<29>
昼食を食べ終えたニナは愛剣を掴んだ。
手に馴染むそれをいつもの場所に固定し、服の上から軽く叩く。
「よし」
小さく頷き、ニナは廊下に出た。
予定の時間より少し早いが、それはウィルと一緒に行くのを防ぐためである。
「避けてるわけじゃないけど、会いにくいっていうか」
先に向かうという伝言は侍女に頼んだ。
おそらくもう届いているだろうが、一緒に行くということは避けられるはずだ。
――ウィルの行動が嫌だったわけではない。
けれど、あまりにも突然すぎて頭が混乱しているのである。
「あ、あんなに態度が変わるものなの? むしろ今までどおりのほうが返って嬉しかったような気が……」
ニナは頭を抱え、小さく唸りつつ広い廊下を突き進む。
今はロイアの話のほうが重要だと、無理やりその思考を隅に追いやって、ニナは門番に行き先を告げず城から出た。
――下町を抜け、路地を抜けてたどり着いたのは丘のような場所。
大きな木が一本立つだけで他には何もない、緑が鮮やかな場所であった。
両手を広げても余るほど大きな木の根元には、ゆらゆらと風に踊る草が生えている。
「ロイアまだ来てないの? にしても、どうしてこんな場所で……」
下町とカルティア城を一望でき、広く見渡せるここはニナひとりだけである。
柔らかな風は心地よく、時折緑の葉が宙を舞う。
「教えてあげましょうか?」
瞬間、背後でかさりと音が鳴るのと同時に声が聞こえた。
とっさに剣に手をかけ振り向くと、そこにはあどけなさの残るひとりの少女が微笑んでいた。
「……誰?」
「知らないの? あぁ、教えてないのね。まったく、それでよく……でも、そのほうが都合がいいのかしら」
小首をかしげながらぶつぶつと呟く少女にニナは目を細める。
大きな瞳に小さな鼻、形のよい唇は弧を描く。そこから紡がれる声は鈴を転がしたような音。
風に乗って揺れる黒い艶やかな髪は柔らかそうで、細身の体にはそれを引き立てる白い服を身にまとっていた。
その姿はまさしく美少女といった分類である。
「初めまして、私はティアーナ。あなたに危害を加えるつもりはないわ」
「……どういう意味?」
「だから、あなたには危害を加えない。でも、あなた以外はどうでしょうね?」
綺麗な唇を歪ませて首を傾げるその姿を見て、一瞬の脳裏を掠めたのはウィルの姿。
「あなたも災難ね。こんなことに巻き込まれて……まぁ私は楽しかったからいいけど」
長い間暇だったから、と左腕を持ち上げて少女はそう囁く。
水平に上げられた左手の周囲が、わずかに歪む。
「でも、それもここでおしまい。私の役目も終わり」
空気が、歪む。
少女の左手の周りだけが、何かの意思を持って歪んでいる。
ニナは息を呑み、その異様さに眉をひそめた。
〝歪み〟は暗く、どこまでも深いような――ぞっとするほど気味が悪い。
「あなた、なに!?」
「だから、ティアーナ。……でも、そうね。言うなれば、〝世界の終焉〟」
にっこりと微笑み続けるその間にも歪みは大きくなり、人ひとり分ほどの大きさに変わる。
ぐにゃりと歪むそれは底沼だ。
「私はそう名乗ってるけど、前は違ったわね。……あぁ忌々しい。あいつのことを思い出すなんて」
眉をひそめ、ティアーナは舌打ちする。
その刹那、今来て欲しくはなかった人の声がした。
「――ニナ!!」
「ウィル」
息を弾ませてこちらに駆けて来るのはウィルであった。綺麗に整えられた飴色の髪は乱れ、蒼い瞳は心配そうにこちらを見つめている。
その背後には誰もいなく、兵士を連れてきてはいないことがわかった。
「だめ、こっちに来ちゃ――」
得体の知れないものが、人がここにいる。
彼を近づかせてははならないと、そう思ってニナはとっさに止めようとするがそれよりも早くウィルがこちらに駆けてきた。
「ウィル、戻って!」
「どうかしたのか? ぼうっとしているように見えたが」
「違う、あれが――」
歪みに向かって指を差すが、ウィルはその方向に視線を向けたまま首をかしげた。
何かあるのかと問う声に偽りはなく、不思議そうな瞳でこちらを見やる。
彼には見えないのかと思ったのと同時にティアーナが消えているのを確認し、ニナはとっさに周囲を見渡す。
「ニナ、どうした?」
蒼い顔をした恋人に声をかけるが、その彼女は忙しなくあたりに視線を動かしている。
何かがあったのだと察するが、周囲には何もない。
ただ一本の木があって、他には何も――
「ウィル……!!」
その瞬間、背中に強い衝撃を受けてウィルはたたらを踏んだ。
何とか踏みとどまり後ろに首をひねると、そこには異質な〝何か〟の中に入り込むニナの姿があった。
「ニナ!?」
ウィルは手を伸ばそうとするが体が動かず、ずぶずぶと黒く禍々しい歪みの中に入るニナを見て必死に名を呼ぶ。
動かない体に苛立ちを覚えながらも何とか力を入れようとするが、不思議なほど体は言うことを聞いてくれない。
その間にもニナは歪みに埋もれ――そして完全に姿を消した。
「ニナ……!!」
がくりと体が倒れこむ。
硬直していた体はすんなりと動き、先ほどまで空気が歪んでいた場所はすでに何もなく、ニナの姿もない。
その時からりと音がして顔を上げると、ニナが消えた場所には彼女の愛剣が転がっていた。
「なにが……」
「兄上」
目の前で起こったことが理解できない。
あまりにも突然な――思わず目が回りそうになった時、背後で柔らかな声が耳朶を打つ。
「兄上」
「……ロイア。ロイア、ニナが!!」
黒い髪を揺らしながら佇むのは、この丘に呼んだ張本人である。
「落ち着いてください、兄上。――彼女は、死んだんですよ」
「……死んだ?」
「ええ、そうです」
にっこりと微笑むロイアにウィルはめまいを覚えた。
何を言っているのだ、彼は。
ニナが死んだなど、そんなことがあるはずはないのに。
目の前で消えたのを見たのだ。死んでなどいない。
「ニナは、死んでいない」
「いえ、死んでます。受け入れてください兄上。これが事実ですよ」
「違う。今、たった今目の前で消えたんだ、ニナは……!!」
首を振るウィルに呆れたようにため息をついて、ロイアは肩越しに振り向き口を開く。
「兄上を城に。混乱なさっているようだ」
「ロイア!?」
「いいですか兄上。ニナは死んだんです。受け入れてください」
「ロイア、違う!」
「聞き分けのない人ですね」
冷ややかな瞳を向ける弟に、ウィルは愕然とした。
こんなにも冷たい態度をとるロイアは今までに見たことがなかった。
こんな、突き刺すような視線など。
数人の兵士に腕をとられ、力が上手く入らないまま引きずられるようにしてウィルは丘を後にした。




