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十二の空白

轟実(三)

作者: 石村真知

働くというということが、生きる事に繋がる筈もなく、私はただ此処に居て生きていました。両親が亡くなるまでは働かずとも飯は出てきましたし、風呂にも入れました。責める者は無く、居たとしてもそんな冷やかしは私にとって今に始まったことではなく、生活の一部になっていたのです。背中を丸め、下を向き歩く私を父母は居ない物の様に扱っていましたが、何故か三度飯は出てくるのでした。一体、私にどうしろというのだ、と食事の度に考えました。このまま食事を食べずに空腹になれば死ねるかと思い、試してみましたが、一度朝を食べずに居ても、昼にはまた出されたものを食べてしまうので、こういう所が猿のようだなと思うと同時に、私はどうやら死にたい訳ではないのだと気付きました。そうして、日々を送っていましたが、とうとう父が死ぬ何日か前に私に言いました。多分、父なりに私の将来を考えていたのだと思います。

「生きたいのか、死にたいのか、どちらなんだ。人に迷惑をかけたらいかん。働かずして飯は食えんのだ、実。」

父亡き今、遺言の様な形になってしまいましたが、父が振り絞ったその言葉も私の心を微塵も動かさなかったのです。それは、働くという事は私にとってあまりにも惨めな事だったからです。布団の中は気持ち良いですし、困りもしないのにそうまでして御客様の機嫌を取りながら、働かなくてはいけないのか、私には全く理解できません。したくもないのです。自分の世界にだけ意味を見出だす事しか出来ない私が、猿以下だからなのでしょうか。ですが、御客様の様に、酒を投げ付けたり、食い物を不味いといったり、女と見れば手を出す訳でもありません。酔えば私を意味も無く怒鳴り付けたり殴る御客様も居ました。そう言ったことを思い出せば、私から見ると、御客様は男も女も、皆ただの傍迷惑なものでした。人に迷惑をかけるというのは、まさしくあれではないかと成長した今は思うのです。

私が御客様に文句を言われる事はそれこそ、星の数ほど有りました。その度、御客様に謝り、子供の私に母は言うのです。

「御客様の御背中を流してらっしゃい。」

これには困ってしまい、いつも泣いてしまうのです。おそらく母は私がこの言葉に恐怖を感じているのを知って、言うのです。

「御客様はお前の声が煩いと注意をしたのです。何故、仕事中と分かっていながら、私に声を掛けたのですか?自分の誤りを認識し、反省なさい。嫌ならば繰り返すのではありません。失敗を何度も繰り返す事は、大変な罪ですよ、実。」

そういうと、また御客様のところへいってしまいました。笑顔で御客様と話す母を見て、自分の意味がどんどん解らなくなってしまったのです。

私は、背中の流し方など知りませんでしたし、御客様の体に触れるなど、考えられませんでした。他人様の体などを洗えば、その汚れが私には付いてしまい、私が汚くなってしまうかもしれませんし、また、知らないうちに何か事が生じてしまうかもしれません。ですが、そもそも人の体に私は触れた事が物心ついた時からあまり無かったのです。

私は、母と風呂に入った事が有りません。ですが一度だけ母の体を観たことがあります。あれは、小学四年生のときでした。夜中に腹の具合が悪くなり、その内に痛みが激しくなり、居ても立ってもいられず、風呂場に向かい扉を開けました。その瞬間私は驚いて、口がきけなくなりました。母の背中が見え、その背中一面に神が鎮座しており、何とも色鮮やかで美しかったからです。私は心臓のあまりの強い動きに息の仕方も忘れてしまいましたが、母はあっちを向いたまま穏やかに話をかけました。

「どうかしましたか?」

「母さん、腹が痛くて...どうしようもないのです」

「今上がるから、居間で待ちなさい」

「はい」

扉は閉ざされ、私は動けず少しの間立ち竦んでいましたが、風呂場から桶と湯の流れる音がして気がつきました。そして居間に居ろという言葉を忘れ、駆け足で自分の部屋に戻ってしまったのです。痛みも同時に忘れてしまったのだと思います。

母の背中は子供の私の目には酷く美しく映り、それが刺青というものだというのは理解はしていましたが、身体中が震えてしまったのです。神仏を否定し聞かせ、神様よりも素晴らしい御客様の刺青を否定した母が。まさか神を

背中に連れて居たなんて。思いもしなかったのです。刺青をした御客様を母は嫌って居ました。あんなものは人間のくずだと、言っていました。母自身はとうにくずだったのです。ですが、母は自分を正しいと信じていました。生き方を押し付け、その強さが私から全てを奪い、生きることを覚えさせてはくれなかったのです。食事も美しくはありましたが味気が無く、睡眠も居てはくれましたが重く、風呂は四つの時から一人でした。入らなくとも、誰も気付かなかったので、いつしか入らなくなりました。そうして風呂に入らなければ母は言います。「臭いますよ。お前は本当に価値の無い子ですね。」

今となっては人と関わる事を怖れ、話さず、無気力で、何も好みません。ですが呼吸をし、食事を摂り、排便もします。そんな私を私は生きていると思いますが、生きているのでしょうか。ここに居る事が、誰かの迷惑になっているのでしょうか。母や御客様には生きている価値があるのに、私には無いのでしょうか。その答えに辿り着けないのです。そして私は今でもあの背中が忘れられず、何度も夢を見ては苦しい思いをするのです。



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