<34>
「……え?」
一瞬暗転した視界は眩い光とともに戻ってきた。
数回瞬きし、仁和は自分の周囲を見渡して呆然とした。
「なんで? なんで、私……」
等間隔に並んだ、木でできた机と椅子。板張りの床に、綺麗に掃除された緑色の長い板。少し埃っぽく、けれど独特の空気を感じさせるここは教室であった。
遠くからは懐かしく感じるほどの喧騒や、吹奏楽部が練習している名も知らぬ曲が聞こえてくる。
教室の隅にかけられている時計を見ると時刻は少ししか変わっていない。
「……どう、なってるの?」
視線を落とすと、見慣れたコートとマフラーに着慣れた制服。
先ほどまで身につけていたはずの血と雨水に濡れたドレスや胸元を飾る蒼い石も、手にしっくりと馴染む剣も、どこにも見あたらない。
――すべてが、夢。
まるでたちの悪い夢を見ていたのかと思うほど、〝いつも通り〟の光景に仁和は眩暈がした。
けれど、そんなはずはないのだ。
「帰らなきゃ。ロイアが、ウィルを……」
そこまで口にし、仁和は最悪の状況を思い浮かべてぞっとした。
あの状態では剣をよけることすらままならない。
研ぎ澄まされた刃が無抵抗のウィルに突き刺さる。そんな光景が脳裏を掠めた瞬間、仁和は靴下越しに感じる冷たさにも構わず強く床を蹴っていた。
廊下を駆け、階段を数段飛ばしで駆け下りる。向かう先は――仁和がもしかしてと思っていたあの場所。
靴を履くことにすら苛立ちを感じながら、仁和は蹴飛ばす勢いで昇降口を出た。練習している運動部員たちを横目に校門を抜け角を曲がり、少し細い道を全力で駆け抜ける。
懐かしささえ感じさせる景色が流れるように瞳に映り――そうしてたどり着いた場所は、ひとつの丘であった。
大きな木が一本だけ立ち、地面からは風に踊る草が生えているだけの丘。
口を開くと、白い息が漏れた。
「ロイア、ウィル……」
やはり、あの場所はここだったのだ。
実際に訪れたことはなかったが、教室の窓から見える一本の巨木が目立つ丘だった。
くしゃりと、草を踏む。
汚れることもいとわずに仁和はしゃがみ込み、強く双眸を閉じた。
「帰してっ……」
助けたかった。救いたかった。
自分にその力があるのなら。
幼いころから憎しみの中で生き、いつしか心までを闇で染め上げた少年を。
彼の時間はあの頃で止まったままだ。
「お願い、帰して……っ。助けなきゃ、あの二人を――」
「大丈夫。二人とも無事だ」
その刹那、ありえない人物の声が耳に届く。
幻聴かと思いそろりと顔を上げた仁和は、声のした方向を見やり息を呑んだ。
唇が震え、瞳が揺れる。
「怪我は負ったが……このとおり、問題ない」
両手を広げてみせる彼――ウィルは呆然とする仁和に微笑んだ。
あまりにもこの場に似つかわしくない服装をしたウィルは、さわさわと冷たい風を受けて踊る草を踏みしめた。
「……ウィル?」
「あぁ」
「な、んで? どうしてここに……」
「前に言っただろう? グランディが歪みの研究をしていると。まぁ、今回のはかなり無茶な賭けだったが」
やはりまだ調査段階だったなとひとりごちるウィルは座り込む彼女に手を差し伸べた。
わずかに目元が潤んでいる仁和は、おずおずとその手に自身の手を重ねた。
「ロイアも問題ない。……あぁ、この話はまた今度にしよう。――仁和」
そっと、優しげな仕草で仁和を立たせたウィルは、ふわりと微笑む。
「お前が、あの時の〝ニナ〟だったんだな」
「……ぁ」
じわり、とウィルの顔が歪む。
「すまなかった」
濡れた目元を拭う指先とともに降ってきた言葉に、仁和は首を振る。
「似ていると、思ってたんだ。行動も、言葉も……だからこそ、そばにいてくれるだけでよかった。〝ニナ〟の面影を感じられるなら」
首を、振る。
「心の隙間を埋めるために側室を迎えたが……結局何も埋まらず満たされず、側室の女を正室に寄こすこともしなかった」
いくらか女を入れ替えたが何も変わらず、満たされないと悟ったウィルは数年前に側室を迎えることすらしなくなった。
それからはただ、〝ニナ〟の幻影を追いかけて。
「似ている仁和を婚約者としてそばにおけば、ずっと一緒にいられると……浅はかに考えたから罰が下ったのだな」
仁和、とウィルが囁く。
「傷つけて、気づいてやれなくてすまなかった。……こうまでなっても、まだ傍にいたいと思う俺を許してくれ」
温かな雫が頬を濡らす。
仁和は濡れたまつげを揺らしながらウィルを見上げる。
――すべてを思い出した時、ウィルに気づいてくれなくてもいいと思った。
自分のせいで心が完全に壊れてしまったのなら、今さら手を伸ばす資格などないと思ったから。
けれど優しげな蒼瞳に見つめられて、素直に嬉しいと思う自分がいた。
重ねられてではなく、仁和自身として見られるというのがこれほど嬉しいのだと――過去の〝ニナ〟本人なのだと気づいてもらえるのが、これほど心震わすものなのだと初めて知った。
傷つけないために、彼から離れたはずだったのに。
仁和は小さく苦笑し、そしてウィルを見つめて淡く微笑んだ。
「あのあと、どうなったのか……教えてくれる?」
「――あぁ。みんなも、会いたがってる」
帰ろう、と微笑むウィルの手を力を込めて握る。
そして肩越しに振り返り、丘から見える景色に目を細めて心の中でそっと囁いた。
さようなら、第二の故郷。
もう二度とここに来ることはないけれど――家族も友達も、過ごした環境も大切なものだった。
たとえそれが偽りの記憶であったとしても。
帰ろう、と仁和は隣に立つウィルに微笑み返した。
帰ろう。
みんなの待つ、あの場所へ。
――ウィル王とその婚約者が無事に帰還し、それから約一年後。
二人は皆に祝福されながら生涯の契りを交わした。
そして長らく姿を見せなかった第二王子は、兄の慶事に将来の伴侶となる相手を連れて王城へと帰った。
兄弟の関係は完全に修復されたわけではなかったけれど、王子は国王である兄を傍で支え続け、そしてまた自身も思いもよらぬ幸福を手に入れた。
長い長い、憎しみの果てに。
歪んだ苑の、片隅で。
=終=




