ」
何か言いたげな巴を、海と剣迩はなだめる。
「お前、そんなことよく言えるな……」
「本当のことですから」
歯が浮くようなセリフを、剣迩はさらりと言う。
なだめていたはずが、海は剣迩の口喧嘩に発展。それから、三人は他愛ない話をして、巴が落ち着くと、海は仕事に戻っていった。
◆
夕方の金木犀は、穏やかな時間が流れる。巴は海と初めて会ったときのことを、思い出していた。
今の巴が彼に初めて会ったのは、病院のベッドの上だった。巴は事故に遭い、病院に運ばれた。命に別状はなかったけれど、一部の記憶が抜け落ちてしまった。記憶喪失だ。
“一部の記憶”は、事故に遭った日から一年前までの記憶。巴の中のカレンダーの年号は、みんなより一年遅れていた。
巴が目を覚ましたとき、病室には巽に美咲、剣迩、あともう一人知らない男の人がいた。
その男の人が彼だった。
「貴方は、誰?」
巴の言葉に、彼は言葉を失ったようだった。
「巴、何を言っているの?彼は……」
「俺は、黒崎海。金木犀の常連で、君が事故に遭ったと聞いて心配で来たんだ」
何か言いたげな美咲を遮って、彼は話し出した。
言葉を失っていたのが嘘のように。
「私が事故に?」
「そうだよ。でも、無事でよかった」
彼は淡く笑ってそう言った。どこか悲しげな笑顔だと思った。
一年分の記憶がないのは、穴が空いたような感覚。その穴を埋めるように、皆いろいろ教えてくれた。ただ、彼だけはあまり教えてくれなかった。
彼は入院中、何回も会いに来てくれた。決まって小さな花束を持って。その小さな花束は、病室の机を埋め尽くしていった。見舞いに来てくれた美咲は、それを見て「すごいわね」と、半ば呆れたようにため息交じりに笑った。
「黒崎さん」
「ん?」
「私と黒崎さんは、どんな関係なんですか?」
「……」
ずっと疑問に思っていたことを、彼が来てくれたときに聞いてみた。美咲は友達、剣ちゃんは幼馴染み。常連客というだけで、彼はありったけの優しさをくれる。
彼は黙ってしまった。
「思い出したいんです。無くした記憶の中で、私は黒崎さんと知り合っているんでしょ?」
「……言ってしまうのは簡単だよ。でも、俺は君が思い出すのを待っているよ。無理にでなく自然にね。だから、焦らなくていいんだよ」
彼は優しく微笑んだ。でもそれは、目を覚ましたときと同じ、どこか悲しげで、彼を傷つけているんだと思い知る。
何も言えないでいると、彼は「また来るよ」と、帰っていった。
思い出せないということは、ひどくもどかしいもので、それは今でも変わらない。




