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歪みの苑  作者: みづき
四章
65/82

<25>

 兵士たちに見つかってはまずいからと、ニナとウィルはこっそり城を出た。

 森を抜け、目の前がいきなり開けたかと思うと賑やかな声が耳朶を打つ。

 眼前に広がる大通りにはたくさんの露店が立ち並び、風に乗って甘い匂いや芳ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 相変わらず人が多いが、その人波の間をぬって小さな子どもが器用に駆け回っているその光景は色鮮やかで、人々の活気が目に見えるようである。

「見たいものでもあったか?」

 下町へ行くときにいつも着ているという、質素で大きめの服を見に纏ったウィルはそんな光景をどこかまぶしそうに眺めていたニナに声をかける。

 フードですっぽりと顔が隠されたその姿は、とても国王には見えなかった。

「ううん。……ウィルのおすすめってどこ?」

「ここから少し歩く。路地裏にあって外観は悪いが、味は確かだ」

 艶やかな黒髪をひとつにまとめ、同じく質素で動きやすい服に身を包んでいるニナはその言葉に頷いた。

 もちろん、その腰には手入れのされた剣が携えてある。

 ――細い路地をいくつか曲がると、そこに漂う異質の空気にニナは眉をひそめた。

 どんよりと暗く、体に纏わりつくような空気は気味が悪い。

「なに、ここ」

 思わず腕で自らの体を抱く。

 淀んだ空気は息をするだけで吐き気を起こしそうだった。

「ねえ、ウィル。本当にこんなところにあるの?」

 大通りの喧騒はとうに消え、不自然なほど静かなこの空間。

 こんなところに店があるとは思えず、背を向けて歩くウィルに口を開いた。

「ウィル……?」

「あぁ。もう少し行ったところだ」

 何か様子のおかしいウィルに首をかしげる。

 この淀んだ空気でぼんやりしているのかと思っていると、ふいに視界が明るくなった。

「ここだ」

 さきほどまでの異質な空気は消え去り、ニナの目には少し拓けた場所にある、明るく賑やかな店が映った。

 外観は簡素でどこか古ぼけているが、店の外まで漂う料理の匂いと楽しげな笑い声。

 慣れた足取りでウィルが店内を覗くと、腰に布を巻きつけた恰幅のいい男が驚いたように目を丸め、すぐに顔をほころばせた。

「久しぶりだなぁ! 前は週に一度くらいで来てたのに……野暮用か?」

「ああ、色々あってな。席は空いてるか?」

「奥なら空いてる。――そこの嬢ちゃんもどうぞ」

 にやにやと、含み笑いを浮かべている男店主はウィルの後ろに隠れるようにして立っていたニナに声をかける。

「今日は何にするんだ?」

「おすすめは?」

 二人がけの席に案内され、ニナはきょろきょろと店内を見渡した。

 木造の店内は所々黒く、天井には何かのシミができており、テーブルなどは端が欠けているものばかりである。

 けれどそれがこの店の雰囲気に合い、まさしく隠れ家というような風貌であった。

 席はほぼ満席で、皆口々に料理に舌鼓を打ちながら会話に花を咲かせている。

「今日のおすすめは新作だ。客の評判もいい」

「ならそれと、いつものやつ二人分頼む」

「あいよ」

 一つ頷いて、店主はカウンターの奥に消える。

「ウィル。ここってよく来るの?」

「あぁ。下町に降りるときはいつも立ち寄る。店の見た目は悪いが、そこらの店よりうまいぞ」

「いつもって……」

 そんなに頻繁に立ち寄るのか。

 しかも週に一度など。

 国王が一体何をしているのだと、ニナは呆れたように息を吐いた。

 そのとき、目の前に大きな皿が音を立てて置かれた。

「これが今日のおすすめだ。それとこれが、いつものな。――じゃ、ごゆっくり」

 スープの入った皿と、焼き立てであろう甘く芳ばしい匂いのするパンが敷き詰められた籠が二人の前に置かれ、店主は呼ばれた客の元へ去っていく。

 テーブルの真ん中に置かれた、一際大きな皿。

 食べやすい大きさに切られた肉が盛られ、その周りには色鮮やかで新鮮な野菜が添えられている。

「い、いただきます」

 豪快な料理に目を見張ったニナは、芳ばしい匂いのする肉をひとつ手元の取り皿に移す。

 よく見てみると焦げ目のついた肉の間に野菜が挟まれており、食欲を誘う匂いを漂わせていた。

「……うまいな」

 先に肉を口に含んで咀嚼したウィルは口元を緩める。

 ニナも続いて口に放り込むと、わずかに目を見張る。

「……おいしい」

「次来たときはこれも頼むか。このパンとも合うぞ」

 深めの籠に入れられたいくつものパンは焼き加減もよく、ちぎるとふわりと甘い匂いがした。

 スープも口に含めば野菜の味が染み渡り、そこに少しパンを浸して食べるとそれもまたおいしかった。

「こんなの、路地裏でやってる店で出すものじゃない。もっと大通りとか、目立つところでした方がいいのに」

 入り組んだ路地ではあまり人は来ず、常連ぐらいしか訪れては来ないだろう。

 それは勿体無いと思い、ニナは眉をひそめた。

 表通りでやれば客足は確実に伸びる。

「店主がそういうのには無頓着だからな。基本、ここを経営していられるだけの収入があればいいんだろう」

 そういうものなのだろうか。

 ニナは首をひねりつつ、すっかり空になった皿たちを眺めて満足そうに息をついた。

「おいしかった。次下町に降りる時にでもまた来ようかな」

「ならその時は俺も行こう」

「うん」

 すとん、と口から出た言葉とともに頷くと、ウィルが目を瞬く姿が目に入る。

 けれどそれも一瞬のことで、次の瞬間にはふわりと淡い笑みをこぼした。

「また来よう」

 何かを確かめるようにそう頷いたウィルを見て、小さく跳ねた心臓を無視してニナは席を立つ。

「――ウィル。見たいところがあるの」

 また来いよと笑う店主にお金を払い、二人は肩を並べて店を出る。

「侍女の間で人気の店があるんだって」

 どうやら菓子が売っているらしく、値段も手ごろでしかもおいしいらしい。

 種類が豊富で、季節ごとに旬な食材を使った菓子もあるため度々買いにくるという。

 今年は何を売っているのか、探しにくるだけでも楽しいらしい。

 ならそこに行くか、とわずかな微笑をたたえたウィルとともに、再び大通りを目指した。

 ――路地裏を抜け大通りの前に出ると、賑やかな声がニナを包む。

 気を抜けば人波に流されてしまいそうなほど人が多い。

 ウィルの後をついて歩くが、人に押されてうまく歩けない。よろけばそれだけで流され、踏み止まることすら難しい。

「ニナ」

 ふいに、呼吸が楽になる。

 押しつぶされそうな感覚もなくなり、とっさにニナは顔をあげた。

「大丈夫か」

 ニナの腕を掴んだウィルは、彼女を囲うようにしてそこにいる。

 フードを被ったその奥で、蒼い瞳が気遣わし気に揺れた。

「だ、大丈夫。ありがとう」

 素直に口から出た謝礼に、わずかにウィルが目を見開く。

「え?」

「……いや、なんでもない」

 何だと思って小首をかしげると、ウィルは顔を背けて今度はニナに負担がかからないように歩き始めた。

 周りに押しつぶされないように小さな隙間を作り、時折振り返る。

 一年前なら取らなかった行動だろうと、ニナは微苦笑した。

 きっと、強引に手を引いて歩いていくに違いない。

 そして歩くのが遅いと、わずかに苛立った声で言うだろう。

「……変わったのは、私も?」

 以前ならこうしてウィルとともに下町へ降りたりはしない。

 目の前で揺れ、太陽の光に反射して輝く飴色の髪を見つめながら、ニナはそんなことを思った。

 ――兄上、と呼ぶ少年の声にウィルは視線を走らせていた書類から顔をあげた。

 ニナと下町へ行ったことは幸いジャンソンには知られていなく、うまく兵士がごまかしてくれたらしい。

 すでに日が傾いているのが窓から見え、執務室はわずかに薄暗い。

「兄上。以前と、変わられましたね」

 ウィルとは違う、黒い髪をしているロイアの言葉に小首をかしげた。

「以前より、丸くなられました」

「……そうか?」

「ニナが、来てから」

 彼女がここに来たのは一年以上前である。

 その時よりも丸くなったと言うロイアはわずかに微笑む。

「ニナと下町へ行ったそうですね。あぁ、ジャンソンには言ってないので大丈夫です。様子のおかしい兵士に聞いただけなので」

「……そうか」

「何か買ってあげたんですか?」

 せっかく下町へ行ったのだから、というロイアに苦く笑う。

「いや、いらないと言われたんだ。渡してあるお金も使っていないらしいから、俺が払うと言ったんだが……」

 見事に断られた。

 大通りの露店を見ていた時も、ニナが気になっている様子なのを見ては買うかと問い、金は払うと言えばいらないと返される。

 ここまで来たのだからひとつくらいは、というウィルに首を振って、見てるだけで十分だとニナは言った。

 そして結局、何も買わずに城に帰って来てしまった。

「ひとつくらい、何かあげたかったんだが」

 ニナには聞かず、自分で買って彼女に渡せばよかったのかとウィルは唸る。

「――本当、変わられましたね」

「そんなに変わったか?」

「はい。楽しそうです、前よりも。――兄上」

「……なんだ?」

「いえ。幸せそうで、なによりです」

 にっこりと微笑んだロイアに、自分は幸せなのかと目を瞬いた。

 確かに、ニナが来てからというもの毎日が少し変化したような気がする。

 強く、凛と見つめてくる瞳。

 動くたびに揺れる、黒く艶やかな髪。慣れないであろうドレスは動きにくいらしく、ならばと以前着ていたような服を紛れ込ませれば軽やかに廊下を走っていた。

 見かけるたびに声をかけ、初めこそ苛立たしげな瞳を向けられていたが、いつの日からか諦めたように普通に接してくれた。

 それがどこか嬉しくて、見かけるだけではなく自ら彼女を探しては声をかけた。

「――そうか」

 自分は幸せだったのかと、彼女と一緒にいられて嬉しかったのだと、今更ながらに気がついた。

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