とある日の午後
ここからは番外編となります。一話完結型です。
「おい、正気か!?」
耳に届いた言葉にジャンソンは目を剥いた。
何か話があるからと、いつもなら城の食堂でのはずの酒をわざわざ自室で呑んでいるのだ。
そうジャンソンに言ったのは、目の前で困惑しているへリックである。
「それはこっちの台詞だぞ、ジャン。お前、結婚する気はないってどういうことだよ」
「そのままの意味だ」
手に持っていたグラスを木製のテーブルの上に置き、ジャンソンは視線を逸らした。
この部屋は隊長とだけあって普通の兵士のそれより広い。けれど彼の部下たちは何人かに別れて相部屋をしているにもかかわらず、ここの広さと大して変わらないように思えるし、何よりジャンソンにとって部屋は休むための場所だ。
十分に休息をとり、睡眠が取れる部屋であれば広さはいとわない。そのせいか彼の部屋の中は簡素で物が少なく、相手と呼べる人の気配すらしなかった。
「お前なぁ……許してくださったんだろ、陛下は」
「そういう問題ではない」
へリックの言葉にジャンソンは首を振る。
――ウィルと仁和がこの世界に帰ってきてからいくらかの月日が経った。
陛下が帰還したと喜ぶ兵士たちを横目に、ジャンソンは彼に謝罪した。
ウィルが心を壊す羽目になってしまった原因を作ったのは、まぎれもなく自分自身なのだと。
前王である彼の側近だったジャンソンは、父を失ったウィルを支えようと心に誓っていた。
けれど、自分が〝ニナ〟にあんなことを言ったから――そのせいでウィルだけではなく仁和のことも傷つけたと、ジャンソンは陛下に頭を下げた。
長い間胸の内で謝罪し続けた出来事は、思ってもみなかった優しげなウィルの言葉であっさりと許されてしまった。
構わない、と。
すべては俺のためにしてくれたんだろう、そして今までずっと気に病んでいたのだろうと。
今までとは違う、どこか晴れた微笑みにジャンソンは体の力が抜けるのを感じた。
「……俺が幸せになるのは」
「いいだろ、別に。陛下だって幸せになられたんだ」
「いや、俺は――」
「あぁもういい! お前、そんなこと言ってたら一生結婚できなくなるぞ! いいから見合いの一つや二つ受けてこい!!」
力強くテーブルにグラスを叩きつけ、へリックはそのまま立ち上がりジャンソンに向かって指を突きつけた。
「俺が見繕った相手が嫌なら自分で探せ! ただし、期限は決めるからな!!」
「おい、俺のことを好くようなやつなどいるわけ――」
「いいから行け、今すぐ!」
へリックは叫ぶジャンソンを無理やり部屋から追い出し、相手が見つかるまでは帰ってくるなと微笑みながら告げて手を振った。
そして返事も待たずに扉を閉め――へリックは深く息を吐いた。
「……まったく。こうでもしないと動かないからなぁ。陛下も心配しておられるし」
でもまぁ大丈夫だろ、と一人呑気に呟いて、へリックは部屋の中に戻り残った酒を呷った。独特の風味が口の中に広がり、へリックはテーブルの上に置かれた香辛料のきいたつまみを口の中に放り込んだ。
「お、うまい。これ」
どこで手に入れたんだと思いながら、へリックは再び皿へと手を伸ばした。
――広い廊下が、やけに慌ただしく感じる。
ジャンソンは眉をひそめながら歩いていた足を止め、周囲を見渡した。
考え事をしていたせいか、気付けば食堂の方向へと向かっていたらしい。いつもなら比較的人の少ない通路であったが、なぜか今日は騒がしかった。
「おい、何があった」
近くにいた兵士を捕まえて問いただす。
あの事件から月日は経ったが、いまだ油断はできないというのがジャンソンの見解だ。常に警戒は緩めず過ごせと部下にも言ってあるのだが――兵士は眉間にしわが寄っていくジャンソンに慌てて首を振った。
「ち、違います! 敵兵ではなくて……その、酒を飲んで酔っ払った兵士が暴れておりまして」
語尾が小さくなっていくのは、その兵士が自分の連れだったからだろう。
申し訳なさそうに縮こまる兵士にため息をつき、そしてあたりにいる何人かの兵士や侍女が揃って食堂の方を伺っているのを見てはっとした。
「おい、そいつはどこで暴れてるんだ」
「しょ、食堂です。さっきまでそこで飲んでいたのですが……あまりにもひどくて」
逃げ出してきた、と続ける前にジャンソンの体は強く廊下を蹴っていた。
食堂にはマザーがいる。
一瞬脳裏に浮かんだ彼女の姿に、ジャンソンは気付けば食堂の扉を蹴るようにして開けていた。
「マザー!!」
扉を開けて、ジャンソンは息を呑んだ。
食堂の中は見るも無残なほど荒れ果てていた。床にはグラスの破片と皿やビンなどが転がっており、テーブルはわずかに動き、椅子は離れた場所にまで倒れているものもある。
これは一体、と思わず固まってしまったジャンソンは低く呻くような声にはっとした。
見ると、床の上で男が顔をゆがめて身じろいでいる。そしてそれを押さえつけているのは、不思議そうな顔をしたマザーであった。
「あれ、どうしたんだい?」
きょとんと小首を傾げたマザーは、再び暴れだそうと体に力を入れた男を難なく押さえつける。地面に伏せられた男は酒の匂いを口から漂わせながら苦しそうに呻く。
荒れた空間の中には酒の匂いと、それに混ざるようにしてわずかに料理の匂いが漂っていた。
「……兵士が、暴れていると聞いたんだが」
「あぁ。酒を大量に飲んじまってね。それを捕まえるためとはいえ、食堂の中がこんなになっちゃって」
「怪我は……」
「怪我? ないよ。酔った男一人押さえつけられないで、食堂を一人で切り盛りできるはずがないだろう?」
そう言って笑う彼女に、ジャンソンは力が抜けたようにそうだなと呟いた。
「これ、どうする? なんなら酔いが醒めるまでここで預かろうか?」
「いや、いい。俺が連れていく」
「そう。あ、でも起こしたら伝えといてくれよ。食堂の掃除、全部させるんだから」
「あぁ。伝えておく」
楽しげに笑う彼女にうなずくと、ふとジャンソンは小首を傾げる。
なぜこんなにも自分は焦っていたのだろうか。
恰幅のいいマザーは兵士たちの話を親身に聞き、時に優しく、時に厳しく――けれど酔った挙句暴れ散らす相手に対しては問答無用で床に伏せさせるのである。
そんな場面は何度か見てきたはずだったのに。
なぜか脳裏に彼女の姿を浮かんだ途端、体は勝手に動いていた。
ジャンソンは己の行動に疑問を覚えて胸中唸りながら考えていると、
「ま、心配してくれたのはありがとうね」
と、マザーがにっこりと微笑んだ。
「……次暴れてたら俺を呼べ。こってり絞ってやる」
「頼もしいねぇ」
けらけらと笑い声を上げるマザーは、再び起き上がろうとした男をさらに押さえつけた。
「こら、暴れるんじゃないよ。まったく、いい年した大人が酒の量も制限できないのかねぇ」
「時には羽目を外したい時もあるんだろう」
「それは周りに迷惑をかけない程度にってことじゃないのかい?」
きっぱりとジャンソンの言葉を切り捨てた彼女に、酔っぱらいの上官である男は苦笑した。
――四十一歳、妻なし子どもなし。
あまりに女の影が見えないため、へリックをはじめとした同僚や部下たちが揃って心配しているのも知らずに、ジャンソンは日々鍛錬に明け暮れていた。
そのため今回へリックは強硬手段に出たのだが――もしかすると、相手は意外と近くにいるのかもしれない。




