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歪みの苑  作者: みづき
四章
72/82

<32>

 ざわり、と少し冷えた風が頬を撫でた。

 重なり合った木々がせめぎあう森は、夜目がきかなければまともに歩くこともできないだろうと思うほど闇に染まる。

「ウィル様。お体に障ります」

 漆黒に染め上げられた空を見上げていたウィルは、背後からかけられた声に首をひねった。

「グランディか」

 暗闇の中にまぎれて、今にも消えてしまいそうな印象を感じさせるのはグランディである。心配そうな瞳を向けるグランディに、ウィルは首を振った。

「気にするな。今は寝るよりもこうしてた方が気も紛れる」

 物言いたげな彼から目をそらして、再び視線を空へと向ける。

 くっきりと、漆黒の中そこだけが浮かび上がったかのように明るいそれは月だ。それも、綺麗な満月だった。

 何の感情もなくそこに存在しているそれは、静かに二人を照らしている。

 ――母は、月が好きだった。

 誰も訪れぬ夜は空を見て過ごしていたと聞く。月を眺めるのは好きだったため苦痛ではなかったらしいが、ウィルはただそれを見続ける毎日は退屈だっただろうと感じた。

 しかしこうして母に習い、月を見ていた時もあったのだ。母が月を見て何を思い、感じたのかを知るために。

 結局それはわからなかったけれど。

「……兵は」

「万全でございます。夜明けと同時に、城へ踏み込む準備もできております」

「そうか」

 夜明けと同時に、城へと踏み込む。

 あと少し。あと少しで彼女に――

「ウィルっ!!」

 瞬間、ここにはいないはずの声が鼓膜を震わせた。

 反射で声のした方向を見やると、そこには剣で木々を避けながらこちらへ駆け寄ってくる仁和の姿があった。

 後ろ髪を引かれて別れた時と同じ、血と水分を含んで重くなったドレスで懸命に足を動かしている。乱れた髪に構うことなく突き進むその表情はかすかに青い。

「仁和!?」

「仁和様っ」

 ぎょっとするグランディを横目に、ウィルは仁和へと駆け寄る。

 腕を伸ばし、その体を引き寄せて掻き抱いた。

 荒い息を繰り返す彼女を抱きしめて、その柔らかな感触に安堵の息を吐いた。

「無事か、仁和」

「……うん」

 こくりと頷く気配がして、ウィルは抱きしめる腕の強さを増した。

「……サリーは、無事?」

「あぁ。もう大丈夫だ」

「サスティは? ちゃんとサリーを守ってくれた?」

「片時も傍を離れず、彼女の手を握ってた」

「ケトルは、ジャンソンは……みんなは」

「今は体を休めてる。だから心配しなくていい」

 そう、と仁和は安堵の息を吐く。

「ウィル、聞いて」

 そしてそっと仁和はその腕を放させ、ウィルを見上げる。

 月の明かりでわずかに浮かび上がったその顔は、安堵の表情に満ちていた。

「……仁和?」

 言葉に詰まった彼女にウィルは小首をかしげる。仁和は口を開き、わずかに逡巡した後唇を小さく震えさせてから声を発した。

「ロイアが……」

「ロイア? 会ったのか?」

「……うん」

 そうか、と安心した声が降ってくる。

 仁和は揺れる瞳を隠すようにぎゅっと目を閉じ、顔を俯かせた。

「ウィル、ごめん」

「仁和?」

「兵は、もう少し待って」

 ぴくり、とウィルの体が揺れた気配がした。

「どうしてだ? もう兵士は動かせる、準備もできてる。何なら今すぐにでも――」

「ウィル」

 強く、目を瞑る。

 ――その手に触れている腕は、先ほどまで自身を抱きしめていてくれたものだ。

 温かく、そしてなによりその中に包まれているだけで心強かった。

 この腕が、他のどこよりも安全なのだと知ってしまった。

 けれど、だからこそ。

「ウィル」

 少し背伸びをして、仁和は自身の唇をウィルの唇に重ね合わせた。

 それは掠めたといってもいいほど、一瞬のこと。

「ごめんね」

 守りたいのだ。ウィルを、そしてロイアを。

 驚きに目を見開く彼を見つめて、仁和は淡く微笑んだ。

「ありがとう」

「待て、仁和っ!!」

 身を翻した仁和にとっさに手を伸ばすが、あと少しのところでそれは空を掻いた。

 暗闇なのをいいことに、仁和はウィルに見つからないよう森を駆ける。剣で邪魔な枝や葉を避け、時折頬を掠める枝にも気にせず突き進んだ。

 そして再びカルティア城へ足を踏み入れ、異様なほど静かな空間に眉をひそめた。

 人の声も、物音さえしない。

「私がいなくなってたの、ばれてない……? でも、そんなはずは……」

 確かに部屋を出るときも、廊下を駆け抜けた時でさえも誰一人として出会わなかった。

 あれだけの敵兵がいたにもかかわらず。

「何が起こってるの……?」

 仁和は小さく震えた肩を抱き、壁に沿って揺れる灯りを頼りに足を進める。

 鈍い鉄のような臭いが鼻につき、少し淀んだ空気が漂う城内はたった一瞬で闇に染め上げられた。

 周囲に気を配りながら角を曲がり、長い廊下に入ると一段と腐臭が濃くなる。むせ返るような臭いの中、床には敵か味方かわからないような兵士たちが真紅の花を咲かせながら顔を歪ませていた。

 それらを踏まないように気をつけながら歩くと、ふいに新しい血の臭いがした。

 まだ、腐臭はしていない。

 仁和は首をひねり、臭いのする方向にあった扉を勢いよく開ける。

 誰かが生きているかもしれない。そんな希望は、部屋に入った瞬間崩れ去った。

「……ぁ」

 目を見開き、仁和は愕然とその場に立ち竦んだ。

 床に伏した男――ネウスは、気味が悪いほど真紅に染められていた。頑なに握られた手には乾いた血が付着している剣があり、せめてもの抵抗だろう床にはわずかに体を引きずった跡がある。

 服に吸い込んだ血はまだ赤い。手をかけられてからまだそう時間は経っていないだろう。

 息があるのか確かめることすら意味もなさないほど、赤に染まったその姿。

「こんなの……これも、ロイアがやったの?」

 ぐらりと、足元が崩れる感覚がする。

 あたりはどれほどの人が亡くなったんだと思うほどの血臭に染まり、空気は淀んで重たい。

 息を吸い込んでも新鮮な空気が得られず、仁和は苦しさに喘いだ。

「……止めなきゃ。だめ、こんなの」

 カルティア国を落とし、その先は何をする気なのか。

 これ以上の地獄絵が待っているというのだろうか。

 仁和は部屋を飛び出したその瞬間、視界に白い何かが掠めて仁和ははっとした。

 小さな灯りに照らされる城内に目を凝らし――仁和はとっさに声をあげた。

「待って!!」

 しんと静まり返った城内に仁和の声が響き渡る。床を強く蹴った仁和は、視界をかすめた白いそれを追いかける。

「待って! ティアーナ!!」

 なぜ彼女がここにいる。

 謁見に訪れた彼女はまだ城を出てはいなかったのか。

 可愛らしく微笑んで、祝福の歌を奏でる彼女は――ウィルの背中を押して歪に微笑んでみせた、少女だ。

「ティアーナ! 待って、ティア……!!」

 世界の終焉、そう名乗った彼女を必死で追いかける。

 ――ずっと、付きまとっていた違和感があった。

 幼いころからの記憶も、家族も友達も。生まれ育った場所での思い出もたくさんある。

 けれど、なぜかふいに感じる違和感は仁和を不安にさせた。

 知っている場所なのに、知っている人たちなのにどこかが違う。もっと自分は違う場所にいたのではないのか、違う人たちとともに暮らしていたのではないのか――そんなことが頭から離れなかった。

 しかし、ようやくわかったのだ。

 どうして違和感を覚え、あの教室での〝歪み〟を懐かしいと感じたのか。

 仁和は大きく息を吸い込みながら懸命に足を動かす。

 暗闇に包まれた廊下は目を凝らさなければ周囲の様子を探ることは難しく、夜目に慣れている仁和でさえも苛立ちに顔をしかめた。

 大声で叫んでいるのだ、いつ兵士が気づいてやってくるかわからない。

 けれど、ティアーナがそこにいた。

 以前と同じく、ロイアと何らかの関わりを持っているのであれば。

「あぁもう、そんなに大声で叫ばないでくれる?」

 刹那、背後で鈴の音のような声がした。

「ティアーナ! ロイアはどこ!?」

 がしゃりと剣を構え、仁和はティアーナに向き直る。

 闇の中でそこだけ浮き上がるような白い服を身にまとった少女は、以前となんら変わらぬ容姿をしていた。

 ティアーナはふっと口元に笑みを浮かべる。

「ついて来る?」

 小首をかしげて誘うように問いかける彼女に、仁和は迷わず頷いた。それを見てわずかに目を瞬いたティアーナはひらりと身を翻す。

 それを慌てて追うと、ティアーナは仁和が入ったのとは違う、普段あまり人が使わなかった門を使った。

 ここも開いていたのかと思っていると、仁和はあたりを見渡して目を瞬く。

 漆黒だと思っていた周囲は少し明るさを取り戻しつつあった。

「日が……」

 遠くでわずかに沈んでいたはずの光が見える。

 仁和はぎゅっと口元を引き結び、大きく足を踏み出した。

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