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歪みの苑  作者: みづき
四章
67/82

<27>

「ニナ様。陛下から、今夜寝床に来るようにとの伝言が――」

「はぁ!?」

 布で剣の刀身を手入れしていた時、ニナは侍女の言葉にぎょっとし声を荒げた。

 すでに夕食は済み、時間があるためいつものように愛剣の手入れをしていた時である。

 ニナは危うく落としそうになった剣を持ち直して、扉の前に佇む侍女に眉をひそめた。

「ちょっ……なにか企んでるの? ウィルは」

「ニナ様、そんなことをおっしゃられてはいけませんよ。それに、婚約者となられてもう二年。一度も寝床に訪れては――」

 そこではっとした侍女は慌てて口をつぐむ。

 取り繕ったように小さく笑う彼女にニナはため息をついた。

「いいよ、別に。それに私とウィル、そんな関係じゃないから」

「……婚約、なさったんですよね?」

「そうだけど……」

 いぶかしむ視線から顔を背け、手入れの終った剣を鞘に戻す。小気味のいい音とともに腕に慣れた重さが加わり、彼女はふっと息を吐く。

 ――マリヤから警告を受けてからすでに一年が過ぎた。

 何かあった時のためにと警戒していたものの、ニナもウィルも、そして城内の誰一人として狙われることもなく平穏な日々が続いていた。

 あれは嘘だったのかと思うほど、以前と何も変わらない日々。

「マリヤも、あれから何も言ってこないし」

 ただの取り越し苦労だったのだろうか。

 何もない方がいいのはわかっているが、はっきりとしない現状にニナは眉をひそめた。

 いっそのこと、何かあってくれれば対処のしようがあるというものである。

「……ニナ様?」

「ウィルにはわかったって言っておいて」

「かしこまりました」

 小さく膝を折り、侍女は静かに部屋を退出する。

 それを見届けたニナは座っていた椅子から立ち上がり、外が見渡せる窓辺に近づいた。

「……私もウィルも十六歳。ここに来て、三年」

 このカルティア城でウィルの婚約者として過ごし、すでに三年の月日が経っていた。

 早いのか遅いのか。ニナにとってはわからなかったけれど、過ごした日々は楽しかったように思える。

 強引に連れてこられ、剣を人質に取られた挙句取り引きを持ち出し――思い出せば思い出すほど、ウィルの行動は傲慢で癪に障るものばかりだ。

 けれど、その中に優しさが見えるようにもなってきている。

「傲慢で勝手でわがままで……そんなところは、今でも変わってないけど」

 ふっと微苦笑し、ニナは窓に指を滑らせた。

 すでに外は闇に包まれ、部屋の灯りをもってしても視界は悪い。窓に映った自分の姿を一瞥し、ニナはウィルの元へ行くために侍女を呼んだ。

「――来たか」

 控えめに扉を叩く音とともに姿を現した少女に、ウィルは口元を緩めた。

 彼が腰かける豪奢な天蓋付きベッドは少女の部屋にあるものよりもさらに手が込んでいて、単に寝るだけだというのには高価すぎるほどのものである。

 これでは逆に眠れないのではないかと思ってしまう。

 部屋の中に侍女はいなく、ウィルひとりだけであった。

「……ちょっと?」

 少女――ニナは部屋の途中まで足を進め、途中で立ち止まりぴくりと頬を引きつらせた。

「言っとくけど、私が選んだわけじゃないから」

「あぁわかっている。侍女に着せられたんだろう?」

「わかってるならなんで笑うの」

 ぎろりと一睨みすると、ベッドに腰かけたまま肩を震わせていたウィルは顔を背ける。

「だいたいウィルが変なこと言うからでしょ!? だから、こんな格好――普通に部屋に来いって言ってくれればいいのに!」

「たぶん、部屋に来いと言ってもその格好だと思うぞ。――夜だと特にな」

 う、と言葉に詰まらせたニナは俯いて、ひらりとなびく生地を指でつまんだ。

 白で統一されている服は薄く、濡れれば透けてしまうのではと思ってしまうほどであり、さらにはさりげなくレースまでついている。

 胸元にはリボンが結んであり、まるで純白のようなその出で立ちは――

「昼間に呼んでよ!!」

 ニナは一番上に羽織っていた紺色の布を胸元に引き寄せた。

 さすがにこの格好で辺りをうろつくのはと思い、用意してあったこの布を引っつかんできたのだ。

「……で、何の用? わざわざ呼び出して。からかうために呼んだんだったら帰るからね」

 目に見えて張り切っていた侍女を前に、用意された服を着ないとは言えず顔をしかめながらも袖を通したのだ。

 もしもからかうために呼んだのであれば――とニナが思っていたとき、ウィルが軽くベッドを叩く。

「話はここでな」

「……なんのつもり?」

「もう眠いだろう? だから寝ながら話そうかと」

 目を細めたニナを怖がる素振りも見せずにウィルは手でニナを手招きした。

「そこは冷える」

「……ウィル」

「何もしない。ほら、来い――ニナ」

 突然低く、少し甘ささえも滲ませる声色にぴくりとニナの肩が揺れた。

 一瞬迷い、けれどそろりと足を踏み出してニナはベッドの上で待つウィルの元へ向かう。

 滑らかなシーツの上に座ると二人分の重さを受けたベッドがぎしりと鳴った。

「……話は」

「まずはこれを飲め。話はゆっくりでいいだろう?」

 ベッドのそばにある小さなテーブルの上には、二つのグラスと薄く色のついた液体の入った水差しのようなものが置かれていた。

 それを手に取り、ウィルは慣れた手つきでグラスに液体を注いだ。

「変なもの、入ってないよね?」

「マリヤが用意したものだ」

 ほら、とグラスを手渡され、ニナはおずおずとそれを口に運ぶ。

 少し口に含んで流下すると、その味に目を瞬いた。

「これ……」

「果実水だ。果汁水ともいうか。水に絞った果汁を入れてるんだ。飲んだことあるだろう?」

「あるけど……いつもと違う」

 ゆらゆらと波紋を描くそれはかすかに色がついていて、いつも飲んでいるものよりも喉ごしがさっぱりしている。

 柑橘系なためか甘さも控えめで、これならたくさん飲んでも甘さが嫌になることはない。

 日常的に出されるそれは、少し喉に甘さが残るのだ。

「いつも飲んでいるのは甘さが強めなんだ。夜に出されるのはたいていこれだ」

 朝や昼間に飲むものよりも甘さが控えられているらしい。

 夜に飲んだことはなかったが、ニナはこちらのほうが好みだった。

「ふうん。次からはこっちを頼もうかな」

 もう一度果実水を口に含み、その優しい味に頬を緩ませる。

 その姿を横目に、ウィルはグラスを一息であおり深く息を吐く。

「ニナ」

「なに?」

 ちらりと視線を上げると、遠くを見つめている蒼い瞳が視界に映る。

 少し濡れた飴色の髪はさらに色濃く感じ、それと同じくいつもよりも深い色をしている蒼い瞳は何かを探すように揺れていた。

 まるで言葉を探しているような――そんな時、小さく開いた彼の唇からぽつりと声が漏れる。

「そばに、いてくれると……ここに来た時言ってくれたな」

「……うん」

「どんな俺でも――どんなことをした俺でも、変わらずそう言ってくれるか?」

 どこか遠くを見つめたままそう問うウィルに、ニナは少し迷って首を軽くひねった。

「場合による。どんなことをしたって言っても、やっぱり全部なんて無理だし」

「そうか」

 ニナの答えを聞いて小さく笑うウィルは、少し視線を落として口を開いた。

「俺は――両親をこの手にかけた」

 ぴくり、とニナの肩が揺れる。

 あまりに衝撃的な発言に思わずウィルを見やるが、その瞳は虚ろで何かを探すようにあたりを彷徨っていた。

「……両親って……国王と、王妃だよね」

「あぁ。俺と、ロイアの母親と父親で……俺が、十歳の時だった」

 今でも鮮明に思い出せる、母の声。

 悲痛な叫び声は幾度にも重なり、ただ殺してくれと叫ぶ〝音〟となる。

「ある日突然母上が剣を――剣を持って、首に。部屋に呼ばれた俺は、その光景を見て……それで、母上に剣を渡されて」

 ぽつりぽつりと紡がれる言葉にニナはぎゅっとグラスを持つ手を握り締めた。

 口を挟んでいいのかわからない。

 何かとても大切なことを言おうとしているウィルを、止めてもいいのだろうか。

 けれど、今打ち明けようとしてくれている過去は、きっとニナにとって身近なものだ。

「剣を、握らされて――殺してくれと、頼まれた」

 音もなく、ニナは息を呑んだ。

 あたりを彷徨う蒼い瞳は濃度を増し、暗く深い。

 そんな彼から発せられた過去は――なんと残酷な。

 たった十歳である彼に剣を握らせ、唯一無二の母親からの、あまりに残酷な懇願。

 見たこともない当時の彼を想像し――震える手で剣を握り締めたまま、泣き叫び懇願する己の母を見て蒼白となったウィルの姿にニナはぎゅっと目を瞑る。

「母上は、下町に住むただの娘だったんだ。それを父上に見初められて城に……本当は、来たくなんてなかったのに」

 母にはそのとき想いを交わす相手がいたとウィルは語る。

 それを父が強引に引き離したのだと。そして、そのせいで心を壊していったのだと。

「父上は国王だったから公務に忙しく、なかなか母上と会うことも話すこともできなかったらしい。そのせいもあって、母上はなぜ自分は結婚させられたんだと周りに言っていたと聞いた」

 恋人と引き離され城に閉じ込められ、あまつさえ夫となった男はろくに顔も見せに来ない。

 慣れない城での生活に、加えて王妃の座である。

 ただの下町に住む民であった彼女は周りからの好奇の視線や心無い言葉に心身疲れ果て、けれどそんな中でも国王である彼は少しでさえも会いには来なかったのだ。

 何のための結婚だったのかと、それならば適当に都合のいい隣国の王女でも迎えればよかったんだと彼女がぼやいていたのをよく侍女らは耳にしたらしい。

「本当に母上を好いていたのかも怪しいくらいで……でも、俺が母上を手にかけたとき、父上は」

 部屋に入ってきた父は向けられた剣と、床にひれ伏す真紅に染まった妻を見てかすかに口元を緩めたのだ。

 それはほんのかすかで、普段あまり感情を表に出さない父のわずかな変化。

「一緒に父上も殺してくれとせがんだ母上の言葉どおり、俺は剣を振るった。――父上は、抵抗しなかったんだ」

 振り上げられた剣を目の前にして、父はその状態のままそっと目を閉じ――そして最後には、真っ赤な花を咲かせた妻に寄り添うようにして息を引き取った。

「その直後、父上の側近に見つかって……二人を殺したのは俺ではなく暗殺者だろうと推定された。血眼になって探していても、結局情報も得られないまま時が過ぎ、俺は王位を継承した」

 そして今だ、とウィルはつぶやく。

 隣で静かに聞いていたニナはウィルの口から語られる過去に唇を噛んだ。

 前国王と前王妃が亡くなっていたのは知っていたが、まさかそんなことがあったとは。

 そしてその二人を手にかけたのは紛れもなく――

「……ウィル」

「ニナ、教えてくれ。父上はどうして抵抗しなかった? 俺は、ただ母上に頼まれたから――ただ、この手で剣を振り下ろしただけだ。犯人探しに必死になる兵士たちを見ては、その必死さに疑問を覚えたんだ」

 その張本人が、殺してくれと頼んだのだろう。

 ならばなぜ、第三者がとやかく言うのだろうか。

「ニナ、俺は――」

 ウィルの瞳がちいさく光るのが見えて、ニナはたまらずその体に腕を回した。

 頭を抱えるようにして抱きしめると、飴色の髪が柔らかく顔を撫でる。

「ウィル、もういい」

「ニナ?」

 そこで、ウィルははっと気づく。

 頬に流れる温かな雫と、視界がゆらりとかすんでいることに。

 自分は泣いているのだと、けれどそう気づいてもなぜ泣いているのかわからなかった。

 辛いことなどない。

 涙を流すような出来事さえなかったはずなのに。

「ウィル、ウィル」

 ぎゅっと抱きしめられる腕に力がこもる。

 何度も名を呼ぶニナを不審に思い声をかけると、さらに腕の力が増した。

 さすがにそれは苦しいと抗議しようかと口を開けたが、結局何も言わず口を閉ざした。

「ウィル。たぶん、国王――ウィルのお父さんは、ウィルのお母さんが好きだったんだよ。ただ、好きだったんだよ」

「……好きならばなぜ、顔も見せに来ない? 母上が死した時、俺に怒りも悲しみも見せず剣を受け入れた?」

 それはきっと、ただ愛していたからだろう。

 好きすぎて、愛しすぎて――どうすればいいのかわからなくて。

 突然夫となった自分に対してよく思っていなかったのは、きっと知っていたはずだ。だから余計に近づくこともできず、距離は離れる一方で。

 だから妻が死んだ時、なら自分もと――彼女の傍で、これからはきちんと守っていこうと。

 そう思って、ただ。

「だから、ウィル。あなたのせいじゃない。あなただけのせいじゃないんだよ。ウィルがお母さんを殺してしまったのも、ウィルだけが悪いんじゃない」

 人をその手にかけてしまうのは、許されることではない。

 それはわかっているが、ニナ自身も偉そうに言える立場ではないのも知っていた。

「母上は、喜んでくださっただろうか。父上は、俺を恨んでいない……?」

 ぽつりと、ウィルの気持ちがこぼれ落ちる。

 きっとそれは、長年心の奥底に閉まっていた本当の気持ちの欠片。

 きっと何よりも、そのことを案じていたに違いない。

「恨んでないよ。お父さんも、お母さんも」

 柔らかな髪を撫で、何度も諭す。

 どんな言葉をかけても過去は変わらない。ウィルがしたことは消えない。

 けれど――

「こうやって変わらず国を導いてくれているウィルに、感謝してると思う」

 自分たち亡き後の国を、自分たちが愛した国を子どもが守ってくれている。

 それを感じたことで、おそらく彼らは喜んでくれているだろう。

 それは、ニナの想像に過ぎないけれど。

「そう、か……そうか」

 静かに流れる涙は頬を滑り、膝の上に落ちる。

 ウィルを抱きしめた状態のまま何度も頭を撫で続けたニナは、しばらくして落ち着いたウィルにそっと囁いた。

「ねぇ、ウィル。私も聞いて欲しいことがあるの。――聞いてくれる?」

 それは誰にも話したことのない過去。

 忘れ去ることなどできないそれは、彼になら話してもいいと――彼に聞いて欲しいと、そう思った。

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