<30>
――ニナはゆるりと双眸を開ける。
「ど、こ……?」
あたりは暗く、何も見えなかった。
そして自分が立っているのか座っているのかもわからないそこは、まさしく無であった。
「わ、たし……そうだ、ウィルは」
一瞬の判断だった。
ティアーナがいないと思ったのと同時にウィルの背後にいた彼女は、彼の背中を押すようにして立っていたのだ。
歪みの中に入れるようにして。
それを見た途端ウィルを突き飛ばしたはいいものの、その代わりにニナが歪みの中に入ってしまった。
――何かあれば陛下の代わりに。
ジャンソンに何度も囁かれた言葉が、ふと脳裏を掠める。
もっとも、ニナ自身も何かあったときはそのつもりだったが、まさかそれが今だとは夢にも思わなかった。
「気分はどう?」
鈴を転がしたような声が聞こえ、ニナははっと顔を上げた。
「そのぶんだと大丈夫そうね」
漆黒の中に立つ少女の周りだけがぽっかりと浮かび上がったように明るい。白い服を身にまとい、整った顔立ちを笑みの形に歪めているのはティアーナである。
「……ティアーナ。ここはどこ、あなたはなんなの」
「思ったよりも冷静ね。つまんないの」
「冷静じゃないから聞いてるの」
強く睨みつけると、ティアーナは少し考える素振りをして小首をかしげた。
「入口、ってとこかしら。それにしても、あなたよくやるわね。代わりに飛び込むなんて」
「……あなたが、押したんでしょ」
そうなのだ。
ウィルを突き飛ばし、バランスを崩したニナは踏みとどまろうとしたが背中に感じた衝撃でそれは叶わなかった。
それをしたのは、目の前で可憐に微笑むティアーナである。
「でも、まさか突き飛ばすとは思わなかったわ」
面白そうに笑う少女をニナは睨みつけた。
「私を帰して」
「無理ね。だって、ほら」
ティアーナが腕を横に振る。
すると、その空間に何かが浮かび上がった。
円になったそれはゆらりと揺れ、その中に映し出された動くそれらは――人だ。
「ウィル!?」
その中にウィルがいた。豪華な物が惜しげもなく置かれている部屋は、彼の自室である。項垂れたように椅子に座るその姿は痛々しく、なぜか少しだけ痩せている気がした。
声が聞こえる。
――兄上、何か召し上がってください。
嫌だ。何も食べたくない。
……なら、認めたらどうですか。そしたら前に進めますよ。
何をだ。
ニナは、死んだんです。城のみんなが理解してます。わかってないのは兄上だけですよ。
認める? ニナが死んだことを……?
ええ。そのほうが楽になれます。いいですか、兄上。ニナはいなくなったんです。死んだのですよ。
ニナは、死んだ……。もう、帰ってこない?
そうです。もう二度と。兄上の腕で抱きしめることも、その瞳で姿を見ることも叶わないのです。
「ロイア? 何を言ってるの?」
目の前で繰り広げられる会話にニナは呆然と呟く。
ゆらりゆらりとウィルの瞳が揺れ、そのたびにロイアが甘く囁く。
まるで麻薬のように。甘やかに、誘うように――けれど残酷に。
弱ったウィルの心の隙間に入り込む。
「違う、死んでない。ロイア、何言ってるの?」
ここにいるではないか。
場所は違えど、確かに自分は存在している。そして二人の姿も見えているのだ。
ニナは必死に声をかけるが、映像に声が届くはずもない。
次第にロイアの言葉を反芻していたウィルは小さく頷き、その口から言葉がこぼれ落ちた。
――ニナは、死んだ。
目を見開く。
ニナは愕然とし、揺れる瞳で映像を凝視した。
虚ろな瞳でそう呟いたウィルの隣で、ロイアが微笑みそうですよと囁く。
異様な光景。
何なのだ、これは。
「おかしいよ、何なの。ウィルもロイアも、こんな……」
唇がわななく。
そんなニナの姿を見つめていたティアーナは、すっと右手を持ち上げる。
呆然としている彼女に向かってにっこりと微笑むその姿は、まるで天使のようであった。
「さようなら。また、会う時に」
ぱちん、と指が鳴らされる。
その瞬間体に強い衝撃を感じ、ニナは思わず目を瞑った。
「……っ」
大きな白い光に包まれて、ニナは意識を手放した。
――ふわり、と風が体を包む。
優しく、温かな光と風を感じる。
「これさー、一回行ってみたいんだよね! ね、〝仁和〟」
「え?」
きょとん、と目を瞬くと色鮮やかな雑誌を手にしている友人が不満げな顔をした。
その後ろには軒並みそろえた住宅地が広がっている。
「聞いてるの? さっきからぼーっとして」
「ごめんごめん。で、何?」
「これ、行きたいなって話。高校で新しい友達もできたし、みんなで行きたいなぁって。仁和もどう?」
「へぇ……」
ずい、と突きつけられた雑誌に目を落とすと、そこには色とりどりの菓子が並べられている。
洋、和と種類も豊富で、しかも一つひとつが小ぶりなためたくさん食べられるという、なんともありがたいものだった。
最近出たばかりという菓子が一際大きく乗せられていて、さらには実際食べた人からのコメント付き。いつになく力の入ったそれは、宣伝に関係なく思わず足を運びたくなるほどおいしそうである。
「バイキングかぁ。いいね、おいしそう」
「でしょ? 今度行こう。私、全種類制覇するんだから! あ、でもちょっとカロリーが……」
悩みつつも嬉しそうに微笑む友人を見つめ、仁和は内心首をかしげた。
――この少女は、一体誰だったか。
見たことはあるものの、名前が思い出せなかった。
けれど、瞬間脳裏に弾けたようにその名が浮かび、仁和は安堵する。
大切な人なのだ。幼い頃からの友人で、高校まで一緒だったときは二人ではしゃいでいたのを覚えている。
「……あれ、私」
紺色のブレザーを見下ろして、自分はこんな服を着ていただろうかと眉を寄せた。
あたりを見渡せば、見慣れた景色のはずなのに違和感がする。
もっと、違う場所にいた気がした。
違う場所にいて、違う人といて。
毎日大変だったけれど、大切な日々を送っていた。
そんなはずで――
「仁和ー? どうしたの?」
気づけば立ち止まっていた仁和は友人の声にはっとし、その瞬間今までの疑問はすっかり消え去ってしまっていた。
何を考えていたのかも、何に違和感を感じていたのかも。
「ううん、なんでもない」
何も違和感などないのだ。
ずっとここに暮らしていて、大切な家族と友人がいて。
残念ながら彼氏はいなかったけれど、幸せな日々を送っていた――高浜仁和なのだから。




