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緑の草を踏みしめる。
目の前には大きくそびえ立つ一本の木があり、時折その葉が視界を掠めた。
「思い出したんだ?」
その木の前でこちらに背を向けて佇むのはロイアである。
彼の向こう側には徐々に太陽が顔を出しつつあり、温かな色の光が夜空を包んでいた。
仁和はいつの間にかいなくなったティアーナの姿を探してちらりと周囲を見るが、ここにはロイアと自分しかいなかった。
ついて来るかと問うた彼女を追いかけていると、いつの間にかここにたどり着いたのだ。
あの始まりの場所に。
「ロイア」
くしゃり、と草を踏む。
未だに背を向けたままのロイアは、小さく肩を揺らした。
「聞いたんでしょ? 兄上が何をしたのか。あの時の二人、何か雰囲気が違ってたし」
「聞いた。全部。……ウィルが、ウィルとロイアの両親を殺した理由も」
「それだけ?」
「え?」
「……そう。へぇ、やっぱり」
くつり、とロイアが喉を鳴らして笑う。
仁和は困惑した瞳で眼前の青年を見るが、その後姿はただ小刻みに揺れるだけだった。
夜明けの光を受けたその姿はぞっとするほど不気味で、けれどどこか儚げで。
心を闇で染めた彼はあまりにも脆く、何かの拍子に壊れてしまいそうな――思わず手を伸ばしそうになった仁和は、後ろから聞こえた音にはっとして首をひねった。
「……ウィル? どうして、ここに」
見張ったその目に映るのは、いつかに見たあの光景と同じ。
息を切らして走ってくるウィルの髪は乱れ、揺れる瞳で二人を見ていた。その近くには兵士さえもいなく、一人でここにやってきたのだとわかった。
どうして来たのだ。彼を、危険な目にあわせたくはなかったのに。
仁和は眼前に走り寄るウィルを見て唇を噛んだ。
「無事か、二人とも」
「……無事? よく言えるよね、その口で」
「ロイア? お前、怪我は……」
ないのか、と問おうとしたウィルの言葉はそこで途切れた。
肩を揺らしながら振り返るロイアは、ぬるく笑っている。
「兄上。俺さ、あんたが嫌いだったんだよ。――ずっと、憎くて憎くてたまらなかった」
ぽつりと吐き出される言葉は、暗く歪んでいた。
ウィルは目を見開き、そろりと一歩踏み出す。
「来るな!!」
びくりと仁和とウィルの肩が震える。
まるで咆哮のような、憎しみの塊のような声。
「お前が、全部……」
ロイアが剣を引き抜き、とっさに剣を構えた仁和の手をウィルがそっと抑制する。
「ロイア。お前が俺を憎んでいたのは――」
「そんな理由、お前が知るわけないだろ? 都合のいいことだけ覚えて、アンナのことさえも忘れて……!!」
九歳の時、下町に住むアンナをウィルに会わせたことがあった。
けれど、そのアンナはウィルの手によって殺されたのだ。何の感情もなく、無表情に、ただ。
呆然と立ちすくんだロイアを押しやって、ウィルは臣下たちにすべてを片付けさせた。多く理由は語らず、ただ必要だっただけだと。
アンナの遺体は勝手に処理され、ロイアはその後二度と会うことすら許されなかった。
墓さえも、作らせてはくれなかったのだ。
そして。
ウィルはニナと出会い、幸せに日々を過ごしていた。
「……ロイア、俺は」
「母上と父上まで手にかけて、アンナまで殺して! その上仁和と幸せになろうって!? 俺からすべてを奪ったお前が!!」
そんなこと、許されるわけがないだろう。
幸せに過ごす兄を見ては心に暗く淀んだ感情が湧き上がり、どうすれば自分と同じ悲しみを、絶望を味わらすことができるだろうかと考えていた。
ずっとずっと、何年間も。
ふつふつと湧き上がる黒い感情がなくなることはなく、いつまでもそれは止まらなかった。
「でも、もう終わりだ。全部」
がしゃり、とロイアは剣を構える。
以前仁和にウィルへの献上品のひとつだと語った、まるで飾り物のような剣は鋭く光っていた。
――初めは、〝ニナ〟を失えば絶望するかと思った。
大切な人を失う悲しみを知り、死を望んで、ロイアの思うままに虚ろに生きていくのだと。
けれど、そうはならなかったのだ。
彼女がいないながらも周りに支えられ、以前と同じようにはいかなくても一人で立っていた。さらには、複数の側室まで迎えて。
それが許せなくて、次はカルティア国に争いの火種がついた時。あわよくばウィルの首を取れるかもと思ったのだ。
しかしそううまくはいかなくて、今度はティアーナを使って〝仁和〟をこの世界に呼び戻した。
記憶はそのままで、ウィルのことなど忘れた状態で。
クラリド国と繋がりを持ち、情報を流し城を襲わせた。
そこでもウィルの首を取れたらと思ったけれど、案の定難しく――ロイア自身が、手にかけることにしたのだ。
「ロイア」
剣の切っ先を向けられたウィルは、憎悪を隠しもしない目の前の弟を見つめた。いつの間にか同じ飴色だった髪を黒へと染め、外見のそれとは違う大人びた思考を持っていた彼。
――何かがずれていたのは、自分だけではなかったのか。
母を殺した時、自分の中で何かがずれた。
そしてニナを失った時、心は完全にずれてしまったのだ。
よくない方向へと、心が歪んだ。
過去にニナに自分がしたことを語ったけれど、歪んだ心が元に戻ることはなかった。
「ロイア。俺は、幸せだった」
心がずれ、それでも無意識にニナの姿を探していた。
そんな中、〝仁和〟と出会ったのだ。
〝ニナ〟とそっくりで、けれどどこか彼女よりも弱く、しかし剣を握らせれば彼女同様自分の分身のように扱う。
仁和と重ねた、目の前で失うこととなってしまった彼女とは違う、生きた人間。
だからこそ、せめて生きていてくれと。
彼女と同じ容姿、性格で――決してニナ本人ではなくとも、生きていてさえくれればいいのだと。
自嘲めいた考えの中で、以前と同じようにはいかずとも幸せだった。
恵まれていたのだ、自分は。
こんなにも恨まれて、憎しみの感情を向けられていた中で。
だったら。
「この命、罪を償うのに使っても悔いはない」
ウィルはロイアに向かって一歩足を踏み出す。
「ウィル!? だめ、ロイア待って!」
はっとした仁和は二人の間に体を滑り込ませる。ちょうど、ウィルを背で守るようにして。
「……滑稽だね、兄上。この期に及んで女の子に守られてるなんてさ」
「ロイア! お願いだから、やめて。もっと、違う方法があるでしょ……? どうして、ロイアも幸せになれない道を選ぶの?」
わずかに目を見張ったロイアは小さく笑い、剣を構えなおす。その切っ先は仁和に庇われたウィルである。
「さすがだね、仁和。でも、君を傷つけるつもりはないんだよ。ただ巻き込まれただけの被害者だって思ってるよ」
だからどいて、と剣を向けるロイアにただ仁和は首を振る。
「いや」
ここをどけば間違いなくウィルに剣を向け、その後自分も――。
どうすればいい、どうすれば二人を助けられる。
絡み合った二人の思いを、どうすれば元に戻せるのだろうか。
両親と大切に想っていた少女を奪われた弟と、それを奪い弟の憎悪を受け入れんとする兄。
「……もう、やめて」
そんな二人が心通わすことなど、この先ないのだろうとわかっている。
しかし、だからと言ってこんな風に兄弟で争わないでと仁和の心は悲痛に叫ぶ。
「ロイア」
もっと、別の道があるのではないか。
そう思って考えを巡らすが、二人の関係を正す方法は何一つ思い浮かばない。
「……無理だよ仁和。わかってるでしょ、本当は。だから――」
大きく剣を振りかぶったロイアに仁和ははっとし、背後に立つウィルを庇うように手を広げる。けれどその瞬間大きな衝撃を受け、突き飛ばされるような形で右に体が倒れた。
「……っ!?」
自身の体が行き着く先は、先ほどまでなかったはずの大きな〝歪み〟だった。
いつの間に現れたのか、以前と変わりなく禍々しいそれに仁和は息を呑む。
ウィル、と呼ぶ声がかすれた。
とっさに視線を巡らすと、仁和を突き飛ばした状態のまま静止したウィルと、その彼に向かって鈍く光る剣を振り下ろすロイアの姿があった。
すべてが、ゆっくりに見える。
歪みに吸い込まれるようにして、体が傾いていく。
「ウィル……!!」
懸命に手を伸ばし、そして悲痛な叫び声はぶつりと途切れた。




