深淵
四章の31、32話の間あたりのお話です。
本編に入れようと思ったんですが、入れられなかったお話。
「っ……!!」
低いうめき声が響く。
男は髪の毛から除く瞳でぎろりと影を睨んだ。その口元からは特徴的な八重歯が覗いていた。
手と足を縛ったその張本人である影は、静かにその姿を見下ろしている。
「これで動けないよね。まったく、暴れるなんてことするからだよ。そんなことしなきゃ、もう少し自由でいられたのに」
「おい、俺は仲間だろ!? なんでこんなことするんだよ!?」
あの少女に斬りかかったとき、背後から振り下ろされた刃。
それはまっすぐに自分へと向かっていたのだ――なんの躊躇もなく。
その剣を握っていたのは、今目の前で無表情にこちらを見つめている青年である。
「民は殺すなって言ったよね? 関係のない人を巻き込むなって。何勝手な指示してるの?」
「た、多少はそうやった方が相手に隙が生まれるんだよ!」
小首を傾げるその姿は、ぞっとするほど恐ろしい。
心のうちが読めなく、何を企んでいるのか思っているのかわからない。
暗い闇をその身に纏っている青年は、まるで自身が闇そのもののような。
「狙いはひとりだ。勝手なことをするな」
「……っ」
男――ネウスは自分が置かれている状況に歯噛みした。
手当てはされているものの剣を握り戦える状態ではなく、さらにこの空間である。
地下に設置されたというここは窓一つない、湿った空気が漂う地下牢であった。
こんなものがカルティア城にあったなど聞いていない。
ずっと昔の戦いの名残か、長い間開かれることのなかった牢は暗く淀んでいる。時折どこからともなくやってくる風に、壁に沿って並んだ灯りが小さく揺れた。
悪趣味な、とネウスは胸中で毒づく。
「狙いは一人。だったら最初からそいつを狙えばいいだろ。こんな回りくどいことしなくても……」
地に伏せ、ネウスは鈍く痛む腹を庇いつつ目の前の影を見上げた。
「回りくどい? まぁ確かにそうかもしれないけど……でもさ、これって必要なことなんだよね。わかる?」
「なにが……」
「あいつが俺に与えた痛み以上のものを味わってもらわなきゃ。じゃないと意味ないでしょ? 絶望を、悲しみを――俺が感じた以上に味わって。死を望むくらいに」
ゆるりと口元が弧を描く。
その姿に、ネウスはぞっとした。
得体の知れない、深く暗い――まるで深淵そのものが己の中にあるような青年。
「おいおい……いいのかよ、そんなこと言って。カルティア国第二王子、ロイアともあろう奴が」
「たまたま王の息子だったってだけ。不可抗力だよ。そこを突くのは趣味悪いんじゃない?」
どっちがだ、と言いかけたネウスは慌ててその言葉を飲み込む。
青年――ロイアは漆黒に染まった自身の髪を掻く。
「あぁ……もうめんどくさいな」
ぽつりと呟いた瞬間、ネウスの目に白く光る何かが映った。
それは鋭く、ネウスの命を刈り取るには一瞬であろうもの。
「ねぇ、知ってた? 俺がクラリドに情報を流していて、今回の騒動の首謀者だってこと。ごく一部の人間しか知らないんだけどね」
「……それが、なんだよ」
ネウスは息を呑む。
灯りに反射して、不気味に光る剣をもてあそぶロイアはぞっとするほど感情が読めない。
ゆらりゆらりと壁に沿った灯りが揺れ、そのたびにロイアの顔に影を作る。
「そのほとんどがね、死んだんだ。――クラリドの王も」
「っ!?」
いつの間に、とネウスは驚きに目を見開く。
クラリド国の王といえば、普段は常に椅子に腰掛け部下の報告を聞き、指揮を執るだけのような生活をしている人だ。
一度だけ会ったことはあるが、国王というだけあり威圧感はたいしたものだった。腰に下げられた剣も飾りとは思えなく、さらに彼を囲む兵士たちもまた一筋縄ではいかないであろうと思うほど。
「お前……」
「あぁ、違うよ。俺が手にかけたんじゃない。もともと病を患ってたんだよ」
「病? そんなこと、誰も――」
「知らなかっただけでしょ。あの男、うまく隠してたから。今頃突然死んだから、みんな慌ててるんじゃないかな」
その情報がここにいる兵士に届くのにどれほど時間がかかるのか、とロイアは思う。
国王が死んだとカルティアに情報が渡れば一気に攻め込まれる可能性がある。仮に悟られないとして、けれどそれを知った自国の兵士たちの士気はどうなるだろうか。
国を、人々をまとめる人物を一瞬で失った彼らは。
「ま、これで俺がやったことを知る人物はいなくなった。――あとは、あんただけ」
そう言って微笑むロイアの手に握られている剣は、何の迷いもなくネウスに向けられていた。
「あぁ、大丈夫。心配しなくても、ちゃんと運んであげるから。……彼女が、きっと見つけてくれるよ」
視界が、白く染まる。
強い衝撃が体を走り、ネウスは息苦しさと鈍痛に顔をしかめた。口から発するうめき声はかすれ、もはや呼吸をすることもままならない。
「ようやく、この時が来た。――さあ、会いにおいで」
重い瞼を震わせていたネウスは、その言葉が聞こえたと思ったのと同時に意識が途絶えた。




